幸福の咎

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翌日の夕方、スポンサーとの会食だと説明して、練習には参加しなかった。強ち間違っていない。とりあえずは一番高価なスーツを着た方がいいと思い、それに着替えた。濃いグレーのスーツに白地で黒のロンドンストライプのシャツ、それからワッフルニットウールのグリーンのネクタイ、これならさほど気取り過ぎて気張ってもいないしカジュアル過ぎない。時計はそのままでも良さそうだった。着替えてネクタイを締め、時計を付け直した直後、思わず溜息が漏れた。何が悲しくてこんな見合いじゃねーけどお嬢様のご機嫌取りみたいなことしなきゃなんねえの?思うだけでなく、声に出した。一つ舌打ちをして、指定された場所に向かった。
場所は横浜にある某ホテルのメインダイニングだ。ホテルに着き、辺りを見渡すと横浜港を一望出来る場所にあって、悲しいかな夜景が酷く綺麗だ。ベイブリッジも見えるし光が港に反射して、思わず目を瞠る。そういえば、ここは水戸とは歩いたことがない。二人で行ったことのない場所が、神奈川でも山ほどある。また溜息が漏れる。まあいいや、高級フレンチに高級なワイン、しかもスポンサー付き。食うだけ食ってさっさと帰ろう。そう決めた。店に入ると、いきなりディレクトールに出迎えられる。島崎さんと待ち合わせで、と言うと、お待ちしておりました、と会釈される。居心地わりーなあ、とむず痒くなりながらも後ろに付いて歩いた。店内は平日だからか、客は疎らだ。見渡してみても、大っぴらに気取っているようでそうでもなさそうだった。まあいいや、と急に緊張が解ける。糸が切れた感覚だった。その時、明らかに浮いている女の子と目が合った。若いからだ。この店で食事をしている客達は、ほぼそれなりの年齢に見えた。ただ、この子だけは違う。ぱっちりとした瞳を瞬きして、普通に可愛い子だった。こいつだな、と思ったと同時に、まだ子供だ、とも思った。確かまだ十九。
「あ、三井コーチ!」
「どうも、初めまして。サンダースの三井です」
頭を下げると彼女は、頭上げてください、と転がるような声を出した。地声かな、と思った。頭を上げてもう一度軽く会釈して席に座ると、酷く視線を感じる。
「やっぱり三井コーチ超かっこいい。超イケメン」
「はあ、どうも」
「島崎ゆりかです。今日はゆりかのわがまま聞いてくれてありがとう」
かぶりを振ると、彼女は口角を上げて笑った。めんどくせ、とも思ったけれど、じいさんこれは可愛くて仕方ねえだろうな、とも思った。妙な好意を受け取った訳でもなくて、何というか羨望に近いような、そんな表情で彼女はオレを見ている。
「あのね、お祖父ちゃんが料理に合うワインも一緒に頼んでおいてくれたんですよ。だからたくさん食べて飲んでね」
ゆりかはジュースだけど。彼女が悪戯っぽく笑った直後、ソムリエらしき男性が、グラスに食前酒を注いだ。やっぱり堅っ苦しい店、と思いながらも、目の前に居る人が何で彼女なのかとも思う。もっとも、あの男はオレが誘ったとしてもこんな店に来るとはとても思えないけれど。それでも水戸は、敷居の高い店だとしても、それなりにマナーは心得ていそうな気がした。オレはスポンサーとの会食に数える程度連れて来られたことはあれど、一対一というのは初めてだった。
次第に運ばれて来る料理を口に運びながら、彼女の話を聞いていた。何度か試合は観たことがあって、とか、お祖父ちゃんに付いて行ってね、とか、ころころと回る舌から出て来る綿菓子みたいな声が耳に入る。耳障りではなかったけれど、平坦だなあ、とは思った。
「つまんないでしょ?」
「え?」
「いいよ、分かってるから」
「まあ、正直つまんねえ、です」
「あはは!敬語もいいから」
屈託無く笑う彼女に好感が持てて、オレも思わず笑った。
「あのね、ゆりか彼氏が居るんだよね」
「はあ」
何だ急に。そうは思ったけれど相槌だけは打った。
「その彼氏が優しいの。ちょー優しくて、ゆりかのことほんとに好きなのかなって思うんだよね」
「今日のこと知ったら彼氏もさすがに怒るんじゃないの?」
「どうかな。ねえ、無自覚の優しさって罪だと思わない?罪っていうか、もう悪だよね悪。知って少しは嫉妬しろって思う」
「嫉妬ね」
「どう思う?」
「さあ、オレは優しくないからね」
「そうかな」
「そうだよ。普通はスポンサーの、しかも頭取の孫と食事しろって言われたら無条件に優しくするだろ。でもオレは、君に興味がないからしない。かといって君がこのことを頭取に話すとも思ってないからね、計算高いの要は」
「ふーん、難しいのね」
