幸福の咎

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「車出せ」
そう言われたのは九月の初めだった。まだまだ暑さの残るよく晴れた日曜日の朝で、それが人にものを頼む態度か、と呆れたことをよく覚えている。床に転がったあの人の時計を拾い上げながら、その時のことを思い出した。二度ほど投げ付けられた時計は、最初は体に当たった。次は顔のどこかその辺。秒針は前に前に進んでいて、後ろには決して戻らなかった。時間って戻らないんだっけ?なんて当たり前のことをぼんやりと考えながら、無音のまま円を描く針を見つめる。去年あの人が修理に出したこれを、俺はよく覚えていた。
車出せ、そう言われて振り返ると、三井さんは別段変わりない表情で俺を見ていた。今日は天気もいいしバイク弄りしてえな、と考えていた俺は、面倒だと顔に思い切り滲ませながら嫌だと言う。何でだよいいだろ、彼は俺が車を出すことをさも当然のように、拒否するなんてまるで考えていなかったかのようにきょとんと目を丸くして俺を見ていた。すると今度は、飯奢ってやっから、と金で釣ると来たもんだ。はいはい、そう言って息を吐くと、今度は目を輝かせた。百面相、俺はこの人のくるくると変わる表情を見る度にこの言葉を思う。また横浜ですかねー、はっと息を吐いて嫌味交えて言うと彼は、そうだよ、と平然と返して来た。この人はもう、自分の予定は覆されないと思っている辺りが厄介だと俺は思う。もっとも、呆れながらも言うことを聞く自分もどうかと思うけれど。また買い物っすか、と嘲笑交えて聞くと次は、違う、と返された。え?自分でも素っ頓狂な声を出したと思う。
「じゃあ何しに行くの?」
「時計壊れちまってよー」
ベルト部分を持って軽くぶらぶらさせながら文字盤を眺め、どっかぶつけたっけ?と彼は小さくぼやいた。
「新しく買うの?」
やっぱ買い物じゃん、そう思ったけれど言わなかった。
「いや、修理に出す」
「時計って修理に出すもんなの?」
「お前知らねーの?はは、ばっかー。よーく聞け。時計っつーもんはな、ただお高いだけじゃねーんだよ。上手く使えば一生もんだぜ?」
あんたが修理すんのか偉そうに、と突っ込みどころは満載だったけれど、この小さな機械をどうやって直すのか、そこに興味はあった。もっとも、一生使えるという言葉に若干疑問は覚えたけれど。というよりも、一生という言葉が酷く陳腐なものに聞こえた。だってあんた今幾つよ一生ってじいさんになるまで使えるってことだろ?つまりそういうことだ。一生なんて言葉を簡単に使ってどうする、そこに俺は疑問を感じた。
「これさあ、初めてのボーナスで買ったんだよね。アシスタントコーチになって初めての。ぜってえ大事にするって決めててさ」
「ふーん」
つまらない相槌を打ってはいたけれど、この人のそういう姿勢はいつも好感が持てた。無駄に高い買い物をしている訳ではなくて、意味を持ってして買うのだ。俺にとって物は物で人は人という感覚しかないから、そこはイコールで結び付かなかった。この、自分とは少し違う感覚が不思議で、けれども違和感なく受け入れられた。真似はしないけれど、嫌いじゃないし苦手でもない。教えられているようで、そういう瞬間、俺はいつも聞いていないような相槌を打つ。
「あ!てめ、話聞いてねーだろ!今オレ結構いいこと言ってんだけど」
ほらほらこういうことだ。だから俺はこの時、聞いてる、と返した。けれども彼は、嘘吐け、と舌打ちを交えて言う。信じて貰えねえんだよなあ、と思っても決して口には出さなかった。三井さんはもう、嘘だと思っているからだ。否定を肯定にひっくり返すことが難解だということは容易に分かる。だから、わざわざそれを覆そうとはしない。
「はいはい、ほら準備しろよ。横浜行くんだろ?」
「分かってるって。お前も急げよ」
はいはい、そう言って、煙草を持ってベランダに向かった。ベランダ行くな!という彼の吠えた言葉は無視をした。三十分後、横浜に向かった。日曜日のルミネ横浜は混んでいて、いつもはパチンコで時間を潰す所だけれど、今日は付き合って一緒に歩いた。彼が修理に出すという時計に興味があったからだ。店内は腕時計がずらりと並んでいた。それを眺めていると、三井さんは早速スタッフの男性に話し掛けていた。動かなくなってしまって、そう言って彼は、ローマ字のロゴが付いた箱を開けて時計を取り出す。きっと、その箱に梱包されていたのだと思う。それを横目でちらりと見遣り、すぐに小さな機械に目線を移した。今までまるで興味のなかったそれは、妙に目を引いた。繊細な形の物もあれば、ベルトから何まで金属製の物もある。三井さんの時計のように、革のバンドで文字盤が大きめな物も勿論。面白いな、とショーケースに並べられた様々な機械を眺めた。それぞれ秒針の位置や針の長さが違う。どうやって修理するんだろう。
