短編

□ささやかな微睡
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 昼休みに鳴るメールの着信音は、今もずっと変えていない。買った時のままになっている。
 スマートフォンにも変えていないし、ガラケーのままだった。これが壊れたらさすがにもう、スマートフォンに変えなければいけないだろう。水戸は三井から届いたメールを見て、的外れにもそんなことを考えた。
 今日は週明けの月曜日だ。昼休憩の今時分に大体、彼からのメールは届く。一緒に暮らすようになってから、ほぼ毎日それは届いた。もっとも、喧嘩遠征長期いざこざ以外の「ほぼ」だけれど。
 メールにはいつも、今日は何時ごろに帰る、帰りが遅い、遅いけどメシはいる、メシはいらない、その中のどれかが書かれていて、或いは組み合わされていて、その業務連絡にも似た文面に、了解しました、と水戸は返していた。今日は、「遅くなる。メシいらない」と書かれてあった。了解しました。水戸はいつもと同じように、同じ文面で返した。毎日打っているからか、「り」を打てば「了解」と予測変換で出てくるし、「了解」を入力すればまた、「しました」が予測変換で出てくる。お陰で、水戸の返信は、秒で終わってしまう。
 何気に送信ボックスを覗いてみると、送信相手は「三井寿」の名前がずらりと並んでいて、文面は「了解しました」だらけだった。水戸は思わず、吹き出してしまった。かといって、変える気にもならない。秒で終わる返信は、とても楽だった。
 この夏は、暑い日が続いていた。とても暑い夏だった。蝉の鳴き声が、また始まり出した頃だった。水色の絵具で色むらなく描いたような空の中に、白とくすんだ薄グレーで影を彩って並ぶ雲が、とても大きかった。この空を見上げると、毎年思う。またこの季節が来てしまったと。
 水戸の帰宅時間は午後八時半頃だった。三井からの連絡通り、彼の姿はなかった。とはいえ、リーグ戦前のこの時期は、プランニングやプロモーション、それに伴うメディア戦略の為に忙しい、らしい。水戸はよく知らない。ただ、三井の話す言葉が、普段とは想像も付かないほど滑らかな口調で、そう話していた。横文字の言葉を自分のものとして語る姿に、水戸は、うん、うん、と相槌を打ちながら不思議な気分になる。てめえ聞いてんのか、と言うときだけ、普段に戻る。不思議な気分から、一変する。聞いてる、と笑う。そういう時、この家の真新しい木の香が、ふっと過ぎる。裸足で歩くと心地いい、渇いた木の香。けれどもそれも、思わず辺りを見渡してしまうほど、不思議に思う。
 基本的に、最近の三井の帰宅は遅かった。メディア戦略に於いて、見栄えのいい彼は適任だと思う。ただ、本人曰くひどく疲れるそうだ。疲れた、疲れた、やれ疲れた、そんなことを毎日言う。
 がらがら、とコンクリートを擦る玄関の音が、大きく響いた。古びたそれは、よく砂を噛む。水戸はそれを、好ましく思った。古民家を改装する際、建築士の竹野内と相談した結果、玄関扉はそのまま使う話でまとまった。さすがに鑢などは掛け、修復しなければならない箇所もあったのだが。しかし、玄関一つに至っても、これが我が家という感覚が、今の水戸にはまだない。未だに嗅ぎ慣れない木の香りだらけだし、住み慣れた匂いはない。リノベーションとはいえ、直す箇所が多過ぎて、ほぼ新築のようなものだった。
 玄関脇にあるスイッチを入れると、チェーンペンダントの灯りが、小さく灯った。電球色の柔らかい色合いは、緩くほかほかするのに、薄暗い。むわっとした蒸し暑さが体に纏わり付いた。短い廊下の側にあるリビングに入り、またスイッチを入れる。部屋が明るくなって一番に目に映ったのは、だだっ広いリビングだった。蒸した空気の中で、ふっと香る。また木の香りがする。
