幸福の咎

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ベランダを出ると、冷気が体に纏わり付いた。室内との差異に一瞬引いた。さむ、と一言言うと、じゃあ来んなよ、と一蹴される。思わず舌打ちをした。すると今度は笑われた。はは、と声を出す水戸は目を細め、煙草に火を点けた。水戸はずっと、百円ライターを使っている。オレが文句を言ってから。前の彼女から貰ったというジッポを使っているのが気に入らなくて、酷く詰ったら水戸はそれを素知らぬ顔で躊躇なくゴミ箱に捨てた。水戸にとってのそれは、ただの物だった。前の彼女とジッポはイコールで結ばれていない。人は人で物は物、使えるから使っていただけだった。こんな男にオレは、今夜呪いを掛ける。しとしとした静かな聖夜と呼ばれる今夜、解けない呪いを掛けることに決めた。今夜決行。それもこれも全部、水戸が優しいせいだ。
水戸は何も言わず、煙草を吸っていた。一本吸い終わった所で、スウェットのポケットからもう一本取り出した。もう一本いい?と聞かれたので、どうぞ、と言った。これも嫌い。別にいいだろ、と思った。お前が吸いたきゃ吸えよ、と。
「今日何してた?」
「買い物、掃除、飯の準備」
「そういやケーキ、どこで買ったの?」
「横浜行ったんだよ。ばあちゃんにクリスマスプレゼント買おうと思って」
「ふーん。何買った?」
そう聞くと、水戸はオレを見た。ベランダの柵に前屈みで凭れているオレは、水戸と目線が一緒になる。しばらくじっと見つめられ、その目から離せなくなる。するとその内、水戸の方から目を逸らした。
「マフラー。前から使ってたのがくたびれてるの知ってたから」
「へえ、いいじゃん」
オレもあるんだよお前に、まだ内緒だけど。含み笑いをすると、何だよ、と水戸は訝しむ。別に、と言ってから先にリビングに戻った。椅子に座ると、水戸もリビングに戻って来る。彼も椅子に座り、残っていた日本酒に口を付ける。煙草の匂いが鼻を掠める。これは好きだった。ずっと変わらず好きだった。水戸がここに居る証明のようだと思えるからだ。この匂いが纏わり付いて鼻の奥に残っていればいいのに、何度そう思ったか知れない。
ケーキの箱を見ると、どこかで見た名前だった。あ、と思う。以前職場に置いてあった雑誌で紹介されていた店のロゴと一緒だった。美味そう、と雑誌を捲っていたからよく覚えている。
「これ有名なとこのやつだろ?」
「知らねえけど、あんたなら知ってるだろうなって思ってた」
水戸がケーキを買って来る、考えてみたらそれは珍しいことだった。彼は食わないからだ。しかもオレの好きなショートケーキとモンブラン、喉が詰まる。詰まった喉は、何度か唾を飲み込み、ようやく元に戻った。そのケーキは酷く美味かった。甘かった。美味い、と言うと水戸は、良かったね、と目を伏せて笑った。これを手離してはいけない、この男をここに置いておかなくてはいけない、オレを好きでなければいけない、消えてはいけない。ぐるぐると回る頭の中で、今飲み込んだ糖分も同じように脳内で巡る。試合をするには糖分が必要だ。頭を使わなくてはならないからだ。
ごちそうさま、そう言ってから椅子から立ち上がった。歩いて寝室へ続くドアを開け、一度閉める。ドアの音を背後に聞きながら、放り投げてあった鞄を開けた。今日買った物を取り出し、またすぐにリビングへ戻る。水戸は未だに日本酒を飲んでいたから、テーブルの真ん中辺りに軽く放るように置く。紙に包まれた小さな箱が、ころんと転がった。気軽な軽い音が響いた。
「何?」
「開けろ」
心が踊った。これを買った時はなんてくだらないと思ったのに、今はまるで違う。やっと呪いが掛けられると、体が跳ね上がりそうになった。水戸は紙を開け、箱を開ける。出て来る物は分かっている。取り出した水戸は、不思議そうに眺めている。
「何でキーケース?」
「お前が絶対帰って来るように」
「一種の呪いだな」
「呪いじゃねーよ、願掛けだよ」
ぎょっとした。バレたかとぞっとした。だから慌てて、けれども気付かれないように願掛けだと言った。呪いは相手に知られると叶わなくなるからだ。確かそうだったような気がする。もっとも、呪いと願掛けの違いは何なのかがオレには分からないけれど。絶対帰って来るように、それは本当だった。けれども嘘でもあった。本当の意味はそうじゃない。優しいお前はその呪いの意味を知らない。