「何かお探しですか?」
その時、落ち着いた声が聞こえて顔を上げる。見るとそこには、中年ではあるけれど、それを格好良く滲ませた男性が立っていた。背も高く、すらりとした体躯に丁寧な口調だ。
「いや、面白いなって見てました。こんなに小さな機械を修理に出すっていうからあの人」
広くない店内で彼を顎で示すと、三井さんは笑いながらスタッフと話していた。きっと修理の算段に違いない。
「彼が購入された時計はスイス製の物なんです。値段はしますけどね、その分価値がある。丁寧に使われていますよ。時々メンテナンスにも出されるし」
「へえ」
丁寧に、ねえ。呟くと、男性はにこりと笑う。
「よろしければご覧になられませんか?」
「え?」
「時計の中身です」
そう言うと彼は、一度踵を返した。すぐに奥の棚から何かを取り出してまたこちらに足を向ける。目を凝らさなくとも分かった。トレイの上に乗ったサンプルのような腕時計だ。目の前に置かれたそれは、文字盤の中身が剥き出しになっている。
「細かいですね。すげえな」
圧巻してしまい思わず言うと、彼は目を細める。
「これがローターです。これが切り替え車と呼ばれる歯車で、その動きに応じて回転する仕組みになっています」
一つ一つの小さな金属を指で刺して、彼は丁寧に説明した。リューズを動かしてゼンマイ部分を回したり、大きさの違う小さな車部分を動かしたりと、それをする彼の指先は生き生きしていた。この人は時計そのものが好きなんだ、俺が整備士そのものを楽しむみたいに。
「あの人の時計、上手く使えば一生ものなんですか?」
「うーん、どうかな」
彼は首を傾げ、一瞬だけ目を伏せる。
「やっぱりね、所詮時計は物だから、人だと思うんですよ。三井さんのように丁寧に使う方もいらっしゃれば、コレクターの方も居る。乱暴に扱う方も勿論いらっしゃいますしね。扱う人がどのように使うか、じゃないかな?秒針が止まったら放っておくのか修理するのか、一生使えるかどうかはその人次第ですよ」
その人次第、ぼそりと呟いてから、そうですね、と返した。また彼は、目を細めて笑った。しばらくすると、三井さんが俺の隣に立っていた。どうやら用は済んだらしい。済んだ?と聞くと、おう、と短く彼は言った。会釈して時計屋を後にして、三井さんはいつもの店を周り出す。俺はもう、煙草吸いてえなあ、と考え始めていて、後から連絡して、と彼に告げて別行動を始めた。それから帰宅する前に食事をしたのだけれど、勿論三井さんの好きな店だった。が、奢るというのは本心だったらしく、財布は彼が出した。ご馳走さま、と言うと彼は、歯を見せて笑った。その、酷く機嫌の良さそうな表情を見ると、ひょっとした拍子に俺も釣られてしまう。珍しい緻密な機械も見ることが出来て、帰宅中の車内も悪くないと思えていた。
静かになった室内を見渡すと、自分以外には誰も居なかった。三井さんは出て行ってしまって、手元にあるのは、さっき拾い上げた時計だけだ。秒針をしばらくの間眺めていると、円を描いて進んでいた。時間は止まることなく一定に進んでいる。良かった、そう思った。これが壊れなくて良かった。そして、とうとう「明日」が来たのかもしれない、とも思った。ずっと切り出せなくて飲み込んでいた「明日」は、拍子抜けするほどあっという間に、短時間で去って行った。
長らく時計を持っていたからか、それは人肌に温まっていた。繊細な機械には良くない気がして、持っていたあの人の時計をローテーブルに置いた。掌がじわりとしていて、妙な違和感があった。何が違和感なのかは分からない。それから床に転がっているダウンジャケットを拾い上げて、ハンガーラックに引っ掛けた。次は投げられたキーケースを拾う。腰を屈めて、それを手に取った。こめかみの辺りがちくりと痛む。痛んだ箇所に触れると、指先に赤が滲んだ。血が出てる、その液体を着ていたパーカーの袖で拭った。擦ると引き攣ったような痛みがあったけれど、何ら問題はないように思う。キーケースを手に持ったまま、一度リビングを出た。玄関にそれを戻して、またリビングに戻ろうと踵を返した。その直前、玄関先をちらりと見遣ったけれど、あの人の気配は当然ない。フローリングの冷たさが、妙に足の裏を伝う。酷く神経に触った。そうだ血を流さないと。リビングに戻る途中で、洗面所に入った。顔を洗ってタオルで拭いた時に、自分の顔が見える。左頬が赤く、腫れていた。こめかみの傷は意外と深かった。傷が付いた顔を見るのは久々だった。パーカーの袖口には未だに血が滲んでいる。血って落ちねえんだよな、そんな的外れなことを考えながら、リビングに戻った。
