幸福の咎

□5
1ページ/1ページ


金曜日の夜に大楠から連絡があった。電話ではなくメールで「明日飲まねえ?」と簡潔だった。特に予定もなかったので了承すると、次に届いたメールには場所と時間が記載してあった。土曜日は、午前中だけ仕事に出て、帰宅して昼からは掃除をした。窓を開けて掃除機を掛けていると、網戸から冷たい風が差し込む。思わず身震いするような寒さだけれど、今は寒い寒いといちいち騒ぐ人は居ない。今週末は福岡だそうだ。福岡もこれくらい寒いのだろうか。それとも少しは暖かいのか。まあ頑張れ、と窓の外を少しの間眺めながら思う。気温は冷たかったけれど、神奈川の空は晴れていた。彼が居る地はどうなのだろうか、それもよく分からない。
大楠との約束の時間までに当然掃除などは済んだ。テレビを点けていてもろくな番組もしていないことは知っていたので、初めから点けなかった。しばらくの間ソファに座り、ぼんやりと外を眺めていても物音一つしないこの部屋は、酷く静かだった。普段なら気にもしないようなことを、今日は何故だか顕著に感じる。暇過ぎてやることがない。時間までパチンコでも行くか、ソファから立ち上がり寝室に向かった。外は寒そうだから、ダウンジャケットを手に取る。寒いからこれ着てけ、三井さんの声が聞こえた気がして振り返るけれどそこには誰も居ない。当たり前だ、息を吐いて、ダウンジャケットを羽織った。玄関を出て吐き出された息を見ると白い。吸い込むと鼻が冷えた。耳に入る空気が酷く静かだ。そんな気がした。向かう場所は鎌倉だ。だからさほど遠くはない。大楠はよく店を知っているから、彼に任せていれば良かった。近くにパチ屋あったっけ?そんなことを考えながら、駅に向かった。
たまたま入店した店は、それなりに繁盛していた。負けはしなかったけれど、大勝ちもしていない。そこそこだった。それでも今日の飲み代くらいは出ると思う。約束の時間は七時で、その十分前には指定された場所に着いた。来ているなら先にやっているだろうと、俺も店に入った。土曜日の夜は混んでいて、駅の近くだから余計に客入りはあった。いらっしゃいませ、と笑顔で近寄る男性の店員に大楠の名前を出すと、もういらっしゃってますよ、と言った。やっぱり、と思いながら案内された個室に、スニーカーを脱いで入った。会釈して去ろうとする店員に、生一つください、と言うと、また彼は会釈して、ありがとうございます、と返してから去った。
「よう、遅えよ」
「お前が早えんだよ」
暇でさあ、そう言ってから大楠は生ビールのジョッキを手に持った。とはいえ、料理が並んでいるわけでもないし、テーブルにはジョッキしかなかった。着いた時間はさほど変わらなかっただろう。ダウンジャケットを脱ぎ、邪魔にならない脇に置いた。程なくして運ばれて来た生ビールを受け取り、そのままジョッキを合わせる。彼は併せて注文をした。何食う?と聞かれたので、合わせるよ、と返した。目線を下げてメニューを見ると、刺身の盛り合わせ、唐揚げ、枝豆、焼き鳥、豚の角煮、揚げ出し豆腐、以上で、大楠はそう言って、ぱたりと音を立てながらメニューを閉じる。
少々お待ちください、会釈して出て行く店員を他所に、大楠の視線はどこか擦れていた。斜め下の辺り、俺のダウンジャケットの方向だ。何でそこ?聞くことはしなかったけれど、彼も同じように俺には何も言わなかった。その目線で気付いた。大楠が何を言いたいのか。具体的な言葉は分からないし、本人じゃないから予測しようもない。けれども大きく纏めて、という程度なら大概分かる。もっとも、切り出されない限りは自分から話す必要もないのだけれど。最初はくだらない話だった。仕事の話もあったし、大楠は自分の彼女の話もした。俺は相槌を打ちながら、時々聞かれたことには返した。大楠はよく喋るし、その間合いの取り方や話し方が上手い。学生の頃からそれは変わらなくて、面白ければ笑うし、黙っている時もある。けれどもその沈黙は、苦痛じゃない。しばらくして、一時間半程度だろうか。その頃から大楠が飲むものが、ビールから焼酎、それから日本酒に変わった頃だった。そろそろか、と思った頃に大楠は深く息を吐いた。吸い込んだのが分かった時、声を出す、そう思った。
「そのダウンジャケット、すんげえ高えのな」
「そうだな、びっくりしたよ」
「よく貰うの?」
「いや?時々」
「回りくどい言い方は嫌いでね」
