幸福の咎

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しばらくして、新年会はお開きになった。じゃあまたな、と言い合って別れた。歩きながら、また羽織っているダウンジャケットの暖かさを感じる。寒くない。それは酔っているからかもしれないし、そうでないのかもしれない。マンションに向かう為に電車に乗り、行きと同じように箱の中の整った空調を感じる。空いた席に座り揺られながら、窓に頭を預けた。ひんやりとしているそこは、酔いを覚ますにはちょうどいい。少しの間目を閉じ、ただ何も考えない。ダウンジャケットのポケットに手を入れると、指先に何かが触れた。鍵だった。家の鍵、車の鍵、職場の事務所の鍵、その三つが繋がれたキーケースだった。三井さんが俺にそれを渡したのは、俺がデパートで買ったケーキを出した後だった。クリスマスイブの夜、大阪遠征から帰宅した彼は、ケーキを見せると喜んだ。俺は食べないからホールでは買わず、ショートケーキとモンブランを買って帰った。その小さな二つのケーキを見て、目を見開いて喜んだ。これ有名なとこのやつだろ?と言った。やっぱり知ってる、俺は笑った。夕食の後で出したそれを頬張る彼を見て、こんなもんで喜ぶならもっと買って来れば良かったとも思ったし、カシミヤのマフラーを買えばどうなっただろうとも思った。でもこの人は、俺がそれをしないことをよく知っている。
ケーキを食べた後、三井さんは寝室に一度行き、すぐに帰って来た。すると、梱包された小さな箱を俺の目の前に投げるように置いた。何?と聞くと、開けろ、と返される。シンプルな包装だった。深いグリーンの包装紙を開けると、茶色い箱が出て来た。それを開けると、杢グレーの革で出来たキーケースが入っている。
「何でキーケース?」
「お前が絶対帰って来るように」
「一種の呪いだな」
「呪いじゃねーよ、願掛けだよ」
願掛けなんてしなくても、と半ば呆れながらキーケースに鍵を付け直した。三井さんは酷く満足そうで、その日はとても機嫌が良かった。こんなことなら、と一瞬だけ考えて、それはすぐに払拭される。くっだらねえ、その後頭の中に浮かんだ言葉はそれだった。
最寄駅に電車が着き、また歩いた。三井さんは今何をしているだろうか、寝ているだろうか起きているだろうか。寝ていたらいいと思った。きちんとベッドで。相変わらず体は暖かかった。ダウンジャケットのお陰だった。ポケットに突っ込んだ手も暖かく、そこだけ季節が違うような気もした。けれども吐き出す息が白いので、今は冬なのだと確認する。この道ももう慣れてしまった。あの角を曲がり、それから直線で凡そ百メートル、そうするとマンションに着く。見慣れた景色を歩き、もう着いた。いつ見ても綺麗なそこは、完全に作られた箱庭だった。他の部屋に入ったことは勿論ない。けれど、同じ部屋が幾つも並んだ箱庭。エレベーターで二階へ上がり、角部屋まで歩く。部屋の前で、キーケースを取り出した。家の鍵を鍵穴に入れて、ぐるりと捻ると、そこは簡単に開く。
玄関は真っ暗だった。けれどもリビングの灯りは漏れていた。まだ起きてる?携帯を取り出し時間を確認すると、ちょうど日付けが変わった頃だった。テレビの音は漏れているけれど、物音はしない。きっとソファで寝てる、待ちくたびれて。洗面所に入り、手を洗った。それからうがいをした。三井さんは最近、俺が帰宅するまでベッドで眠らなくなった。待っていた。起きている訳ではなく、大概ソファで眠っている。ベッドで寝てればいいのに、そう言うと彼は、寝惚けた顔をして、待ってた訳じゃねーよ、と頭を掻く。そして寝室へ行く。嘘だと思った。帰って来るのに、とも思った。呪いを掛けなくても、俺はちゃんと帰るのに。
リビングのドアを開けると、やはりよく見る光景が目に入る。テレビもエアコンも点けっぱなしで、大きな体をソファいっぱいに使って、三井さんは眠っている。
「ただいま」
これを言っても気付かないことを、俺はよく知っている。一度寝入ってしまうと、この人はなかなか起きない。ダウンジャケットを脱いで適当に置き、ソファの前に座った。眠っているこの人を見ていると、どうしようもない感情に襲われる。
お前が居ないと生きていけないかも。
あれを言った後から、この人は少し変わった。俺の帰宅をここで待つようになった。どこでも付いて来るようになった。執着しているのが目に見えて分かるようになった。どうしたの?と聞いても、別に、としか答えなくなった。何より、バスケとこの人が一致しなくなった。サンダースの三井コーチが俺の中で消えた。
どうせ一生一緒に居てくれないんだろ?俺は以前そう言った。三井さんは、死んだ気でオレと生きろ、と言った。負けたと思ったのは、また先延ばしにしてしまうと思ったからだ。この人は狡い。そして賢い。その時々に使う言葉をよく知っている。どうせ一生一緒になんて居られない。一生変わらずに続くなんて夢か幻だ。馬鹿げている。この人はいつか夢から覚める。「こんな男に何でこんなに執着してたんだろう。こんなろくでもない男に」と。俺はそれが覚めるまで、この人の一生のうちの一瞬の時間が欲しかった。それで十分だった。全部奪うなどとんでもない話だった。
三井さんの頭を撫でると、軽く身動いだ。ずっと触れていたいと思った。柔らかい髪の毛を酷く愛しいと思った。一番厄介なのは、この人の執着を受け入れている自分だった。これじゃあまるで恋人みたいじゃないか。罪悪感と少しの歓喜が錯綜する。三井さんは、俺の好きな人で先輩で友達で自立しただらしない大人で、それ以上でもそれ以下でもなかった筈なのに。
手離すのを明日にしよう、明後日にしよう、毎日毎日、明日は続く。一番狡いのは、三井さんの執着につけ込んでいる俺。





2へ続く


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