幸福の咎

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社員食堂で昼食を食べた後、サンダースの事務所でチームが特集されているフリーペーパーを見ていた。記事は何度も確認されているから読まなくて、自分の顔をひたすら眺める。これのどこが変な顔でどこでバレるって?コーヒーを啜りながら、全てに目を通した。バレるっていうのはあれだろ?お前とのことだろ?結局それは聞かなかったけれど、要はそういうことなんじゃないかと思う。
この時は確か、一日に何度も取材を受けていた日だった。正直面倒で、同じこと聞くな勉強しとけ、と忙しさからまるで八つ当たりのようなことを考えながら、用意された台本をただ喋っていたように思う。早く帰りてえなあ水戸の飯食いたい、そんなことをひたすら考えていた。今日は何だろう普通に帰れるって言ってたからもうきっと作ってるよなカレー食いたいカレーだったらいい、と。その日は帰宅したら本当にカレーだった。玄関を開けると、香辛料の匂いが漂っていた。オレ天才じゃね?超能力でもあるんじゃね?と普段なら考えもつかないようなことを考え、リビングに入った。ただいま、と言うものの水戸は居なくて、ベランダに目を凝らすと暗闇に後ろ姿が見えた。じーっと睨むようにしていると、黒髪の男が闇に紛れて振り返る。その男は右手を挙げると、無表情の顔はすぐにまた後ろを向いた。水戸が居ることを確認してから、いつも通りキッチンで手を洗い、コンロに火を点けた。鍋の蓋を開けると、カレーのいい香りが漂う。これがぐつぐつ言うまであと少し。それまでの所で皿に飯を装っていると、水戸がリビングに戻ってくる。おかえり、そう言ったから、ただいま、と返した。もう風呂上がりなのか裸足で、部屋着のスウェットパンツにカットソーを着てパーカーを羽織っている。キッチンに近付いて来る水戸に、オレは言った。
「カレー食いたかったんだよな」
「これ、いつものじゃないよ」
ルー溶かしただけ、水戸は抑揚なく言う。そして、明日から作れないかもしれないから三日くらいカレー食って、そう言った。この台詞も特に、抑揚はなかった。オレは知っていた。このカレーがいつも水戸が手を掛けて作るものではないことを。匂いがちがうし色も違う、でもカレーが食べたかったからそれでいい。
「じゃあまた、いつものやつ作ってよ」
「今度ね」
水戸は少しだけ目を伏せて笑っていた。風呂上がりだった水戸は、ビールを持ってソファに座る。オレもダイニングテーブルではなく、ローテーブルにカレーを持って行って食べた。彼は特に何も言わなくて、またくだらない話をしながらカレーを食べた。取材を受けた話は何故かしなくて、また水戸の話を聞いた。仕事どうだった?いつも通りだよ、そんな普通のやり取りをした。水戸の横顔は正面を見据えていたように思う。彼は少し前から、ぼんやりすることが増えた。最初に気付いたのはいつだったか、思い出せないけれど増えたことだけは分かった。どこか遠くを見て、何かを考えているのかいないのか、手を伸ばしたくなるのを寸での所で堪えながら、カレーを食べた。水戸がしている考え事が、考え事ではないのかもしれないし、仕事のことかもしれない。けれども、そうでないのかもしれない。前にもオレは、そんなことを考えていた。
オレ達は男同士だから、言わないでいいことは言わないし、水戸は特に、余計なことは一切喋らない。八割方話し掛けるのはオレの方で、バスケの話やくだらない話ばかりだった。水戸は勿論、職場の内部事情も話したりしないし、オレもしない。それはもう、ずっと前からだ。誰が聞いていてもおかしくないくだらない話ばかりしかしない。毎日好きだとも当然言わなくて、ただ考えているだけだった。恋人同士という確実な括りがあれば、何か違うのだろうか。もしかしたら取材中、そんなことも考えていたのかもしれない。同じことを何度も聞かれ過ぎて、上の空だったことは確かだ。それもこれも引っ括めて、今度の遠征から帰って来る日は、水戸お手製のカレーを作ってもらうことに決めた。
サンダースの事務所でやりたくもない机上の仕事をしながら、またオレは上の空だった。カレーカレー、そんなことを考えていた。その週の遠征地は、福岡だった。福岡へは羽田から行く。朝一で行く必要はなかったから、余裕もあった。オレが遠征に行く日の朝食は、大概和食だ。今朝もそうだった。ご飯、味噌汁、卵焼き。水戸は済んだ後だったのか、キッチンで弁当を作っている。今日は金曜日だった。この日からまた二日間、ここに立つ水戸を見なくなる。ダイニングテーブルに座り、いただきます、と言った。すると水戸は小さく、どうぞ、と呟いた。その声に水戸を見ると、下を向いて作業したままだった。前髪伸びた、そんな的外れなことを考えた。
