幸福の咎

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昼休みに藤田が携帯を見せて来た。見てください水戸さん!と何やら興奮気味に、俺の目の前に携帯の画面を持ってくる。そこにはスーツを着て、女性アナウンサーにインタビューを受けている三井さんが居た。椅子に座り、サンダースのことやバスケの現状について流暢に喋っている。その画面を見せながらやはり興奮気味に説明している藤田の話によると、サンダース公式ホームページにヘッドコーチである三井さんの映像が流れていた、とのことだった。サンダースのホームページは欠かさずチェックしているらしく、今日見たら驚いたと。YouTubeなんすよ凄いんすよマジやばいんすよ、と何が凄くてやばいのかは分からないけれど、ファンである藤田はとにかく必死で説明している。知らなかった、と呟くと、仕事の話しないんすね、と返された。うん、と適当に返事をしておいたけれど、珍しいな、とも思った。こういう仕事があればすぐ報告しそうなのに、と。そういえば最近、あの人は俺の話を聞くことが多い。今日はどんな仕事した?いつもと同じだよ、ふーん、ほぼその流れだ。そういえばそれ以前に、最近は互いに忙しくて会話もろくにしていない。朝食は一緒に食べることも時々あるけれど、俺が返す言葉は相変わらず「ああ」と「うん」だった。
映像越しに見る三井さんは、どこか妙だった。以前もテレビで見たことはあったけれど、それとは違う感覚のような気がする。変なの。
「何見てるんですか?」
その声に顔を上げると、経理の遥さんが藤田の横に立っている。俺が何も言わなくても、藤田が一から十まで説明していた。サンダースのホームページに三井コーチが、とやはり若干興奮気味で、もう一度画面に目をやるけれど、やはり何かが妙だった。煙草吸いてえなあ、と何気なく考えて、右手が疼いた。
「やっぱりかっこいいですよね、三井コーチ」
遥さんの言葉にぎょっとして目線を上にやると、ちょうど藤田も彼女を見ている。
「え、遥さんこういう人タイプなんすか?」
藤田が目を輝かせて言う。
「タイプかタイプじゃないかって言われたらタイプじゃないんですけど」
なんだ、藤田が今度は酷くつまらなそうに言った。何がつまんねえんだこれでタイプだって言われたらちょっと笑えるだろ、思わず目線を下げて苦笑すると、彼女も笑った。
「っていうより、一般的にかっこいいでしょう?絶対モテますよ。最近よく地元のスポーツニュースやフリーペーパーで見るけど色っぽいですよね」
色っぽい?!またぎょっとして思わず遥さんを見上げると、何ですか?と彼女は目をぱちぱちと瞬きした。別に何でも、と誤魔化すと、次は藤田が喋り出す。
「三井コーチは色っぽいっていうか男前じゃないっすか、ねえ水戸さん」
「そうだな」
彼の言葉には適当に返し、ペットボトルの蓋を開けて、烏龍茶を飲んだ。喉を通過する水分が、やけに鮮明に感じる。
「男の人には分かんないんだろうな。恋してるんですよ、きっと」
これだからこの女は苦手だ。もう二、三口ほど烏龍茶を飲み込んで、席を立った。藤田は割と大きな声で、なるほど!と相槌を打っている。俺は煙草とライターを手に取り、その場を離れた。少し歩いた所で、藤田がまた、あ!と大きな声を出した。その声に振り返ると、昼休みの初めと同じように目を輝かせている。
「水戸さんって三井コーチの彼女知ってます?」
「さあ」
その後は事務所を出たから知らない。けれどもどうせ、件の三井コーチの話か別の話をしているのだろう。
今日は晴れていた。年明け一月の割には気温も高い方だと思う。陽射しが当たればそれなりに心地良かった。整備工場の裏手にある喫煙所には、まだ誰も居ない。コンクリートに凭れて煙草に火を点ける。緩く舞う煙を眺めながら、遥さんが言った「色っぽいですよね」の意味を考えていた。色っぽい、ねえ。あの映像は、確かに妙だった。けれどもそれが色っぽいこととイコールで繋がるのかはよく分からない。頭を掻いていると、携帯が鳴った。そうだ昼休み、開くと毎日恒例の連絡事項だった。「今日は遅くなる。メシは帰って食べる」その文字を目で追って、了解、と返信を打った。携帯を閉じてポケットに戻す。煙草に口を付け、吸い込んで吐き出した。メールの文字を頭の中で反芻しながら、ふっと息を吐いた。メシは帰って食べる。ってことは作っとけってことだろ、思わず吹いた。笑ってしまった。これだから、これとあれが色っぽいというのがイコールで繋がらないわけだ。