首を傾げる彼女が可笑しくて、自然と笑みが零れた。メインディッシュのヒレ肉やデザートも食べ終えると、味も雰囲気も何もかもが自分とは不相応に思えて仕方ない。というよりも酷く味気なかった。窓の向こう側の横浜港も、色付いたベイブリッジも、景色ってこんな素っ気ないもんなんだな、と思わざるを得ない。頬杖を付いて大きな窓の外を眺めながら、水戸は今頃一人で食事しているのだろうかと考えた。何食ってんのかな一人だとあいつ何作るんだろうあの部屋で一人きりで。
「ねえ三井コーチは好きな人居るの?」
「居るよ」
普通に答えた自分が可笑しくて笑うと、彼女の表情が固まった。というよりも一旦停止したようだった。それからまた動き出して、そう、と俯いて笑う。後は彼女が通っている大学や、優し過ぎる彼氏の話を聞いて、店を出た。
外に出ると当たり前に寒くて、けれども景色は目を瞠るほど綺麗だった。ネオンが散らばって港に映る。息を吐くと、その白さは酷く鮮明で際立った。
「ご馳走さまでした。頭取によろしくお伝えください」
「どーいたしまして。ゆりかもちょー楽しかったよ」
「そう。なら良かった」
「ねえ、三井コーチ?」
「何?」
向き合うと、彼女がオレを見上げている。こんなに強い目をしてたっけ?そんな考えが過ぎる。
「好きな人ってどんな人?って聞こうと思ったけどやっぱり聞かない。勿体ないって思っちゃうから」
そう言って、ぎゅっと一瞬だけ抱き締められた。砂糖菓子のような甘い香りが鼻を掠めたと同時に、彼女は離れる。そして、ばいばーい、と言って手を振ると、タクシーに乗る。きっと呼んでいたのだと思う。手の掛かる妹みたいだ、思わず苦笑した。
好きな人ってどんな人?優しい人だよ。君の言う無自覚な優しさは罪って強ち間違ってないんじゃない?
横浜港を横目に、オレはその優しい人を思う。
その人を思うくせに、帰宅しながら考えていたことは、不覚にも両親のことだった。何故なら、島崎頭取の孫であるあの彼女は、酷く可愛らしかったからだ。好意を持った訳ではなくて、ただ可愛らしい子だった。想像するに頭取の息子の子供で、平穏かどうかも幸せかどうかもさて置き、極々普通の家庭だろう。普通というのは、普通の男女間に産まれた子供。愛されて育った子供。水戸が以前言っていた。オレがまだ実家に住んでいた頃、高校を卒業して間もない頃、実家に遊びに来たことがあった。その時、「この家にはそれしかない」と言った。それとは「愛情」のことだ。両親はきっと、オレは普通に結婚して、いつか普通に孫を見せると思っている。結婚しないと言って家を出たけれど、いずれは諦めてすると思っているだろう。良くも悪くも、普通の家庭に育ち、オレはバスケをして、道を踏み外してまたバスケをして、今も尚バスケに関わっている。水戸の人生とはまるで違う。差別している訳じゃない。ただ、違う。未だに昔の話は又聞きにしか聞けていなくて、わざと頭の隅に追いやっている。
水戸の優しさが過去の全てから滲んでいるものなら、もうオレにはどうしようもない。あいつは何も欲しいとは言わないし、輪郭がない。それと一緒に居ようと想い続けるのは、なんと愚かな行為だろう。ぼやけたものを掴み続けようとするのは、酷く難しいことだと思う。バスケのように勝敗が決まって攻略法が分かるなら糸口も見つかるのに。生まれ育った環境の違いというのは、こうも飛び越えるのが難しいのか。薄っぺらい覚悟だ。ただ、自分の狡さだけで捕まえているだけだ。
帰宅して玄関のドアを開けると、当然水戸のスニーカーがあった。時計を見ると、午後十時を回っていた。十時半近かった。黒のコンバースのローカット、オレがずっと前に水戸にあげた物だった。くたくたのスニーカーを履いていたからだ。水戸はあれから、このスニーカーしか履いていない。シュークロークの上には、キーケースが置いてある。ぽつんとあるそれも、クリスマスにあげた物だ。レースアップシューズを脱いで廊下を歩きながら、リビングの灯りを段々と近くに感じる。そこに続くドアを開けると、水戸は部屋着でソファに座っていた。
「ただいま」
「おかえり」
水戸の表情は、別段変わりなかった。きっとオレが女と会っていたとも思っていないし、高級フレンチを食べていたのも知らない。知らないんだ、オレが言わない限り、その何かは知らないままだ。自分はすぐに浮気だ何だ言うくせに、今日のこれは仕事だと言い張るだろう。後ろめたい罪悪感なんて備えられた狡猾さで、平気で明後日の方向に放り投げる。オレは本来、そういう人間だ。
「珍しいね」
「何が?」
「スーツにそういうネクタイ」
「え、ああ、そうかも」
ワッフルニットウールのグリーンのネクタイ、普段ならこんなネクタイしないからだ。ジャケットを脱いで、ソファに掛けた。その瞬間、砂糖菓子のような甘い匂いが鼻を掠める。あの子の香水だ、すぐに分かったそれは、オレの罪悪感を増幅させる。罪悪感の理由は何?女の子と会ったこと?それとも別の何か?もうよく分からない。時計を外しながら指が縺れる。やべ、どうしよう。どうしようって何?オレ今、水戸を試そうとしてる。女と会った、そう言ったら。言ったら?