「なあ水戸」
「何?」
まだ彼は、顔を上げない。
「日曜日、カレー食いたい」
「カレー?」
水戸は顔を上げた。やっぱり前髪伸びている。目に少し掛かっているように思う。
「ルーで作るやつじゃなくて、ちゃんとしたやつ」
「はは、ルーに失礼だろそれ」
「失礼を承知で」
「いいよ、作っとく」
ふっと表情を緩める水戸を見て、この約束がまた、彼をここに帰す理由になると思った。オレも水戸を見て笑うと、また彼は言う。
「変な顔」
「だから!何なんだよ変な顔って失礼だろ!男前で有名なんだけどオレ」
「良かったね、有名人」
そう言うと水戸は、弁当を作り終えたのかキッチンから出た。どこへ行くのかと目で追うと、ベランダへ向かっている。煙草ね、オレはそれを確認してから、まずは味噌汁を啜った。出汁が効いていて美味かった。出汁取ったんだ、とその味を噛み締めた。
水戸は最近、オレの顔を変な顔だと言う。かっこいいと褒められたことはあれど、変な顔と言ったのは生まれてこのかた水戸だけだった。その上彼の言う変というのは意味が違う。よく分かんねえよ、考えても考えても、意味がよく分からない。ベランダから戻って来た水戸は洗面所で歯を磨き、それから、行ってきます、と言って出て行った。試合頑張ってね、それも付け加えた。
土曜日の夜、試合も終わってホテルに戻った。シャワーを浴びて着替え、ベッドに横になる。今日のゲームには勝ったけれど、それなりに反省点もあった。それを何気なく頭に並べていき、順番に流していく。今日の仕事終わり、と深く息を吸って吐いた。起き上がり、放り投げてある携帯を手に取る。着信もメールもない。それはいつもそうだった。遠征中は、夜になると大概水戸に電話を掛ける。今日も同じように水戸の名前を出し、通話ボタンを押した。何度か鳴らすけれど、機械的な音が流れるだけで水戸の声は聞こえない。いつまで経っても聞こえて来ない。風呂でも入ってんのかな、携帯をベッド脇に置き、急に襲って来た睡魔に身を任せることにした。次の日目を覚ますと、もう朝になっていた。携帯を手に取りディスプレイを見るけれど、着信の報せはなかった。時々こういうことはあった。水戸が着信に気付いていても、掛け直されていないことはあった。もっともそれは、数え切れる程度だけれど。帰宅した時に理由を聞くとそれは、くだらないことだった。飲んでたから気付かなかった。帰ったのが遅くて掛け直してもあんた出ないだろ?そんな大したことない理由だった。そこに嘘の匂いは勿論なかったし、オレ自身がそれは真実だと疑わなかった。けれども今回は、妙に悶々とした。首を捻りたくなった。酷く不信感が襲う。何でだろう初めてじゃないのに。そう考えて鬱屈とした心情を拭おうとしたけれど、それも上手く出来ない。きっと水戸のことだから、携帯をどこかに放っておくこともあるだろう。実際数え切れる理由の中にそれもあった。飲み会だったかもしれないし、店がうるさくて聞こえなかっただけだったかもしれない。
遠征中はいつも、バスケに関わっている時は九十八%それのことしか考えていない。残り二%で夜水戸に電話を掛ける。その時彼が出れば話すし、出なければ寝る。それだけだった。翌日わざわざ、水戸は昨日の夜何してたんだろうと考えることも皆無で、またバスケに集中する。それが何でこうなったんだろう。ベッドに座ったまま前のめりになり、そのまま項垂れた。ゆっくりと鼻から息を吐いて、また鼻から息を吸い込んで思う。ここはホテルのベッドで、家じゃない。あのベッドじゃなくて、いつも寝ている布団じゃない。匂いが違う感触が違う色が違う。それ以前にここは、神奈川じゃない。そうだ気付いた。変な顔の理由に気付いた。そこに居ない男を思う。それだと分かった。
水戸の「好き」が嫌いなのも優しさも、何なら「一生一緒に居てくれないだろ?」なんて、はなから一生一緒に居られるなんて思っていないくせに、あの時はただ水戸を手離したくなくて必死だっただけということも、今更気付いた。呪いのキーケースを渡したのも、きっとその理由。
オレ、水戸を信じてない。信じていないんだ。ほらみろ、やっぱりくっだらねえ。





日曜日は、夜帰宅した。自分の鬱屈した感情は、ゲームで憂さ晴らしをした。その結果運良く勝って、それがまたオレを憂鬱にさせた。オフェンスを重視してディフェンスなんて無視をした。頭なんて一切使わなくてひたすら攻めた。私情を試合に持ち込むなんて、今日は完全にプロ失格だった。これで勝ったからまだ良しとして、もしも負けていたらと考えたらぞっとする。マンションの前に立ちながらそんなことを考えた。部屋の高さの位置を確認しながら見上げ、しばらく眺めた。息を吐くと、気温の低い今時分は当たり前に白くなる。不規則的に揺れて消えるそれを眺めてから、マンションの入り口に足を進めた。