水戸は玄関に行ってすぐに鍵の束を持って帰って来た。安っぽいリングに、家の鍵と車の鍵と、あれは多分職場の鍵、それが付いている。全て外して、革のキーケースに付け直した。
「かっこいいね、ありがとう」
「だろ?センスいいからオレ」
「言ってろよ」
水戸は呆れたように笑った後、玄関にそれを置きに行った。戻って来た水戸とまた少しくだらない話をして、先に風呂に入った。次に水戸が入った。妙に疲れていて眠かったけれど、ソファに座って水戸を待った。今日はまだ呪いが掛かっていないかもしれないからだ。だからここで待つことに決めた。ぼんやりとテレビを眺めながら、つい先日のことを思い出した。名前もよく知らなかった女子社員に告白された。名乗られた時にようやくその名前を知った。彼女はオレに、「好きです」と言った。悪いけど、と断った。クリスマス前はよくあるんだ昔から。クリスマス商戦的な?オレは売り物じゃねえんだよ会社で見付けるな仕事しろ。そこまでは言わなかったけれど、年下のようだったので、ごめん、と謝った。続けて彼女は「付き合ってる人居るんですか?」と聞いた。居ないけど、と言うと、「本当に好きなんです。試合もずっと見ててかっこいいなって」敵はなかなかの意欲を示してくる。参ったな、と頭を掻いて、ごめんなさい他当たってください、と深々と頭を下げた。
付き合っている人は居ない。居ないんだよ。あのよく知らない女オレを好きなんだって何てお手軽で身軽な言葉なんだろう「好き」って。この先水戸の「好き」なんて絶対に聞きたくない。その時初めてそう思った。あんな誰でも使えるような言葉。誰にでも使って来ただろう言葉。どうせ昔から使ってたんだろ好きだって。そう、誰にでも。考えていたら彼が使う「好き」も重みを全く感じなくなった。
眠い、そうは思ったけれど水戸が風呂から帰って来ないから寝室にはまだ行けない。呪いが掛かっているか確認しないといけない。でも眠いから、どうしても眠いから、ソファに横になることにした。目を閉じてしばらくすると、水戸が風呂から出てリビングに来たのが分かった。足音、それから石鹸の匂い。目を開けたいけれど、瞼が酷く重かった。開かないから少しだけ、水戸の音を聞くことに決めた。水戸は大概、オレがソファで横になっていると、前に座る。そして、八割型同じ言葉を言う。言わない時もある。ただいま、だけの時もある。けれども今日は、ただいまは無しだから、多分八割の方だ。
「風邪引くよ」
これ。ただいま以外はこの言葉を使う。そしてその後、オレの髪を撫でる。ほら今日も。水戸はしばらく髪を撫でる。自分が撫でられることは嫌がるくせに、人の髪は撫で回すのだ。
好きだよ、それ以外はない。でもオレは、水戸の「好き」は聞きたくない。それじゃあ満足出来ないからだ。だって二人は所詮二人のままで、食べられでもしない限り一つにはならない。好き以上の繋がりが欲しいのだけれど、その先はどうしたらいいものか分からない。だから俺はお前を縛ることにしました。簡単なやり方で呪いを掛けることにしました。お前の言う通り呪いです。お前が絶対帰って来るように、これを最初に言っておけば、優しい水戸はキーケースを見たら思い出す筈だ。そうしたら帰って来ざるを得ない。お前が居ないと生きていけないし、だから絶対帰って来るように、その言葉が呪い。優しいお前はそうやって縋るオレをこの先捨てられないだろ?
水戸に手を伸ばし、その体を抱き締めた。水戸の匂いが石鹸の向こう側に必ずある。それを鼻に思い切り吸い込んで、水戸の存在を確認する。水戸はオレを抱き締め返す時、いつも腕に力を込める。ぐっと寄せるように抱き締める。こうして強く、水戸はオレを抱き締めるけれど、縛ることはしない。束縛はしない。その優しさが時々、嫌で嫌で堪らなくなる。
「ケーキ美味かった、まじで」
「そういえばあんた、髪が甘い匂いする。胸焼けしそう、ケーキみたいな匂いで」
「何それよく分かんねえ。つーか胸焼けって酷くねえ?」
「でもこの匂いは好き。安心する」
また水戸はこの、お手軽な言葉を使う。だから言葉は嫌いなんだ。もっと特別な何かをくれよ頼むから。でも頼んだ所で彼はきっと、オレを縛ることはしない。だからもう、オレが呪うしかないだろ?
もっと特別な位置に行くにはどうすればいいものかと考える。恋人の位置が分からないからもう、目の前の男を逃がさないように縛り付けるしかない。
キーケースは、見れば思い出す呪いの箱。





3へ続く


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