「今日さ」
「うん」
「女の子と、会ってた」
「ああ、だから甘い匂い」
「え?」
そう聞いたのは、水戸の表情が変わらなかったからだ。オレが異性と会っていたと知っても、水戸は変わらない。究極の二者択一。後者でやっぱり正解だ。
「昨日様子がおかしかった理由はそれか」
水戸がオレを見た。彼はソファから立ち上がり、寝室に足を向けている。オレの前に立ち、見上げている。何度か瞬きした。分かってて何で何も。
「怒ってんの?」
何も言わなかったんだろう。
「何で怒るの」
「だってオレ女と会ってたっつったろ?そしたら普通思わねえ?浮気じゃねえの、とか」
「浮気って、その女の子を好きってこと?」
「はあ?お前何言ってんの?そんな訳ねえだろ」
あ、ヤバい、そう思った。奥歯が鳴る。耳鳴りがする。
「あんたこそ何が言いたいんだよ。分かんねえよ」
「だから女と会ってたっつってんの。怒るだろ、何で怒んねえの?もしかしたら寝てたかもしんねえじゃん」
「寝てたら何なんだよ。試してんの?大体気持ちのないセックスなんて事故みたいなもんだろ。そんなもんしてもしなくても変わんねえよ」
「お前、何言ってんの?」
「その行為自体に意味ねえっつってんだよ」
「じゃあ何か?お前オレが女とやってても怒んねえのかよ」
唾を飲んだ。喉の奥が鳴った。水戸を見下ろして、オレは目の前の男が好きだと確認して、この男はどうなんだと。けれども彼は、溜息を吐いた。酷く不機嫌そうに、深く息を吐いた。
無自覚な優しさは罪だ、それを思い出した。オレはこの男が好きで抱かれていて、決して縛り付けない男に自ら縛られている。
「俺そういうの嫌い」
「何それ」
「試すようなやり方が嫌いだっつってんの」
ぷつりと何かが切れた気がした。張っていた糸のような何か。苛ついてどうしようもなくて、手に持っていた時計を水戸に思い切り投げた。肩の辺りに当たったそれは、すぐに床に落ちて、玩具のような軽い音がする。水戸がオレを見た。見上げているその目は、特に色も見えなかった。
「お前はオレを好きじゃない」
「は?」
「嫉妬もしない何もしない、もう分かった。もういい。お前はオレを好きなんかじゃない」
今まであった自信は何だったんだろう。目の前が妙にはっきりと見えた。元々合わなかった。環境も考え方も、生きてきた道も。ずっと前から知っていたくせに。分かっていたくせに。惚れたから、心底惚れて、これ以外何も要らないと思ったから、でも。
「あんたがそう思ってんならそうなんじゃねえの?」
それを聞いた直後、水戸を殴った。拳に力を入れて、思い切り殴った。久々に人を殴った掌は、嫌な痺れ方をする。息も上がる。右手のそれを左手で抑え、上がった息も呼吸して整えた。
こいつのこと、めちゃくちゃにしてやりたい。傷付けて引き裂いて、もう形も何もないようにしてやりたい。そう思ったら近くにあるダウンジャケットが目に付いた。オレが水戸に渡した物だった。それも投げた。軽くて投げても衣摺れの音しかしない。時計も拾い上げてもう一度投げた。今度は顔を目掛けて投げた。がつっという骨に当たる音がした。リビングを出て、玄関に向かった。シュークロークの上にあるキーケースを手に持った。こんなもん何であんなくだらない男に。そう思った。心底思った。もう一度リビングに戻り、未だに立っているそいつの頭目掛けて思い切り投げ付けた。
「……って」
「こんなもんお前にやるんじゃなかった!」
オレを見上げた水戸は何も言わなかった。責めるでも怒るでもない、ただ見ている。ぎょっとした。目が覚めた気がしてぞっとした。水戸の左頬は赤くて腫れていて、こめかみからは血が出ている。彼の頬を殴ってキーケースをぶつけたからだ。目線を下げると、フローリングには物が散らばっている。勿論そこにはキーケースもあった。必ずここに帰って来るようにと掛けた呪いのキーケース。それで呪いを掛けた張本人を傷付けて、用の終わったそいつは息もしないでただ転がっている。
ただ淡々と、静かに、動くことなく。
水戸は未だに何も言わない。ただ見ているだけだった。お前はオレを好きじゃない、オレは水戸にそう言った。好きだと何度も言ってくれたこの男に。
駄目だ。居られない。ここに居られない。
ソファに掛けてあったジャケットを手に持った。そこから逃げるように走った。何も言わず、そこから去った。居られない。あそこに居られない。ただそう思った。ついさっき脱いだレースアップシューズをまた履いて、玄関を開ける。そこからまたオレは、逃げるように走った。
どうしよう、今は水戸が笑った顔しか思い浮かばない。





7へ続く


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