部屋は暖かくて、噎せ返るようだった。喉に詰まった違和感が、何度唾を飲み込んでも拭えなくて咳払いをしてみる。それでも治らなかった。寝室に行き、収納から絆創膏を取り出した。また血が流れたからだ。眠っている時に、あの人が買ったベッドに染みが着いたら嫌だった。もう一度袖口で拭った後、痛む箇所に貼っておいた。リビングに戻ったけれど、耳鳴りがしそうなほど静かな部屋は、何も変わりなかった。廊下に続くドアを見るけれど、誰の気配もない。俺以外居ない。ローテーブルに置いておいた携帯を手に取った。着信はなかった。当然だと思った。
その日の夜、夢を見た。俺は小学生で、季節は夏で、夏休みの初めだった。酷く暑かった。毎日暑くて蝉の鳴き声がずっと耳に届いていた。鳴き続けるその声に、うるせえなあ、と呟いた。そう言った所で当たり前にその鳴き声が消えることはなくて、わんわんわんわん、嫌になるほどうるさかった。夏休みの間俺は、手の中には大切な何かを持っていて、その何かは分からなかった。毎日握っていたのだけれど、知らない誰かから借りた物だということは知っていた。夏休みが終わりに差し掛かり、それを返さなくてはならないことを知った。借りた物は返さなきゃ駄目よ?ばあちゃんが言ったけれど、俺はかぶりを振った。返したくない、言いたかったけれど言えなくて、ただ拒絶を示すことしか出来なかった。嫌だ、そう言おうと思った。だって俺今までわがまま言わなかったろ?欲しい物を聞かれても全部要らないって言ってきたよ。どうしても欲しいのに何で駄目なの教えて。言おうにも飲み込むことしか術を持たないから、上手く伝えられない。閉ざすしか出来なかったから言葉の伝え方が分からない。ねえどうして?どうしても返さなきゃいけないの?
「だって夏休み終わったんだから」
ぎょっとして振り返ると、スーツを着た三井さんが立っていた。俺を見下ろして、その目がもうここに居ないことを示していた。目が覚めると、隣には誰も居なかった。携帯を手に取って連絡の有無を確認したけれど、何も告げられてはいなかった。仕事行かないと。現実は誰の前にも否応なく突き付けられる。
こめかみに貼ってあった絆創膏を外した。血の塊とかさつきで、少しだけ痒かった。ここで触れると、また血が出るということは昔から知っていたから触らなかった。普段通りに朝食を摂り、弁当箱に残り物を詰めた。水戸、そう呼ぶ人は帰って来ていない。夏休みは終わったんだから、夢の中のあの人は、酷く冷めた目で俺を見下ろしていた。それが頭から離れない。
職場での昼休みに、喫煙所で携帯を眺めた。今日は木曜日だから、あの人が遠征に行くならそろそろの筈だ。一度帰宅するのかもしれない。メシどうするんだろう、俺が考えることは相変わらず的外れにも程がある。もっとも、何が正解で何が不正解なのか、何が的を得ているのか、答えが全く見付からないのだけれど。長方形の機械を開いては閉じて開いては閉じる。そういえば三井さんは折り畳み式じゃない携帯を持っている。お前はいつまで経ってもガラケーだな、と息を吐くように笑って言われ、小馬鹿にされたなと思いながらも、あんたみたいにいちいち俺に使い方聞くなら持ってる意味ねえよ、とは返さなかった。そう、いちいち聞いていたのだ。水戸、なあ水戸ー、水戸!アプリが!と。皮肉を返さなかったのは言う必要がないと思ったからで、飲み込んだ訳ではなかった。何て返したっけ?ああそうだ。ガラケーで十分だよ、だった。そうしたら彼は、ほら見てみろ、と自分の使っている携帯を自慢した。そして自慢気に何やら立ち上げ、分からなくなったらホームボタンを押した。な?すげーだろ、とぼろが出そうで多少焦りながら言ったから、あんた分かんなくなったんじゃねえの?と笑った。三井さんはまた慌てていた。
メシどうするんだろう。結局その疑問のメールも電話も、することは出来なかった。だってもう、夏休みは終わったんだから。そう言われたらどうしよう。
「情けねえなあ」



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