その日の仕事は、俺の方は普通だった。八時頃に終わり、八時半頃にマンションに帰った。玄関を開けると部屋は勿論真っ暗で、当然あの人の靴はなかった。スニーカーを脱いで上がり、洗面所で手を洗った。洗いながら、今日は晩飯のメニューを考えた。豚ロースが解凍してあるから生姜焼きでいいや、あとは適当に。リビングに入って灯りを点け、エアコンのスイッチも入れた。煙草とライターを持ち、ベランダに出る。あの人はよく、ここに来ると寒いと言う。じゃあ付いて来なければいいのに、それでも彼は、付いて歩く。呪いには未だに掛かったままだ。
煙草を吸い終わりリビングに戻ると、少しだけ室内は暖かくなっていた。キッチンに立ち、もう一度手を洗う。冷蔵庫を開け豚肉を取り出し、生姜焼きの準備をした。他には鍋に野菜の煮物もあるし、キャベツの千切りを作って終わろうと決める。こんな簡単なものでも彼は、酷く満足そうに食事をする。例え俺が、「ああ」と「うん」しか言葉を使わなくとも。ビール飲も、そう決めて、もう一度冷蔵庫を開けた。
風呂から上がってもまだ、三井さんは帰っていなかった。時間は十時を回った所だった。ソファに座り、ローテーブルに置いてある雑誌を見る。並べているのは彼だ。スポーツ誌やファッション誌、それから地元のフリーペーパーが何冊か。フリーペーパー、昼休みにそういえば、遥さんが言っていた。フリーペーパーで三井さんを見る、と。フリーペーパーを手に取ると、見出しにサンダースの文字があった。これも珍しく言わなかったんだな、そう思った。もっとも、話す時間もなかったのだけれど。ページを捲ると、サンダースの特集が組まれている。今シーズンのサンダースは、花道の言うように調子が良かった。だから特集も組まれるのだろうけれど、試合の合間にこんなこともやってんだな、と何気に感心する。前半はチーム選手の練習風景や試合風景、主将のインタビューもある。後半にまた、スーツを着たあの人が椅子に座り、インタビューを受けていた。書かれてあったことはバスケの話やチームの話だ。昼休みの映像も同じだった。
サンダースは大躍進ですね。ありがとうございます、これを機にって言ったらおこがましいんですけどサンダースの活躍で、もっとバスケが世の中に浸透すれば嬉しいです云々。当たり障りない言葉が薄っぺらい紙に羅列していて、普段のあの人とは何もかもが別人のようだった。この紙の中でも映像の中でも、あの人は普段使う言葉は使わない。てめえ!だとか、おい!だとか、ふざっけんなよ!だとか、そういう俗に言う汚い言葉はどこにもない。綺麗な敬語を使い、時にはインタビュアの方を見て笑い、また時には少しだけ俯いて考える。色っぽいっていうのかな、これが。ただ仕事をしているだけのようなそうでないような。写真を指で触れてみるけれど、そこにあるのは紙だけだ。実物じゃない。確かに彼は、見栄えがいい。細過ぎない体躯に高身長、顔も世間的には格好いい部類で、類稀な大卒からプロバスケではなくコーチの道に進んだ人。マスコミにとっては持って来いの人材だと思う。だからさあ、まずいんじゃないの?あんた意外と有名人だよ三井さん。男に恋してたらまずいでしょって今更だけど。呪い掛けてる場合かよ、なあ。決して言わない言葉を並べては飲み込んで、並べては咀嚼する前に消した。全てのフリーペーパーを読み終わった後で、リビングのドアが開く。その方向を見ると、今日は珍しくジャージを着て三井さんが立っていた。今朝は何を着て彼は出て行ったっけ?よく思い出せない。
色っぽいのかな、この人が。俺に恋してるから?だからあの女は鋭いから苦手なんだって。
「おかえり」