「よく知ってる。元々そのつもりで呼んだんだろ?」
大楠を見て緩く笑うと、彼は一瞬だけぎょっとした表情を見せた。驚くとこか?と、焼酎の入ったグラスを手に取り、一口飲んで彼を見遣る。口を噤んだまま、なかなか声を発しない。間合いの問題かな、煙草を一本手に取り、火を点けた。元々、回りくどいのも真面目なのも苦手だ。切り出し方が掴めないのかもしれない。
「あの、さあ」
「なんだよ。回りくどいの嫌いなんだろ?」
「嫌いだよ。嫌いなんだけど、結局はお節介だから放っとけとも思ってる」
「なるほどなあ」
「お前さ、どうすんのこの先。そりゃお前がそれでいいならいいよ、いいと思ってたよ。でもオレはさあ、花道みたいにお前が幸せならそれでいいって純粋には思えねえんだよ。いや思ってたよ?思ってたけど別にいいけど何でミッチー?女の子でいいじゃん。素朴な疑問だよまじで」
最初は伺っていたような表情だったけれど、すぐいつも通りに戻る。そうだよな、素朴な疑問、そりゃそうだ。刺身を摘んで焼酎を飲み、彼の言う素朴な疑問について考えていた。
「だってお前、中学時代何人と付き合ったっけ?どうせオレが知らねえ子も居るだろ?しかもしょっちゅうキスマーク付けてやがって羨ましいっつったらなかったよ」
「付けんなって言ってたんだけどな」
「そういう問題じゃなくて」
「ははっ!」
「笑ってんなよ!だからキスマーク日常茶飯事男が何をどうしたらミッチーなんだよ。あんなたっけえダウンジャケット貰って、お前何にも思わねえの?」
「何にもってどういう?」
「か、囲われてるとか?」
「ぶははっ!何だよそれ!」
「いや笑うけどさ、オレ調べたんだよお前のやつ」
暇だな、とぼそりと呟くと、うるせえな、と小さく返された。囲われてると来たか、と思った。流石に予想外だった。
「囲われてるってのはまあ置いといて、ミッチーのことオレ嫌いじゃねえよ当たり前だけど。ただ、何でだろって思うんだよね、真面目な話。好きならそれでいいって歳でもねえだろ?お前のことだから、先の先まで見えてんじゃねえの?」
「つってもなあ……」
「はぐらかすの無しな」
「俺、三井さんじゃないと勃たないんだよね」
「は?!」
その時、携帯が鳴った。マナーモードにしているから特に音が響くことはなかった。着信の相手は誰だか分かっていたけれど、とりあえずはデニムのポケットから取り出した。名前を確認していると、出れば?と大楠が言う。彼は息を吐いて、左手で額を抑えている。そういえば左利きだったっけ?と的外れなことを考えながら、俺はかぶりを振った。まずったか、とも考えたけれど、事実だ、とも思う。そんなことを考えているうちに、着信を報せるバイブ音が消える。消える振動に、ただ思う。ああ、と。何故だかその時、ああそうか、と思った。
「お前、もう女の子抱けねえの?」
「いや、抱けなくはない。してもらえれば」
「はあ?!何それ!何だそれ!」
「何だって言われてもそのまんまの意味だよ」
大楠は口をぱくぱくと開け、何も言えないようだった。面白い顔、と軽く吹くと、人の顔で笑うな!と更に大きな声を出した。
「お、お前何その生々しい何かを感じさせる何かは」
「何かばっかじゃねえかよ」
「そ、それって俗に言う浮気ってやつじゃねえの?」
「浮気ねえ……」
「えらいことを聞いてしまった」
「そもそも浮気の定義って何?」
「え、そこから?」
大楠は腕を組んだ。うーん、と軽く俯いて唸ると、顔を上げる。
「メシ食ったり遊んだりとか?」
「したらお前とこうしてんのも浮気になんじゃねえの?」
「気持ち悪いこと言うな!そういう意味じゃねえよ!」
「じゃあ何」
聞くと彼は、ぽっかりと口を開けた。そしてまた腕を組み直して何かを考えている。深く息を吐く音がそれを伝えているようで、妙に響いた。
「言うの?」
「何を」
「浮気のことだよ」
「だから浮気なんてしてねえっつーの。どいつもこいつも」
はあ、と溜息を吐いた。グラスを手に取り、焼酎を飲む。独特の香りが鼻を抜ける。
「バレたらどうすんの」
「バレるもバレないも、例えばお前職場の人間と喋ったことをいちいち彼女に報告しねえだろ」
「え?!洋平お前職場の子に手ぇ出しちゃったの?!」
「論点そこかよ」
「綺麗系?可愛い系?」
「さあ」
「お前がそう言う時は大概綺麗な子なんだよ。これだからモテる男は」