玄関の前で足を止め、大きく深呼吸した。カレーだ、今日はカレー。それさえ食べて、昨日電話に出なかった理由も大したことなくて、それを確認したら終わり。こんな感情、すぐに消えて無くなる。ふっと吐き出すような息の吐き方をしてから、玄関のドアを開けた。水戸のスニーカーはやはり揃えられていて、何故だか容赦なく頭を殴られた気がした。がつんと衝撃を受けた後、目を閉じる。玄関にまで漂う香辛料の香りで、目を覚ました。水戸はもう、オレがここに居ることに間違いなく気付いている。廊下を歩き、未だに鼻に残る香りを感じながら、リビングに続くドアを開けた。
「ただいま」
「おかえり。お疲れさん」
水戸はいつもと同じ。キッチンに立ってカレーの準備をしている。オレが帰宅したからだ。それから、手を洗えと示してオレは手を洗い、ダイニングテーブルに座る。その流れが常だ。頭の中で日々の生活がぐるぐると回り、回り過ぎてよく分からなくなる。
「三井さん、どうした?疲れた?」
「あ、いや、腹減り過ぎて」
「手、洗いなよ。一緒に食おう、俺もまだだから」
「カレー作ってくれたんだよな」
「そうだよ」
「匂いで分かった」
「犬だなまるで」
いわけなく笑う水戸を見て、嫌だと思った。全力で嫌だと、今そう思った。この生活が消えたら、この男がここから消えたら、オレは間違いなく死ぬ。いや、死ななくても生きた屍同然だ。
キッチンで手を洗い、水戸がカレーを準備する様を脇目から覗く。何もないような素知らぬ顔で、知らない素振りで、オレの計算なんて全てお見通しのくせに何も言わなくて知らない振りをした男が、飯にカレーを装う。ダイニングテーブルに並べ、いただきます、と手を合わせて食べる。会話はオレが主導権を握り、二勝した、なんて言って笑う。ぎりぎりだったくせに、と腹の中では嘲笑しながら。食べた後は水戸はベランダに行った。それに付いて行くと彼はまた、煙草を上下に動かしながら、オレを見る。寒いベランダに出て、水戸は煙草に火を点ける。いつもの百円ライターで。吐き出される煙は、オレが吐く息の色と一緒だ。ただ匂いが違うだけ。
「お前、土曜日何してた?電話出なかったから」
「ああ、ごめん。大楠と飲んでて気付かなかった」
ほらやっぱり、ただの飲み会だった。
「浮気してんじゃねーかと思ったろ」
「またそれかよ、してねえっつーの」
そう言うと水戸は舌打ちをする。思ってもいないようなことをオレは言って、水戸の言葉を計る。いつもの話だ。
「そんなことばっか言って、俺がまじで浮気してたらどうすんの」
「え?」
「してねえけどさ、いつまでそんなこと言ってんの」
「は?お前浮気してんの?」
「だからしてねえって。してたらどうすんのって話だろ?」
「え、殺すかも」
「はは、物騒だなあ」
水戸はそう言うと、また遠くを見ながらぼんやりする。どこかを見ているような見ていないような、何かを考えているのかいないような、よく掴めない。また同じことを考えた。この生活とこの男を失ったら死んでしまうと、オレは掴み所のない男を見ながら、掴む場所を必死で考える。本当に、うっかり殺してしまわないように。
「オレまじで言ってんだからな」
「気を付けるよ、まだ命は惜しいから」
「てめえこら」
「はは、おもしろ」
水戸の掌が伸びた。それが、オレの頭に触れる。髪に触れる。ぐりぐりと撫でられる感触を頭だけでなく指先にまで届くような錯覚を覚えながら、同時に喉が詰まる。水戸の指が離れ、灰皿に煙草を押し付ける。未だに舞っている白い煙はいずれ、空に消える。水戸の横顔もまた、煙と同じようにふわりと消えてしまわないようにと、今にも消えてしまいそうな男に気付かれないように祈った。馬鹿馬鹿しい、と思いながらも。
「入ろう。寒いだろ」
背中を向けた彼に続いて、オレもその後ろを追った。その背中に漠然と感じ取る。水戸は多分、オレには言えない何かがある。それが何なのかは知らないし、聞く気もない。時々遠くを見詰めるのはそれが理由だと思う。水戸もまた、オレが狡いことは言わない。計算高く考えて答えを引き出すことを責めようともしない。だからお互い様だ。
オレからは、絶対に言ってやらない。この生活がなくなるくらいなら、一生狡くてもいい。





5へ続く



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