「ただいま。あ、お前それ見た?かっこいいだろ、オレ」
得意気に笑うこの人を見ていると、何かが沸々と湧き上がる。
「変な顔」
「は?」
「変な顔だった。寝る。おやすみ」
「はあ?!ちょっと待てこらてめえ!」
出たよてめえ、嘲笑するように息を吐くと、それも気に入らないようだった。当たり前か、と思う中で、今更分かるとか馬鹿じゃねえの?と自分自身にも嘲笑したくなる。寝室に行こうとソファから立ち上がり、歩いた所で三井さんに手首を掴まれた。怒っている。そりゃそうだ変な顔呼ばわりされたら怒りたくもなるだろう。けれどもそうだ、分かってしまったからだ。あの時感じた妙な感覚の理由が。掴まれた手首が熱い。そこが痺れるようだった。右手が疼くのは、疼いたのは、そんなの今更分かってどうする。見上げると、そこには三井さんが立っている。普通に。ただ少しばかり怒りを含んで。この人の体温は高い。それを知ったのは、高校生の頃だった。高一の、夏の終わり。学校の屋上。蝉が鳴いていて、触れられるかそうでないか、その絶妙な距離を保って座っていた。首元に汗が一筋流れて、彼は小さく、あち、と呟いた。触れたいと思って触れた時、酷く高い体温だったのを覚えている。
三井さんの手を振り払い、彼を見据えると一瞬だけたじろいだように見えた。
「付いて来んな。寝る」
「何キレてんだよ、意味分かんねえ」
「分かんなくていいから放っとけよ。付いて来たら犯す」
寝室のドアを開けると、背後から声がする。上等だてめえ!大きな声で彼はそう言って、結局付いて来たから溜息を吐いた。振り返ると、顔を顰めて三井さんは腕を組んでいる。
「だから何キレてんだ、理由を言え理由を」
「うるせえなあ、黙ってろ」
「はあ?」
三井さんに近寄り見上げると、彼はぐっと顎を引いた。要はこういうことだ、ただそう思った。熱を帯びて、揺れる。色っぽいってこういうことなんじゃねえの?彼の体を押して、ベッドに倒した。
「何すんだよ」
「付いて来たら犯すっつったろ。やりたい時に煽ってくるあんたが悪い」
そのまま口付けて、まずは口の中を犯した。舌と歯を確認するようになぞると、三井さんはすぐに体を揺らす。そういえばいつしたっけ、思い出せない。少なくとも一週間以上、体に触れることすらしなかった。唇を離すと、彼は息を吐いた。熱っぽいそれは、震えているようでもあった。
「いやらしい顔」
「悪かったな」
「変な顔してる」
「だから変な顔って何。失礼過ぎるだろ」
「やめときな。終いにはバレるよ?」
「え?」
後はもう、何も言わなかった。目の前の体に没頭した。三井さんからは汗の匂いがして、それが更にあの夏の記憶を呼び起こした。三井さんの体を抱いた日、我を忘れるほど欲したことは覚えている。目の前の人を喰らい尽くさないと自分が死んでしまうかもしれないと、正気の沙汰ではなかった。欲情というより自分の感情をぶつけて喧嘩をしているような、その感覚に近かった。彼もまた、挑むような目をしていた。その目に体の芯が震えた。
この人が色っぽいかどうかなんて、俺が一番知ってる。こうして俺の下で喘いで泣いて、欲しい欲しいとせがむこの顔がいやらしいなんて。ずっと前から、十年前からずっと。それを今日、人に言われてようやく目の当たりにした。映像や紙の中での三井さんは、不意に見せる表情や目線の先に何も映っていないようだった。集中しているようでもあるし、ないようでもある。用意された台本通りに喋って、意識はきっと別のどこかにある。人は誰かに焦がれる時、きっとああいう表情を見せる。
どうしようか、そう思った。彼の体を抱きながら、その先を考えた。気付いてしまったからだった。俺はただ、三井さんを好きだと思っていた。好きなだけでそれだけで良かったと、そう思っていた。だから離れることも自由で、いずれ去っていかれることさえ自由だと。でもそうじゃなくて、手離せないのは俺の方だ。
もうずっと前から、十年も前から、恋をしているのは俺の方。





4へ続く



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