今度は大楠が溜息を吐いた。それから煙草に火を点ける。吐き出された煙の色は白い。けれども匂いが違う。煙草の匂いを今更知る。あの人は俺の煙草の匂いをずっと前から知っている。そんな当たり前のことを、改めて実感する。声が聞きたい、そう思った。
「間違えてオレが喋っちゃったらどうすんの」
「言いたかったらいいよ」
「やめとく。怖いから」
「はは、だな」
知ったら泣くかな、それとも怒鳴るか。いや両方かな。見たいような気もするし、怖い気もする。興味はあるけれど、呑気に喋るほど俺も馬鹿じゃない。浮気じゃないけど女の子とやっちゃって。笑って今日のニュースや天気を喋るみたいに言った所で、ああそうなんだって、それが通じる相手じゃない。
「お前の浮気の定義は何だ。貞操観念の低さに引くわ」
「セックスなんて誰とでも出来るだろ?でも殴り合うのは誰とでも出来ない。そういう感じ」
大楠はまた、ぎょっとしたような表情を見せる。それから今日一番盛大な溜息を吐いた後、煙草の火を消した。緩く舞う煙が、段々と消える。
「オレはよー……」
「うん?」
大楠は俯いた。俺はそんな彼を見て、酷く不憫に思う。そして、また心配させてる、と。そんなの学生時代で十分じゃねえの?
「結局オレはお前に甘いからさ、人としてどーのこーのって話は出来ねえんだよな。今更だけど」
「お前は人のいいお節介だからな」
「世話焼かねえとダメな奴限定。つまりお前だ」
いつだったか聞いたことのある台詞に、俺は息を吐くように笑った。目の前に居る親友は、酷く現実味があった。でも今遠くに居るあの人は、夢の中に居るみたいだと時々思う。俺は長い長い夢を見続けていて、その一瞬が欲しくて目覚めないようにしているみたいだと。まああっちもこっちもどれも現実なんだけど。結局その話はそこで終わり、くだらない話に戻ったから自嘲気味に笑った所で違和感もないから、ちょうど良かった。さっきあの人からの着信が消えた時、ああそうか、とただ思った。それは、呆気なく消えるものだと気付いたからだ。俺が手を離したら簡単にあの人は、消える。だから結局、明日が来ないままずるずると夢を見続ける。見続けようとする。手を離さないように。注意しておかないと、着信音が消えたみたいに、メール一つで消えたみたいに、簡単に居なくなる。
酔っ払った大楠は、もう一軒行くぞ、と言った。それに付き合っていたら結局終電を逃した。タクシーを捕まえようと外を歩きながら、ダウンジャケットは本当に暖かいことを知る。体は酷く暖かかった。
「洋平」
「ん?」
「お前、ミッチーのこと好きなの?」
「好きだよ」
「知らねえだろうから教えてやる。お前は歴代の彼女を好きって言ったこと一回もねえからな」
「可愛いとは思ってたけどね」
「どれくらい好きなんだよ。この先も一緒に居たい、とか?」
この先も、ねえ。小さく言って、考えた。どれくらい。あの人もよく、好きかどうか愛情の確認をする。俺はそれが、鬱陶しくもあったし、嬉しくもあった。お前オレのこと好きなんだよな?と聞かれる度に、何度言っても通じないのかと面倒でもあったし、思われている実感もした。要は何でも良かった。あの人の言葉なら、仕草なら、それが切り取られて頭の中に生きていれば、それで良かった。
「あの人の幸せを願えるくらい、かな」
「惚気やがって。気分わりい」
「はは、ごもっとも」
「電話良かったの?出なくて」
「いいよ別に」
タクシーは何度も通っていた。けれども停めることはしなくて、何となく歩いていた。途中煙草に火を点けて、寒い、と独り言のように大楠は言った。
今日の電話はきっと、試合がどうだったという電話だ。毎週遠征先から掛かって来る。その電話に出ると、機械越しに聞こえるあの人の声は、いつもより興奮気味だったり消沈していたり、様々だった。最初の一言で俺は、今日の試合がどうだったかが分かるようになった。話を聞くだけだけれど通話が終わる頃には、いつもの調子に戻っている。時々電話に出られないこともあれば、毎週出る時もある。掛け直すか掛け直さないかは、その時の時間による。今日はもう掛け直さないけれど、見送るタクシーを横目に、重なる足音に、ディスプレイに表示されたあの人の名前を思い出す。
今夜はもう一度、あの名前を見てから眠ろうと決める。





6へ続く



[戻る]
[TOPへ]

[しおり]






カスタマイズ