 あっち、と一言呟いて、リビングから直接行ける洗面所で手を洗った。エアコンのスイッチを入れ、冷蔵庫を開けるものの、食材は並んでいるのに作る気分にはならない。さて、どうしたものか。とは考えたものの、やはり作って食べようという気分にはならなかった。とりあえず冷蔵庫から缶ビールを取り出し、プルタブを開けた。ごくごくと喉を鳴らす音がよく通るのは、この部屋が静かだからだ。水戸は缶ビールを手に持ったまま、リビングの大きな窓を開けて外に出る。振り返ると、電球色がぼんやりと光る室内がよく見えた。
 縁側に腰掛け、曖昧に残る明るさを背に、目の前に映る夜の庭の景色を眺める。植えてある木も、畑とも呼べない幾つかの苗木も、そこそこ茂っている緑色はもう見えなくて、濃い藍色に変わってしまった。生温く湿気た風が、水戸の頬や首筋を、ざわりとなぞるように伝う。夏の夜は蒸し暑く、外にいることが不快であることは違いなかった。持っていた缶ビールを飲み、ただ座っているだけ。
 雑草生えてきた、草抜きしないと、次の休みの日、あっちーなあ、暑いんだろうな、三井さんはやらねえだろうな、頑張れーなんて言われて、あんたもやれよって文句言って、しょうがないから渋々出てきて、でも多分植えてあるミニトマトとか食ってばっかでやらねえんだろ。
 想像すると面白くて、ふっと息を漏らした。ジジー、ジジー、カナカナカナ、夜の虫の鳴き声が、忙しなく優しく、蒸し暑さを和らげる鳴き方をする。だから外にいても平気だった。交差して喧しいのに雑音にはならないのはなぜだろう。クビキリギス、ヒグラシ、君たちは息継ぎしてんの? そんなことを考えてしまう。
 背後には、柔い灯りに照らされる、ぼーっとしたリビングがあった。庭が真っ暗闇に覆われていないのはそのせいだ。不意に振り返ると、誰もいない。いつもたくさんお喋りをするあの人は、今日はいない。
 いつの間にか、鳴き声が昼間の蝉じゃなくて、夜の虫に変わってしまった。あの人の喧しい声も交差してうるさいのに、雑音じゃなくなっている。もっと話して、なんでもいい。決して喧しくない、夜の虫。
 なんかすげえ、変わるんだ、時間って。ちゃんと流れてる。
 水戸は立ち上がり、もう一度ビールを飲んだ。そこでようやく、涼しくなっただろうリビングへ戻った。すっかり冷えてしまった室内は、とても心地良かった。もう一度だけ冷蔵庫を開けた。やはり食材は並んでいたけれど、どうしても作る気分にはならない。炊飯器には朝炊いたままの米がそのままあって、腹は減っていたから茶碗に多目に装った。そこに、小分けしてある鰹節をかけて、ついでに醤油を垂らした。通称猫まんま。もうこれとビールでいいや、後は適当に漬物齧る、漬物あったっけ? まあいいや。水戸は茶碗と箸を持ち、ダイニングテーブルに座った。
「いただきます」
 と言っても、辺りは静まり返っている。口に放り込んで咀嚼して飲み込んで、特になんともない食事。
 なん口か食べた所で、玄関の開く音がした。がらがらと砂を噛む、あの古臭い音。え? と、ただ思った。なんで? と。すぐにリビングの引き戸が開いて、立っているのは三井だった。
「ただいま」
「え、なんで?」
「てめえこら、ただいまと言ったらおかえりだろ」
 久々に聞いた台詞に思わず、水戸は笑ってしまう。
「ごめん、おかえり」
 あー疲れた、三井はそう言って、迷わず冷蔵庫から缶ビールを取り出した。プルタブを開け、飲んでいる。手ぇ洗った? と聞くと、今洗うよ、と来た。変わらない日常と変わらないやり取りに、水戸はまた不思議な気分になる。ざーっと水道が流れる音を聞きながら、心許ない感覚は置き去りのままで、目の前の猫まんまを口の中に放り込んだ。
「今日飲み会っつーか、広報のスタッフと仕事終わりにメシでもって話だったんだけど、一人急用入っちゃって。そんで結局なしになったからよー、帰って来た」
 独り言のように彼は呟き、水戸はそれに、へえ、と言う。ビニール袋のがさがさする音がして振り返ると、三井は何やら取り出していた。それと缶ビールを持ち、水戸の前に座る。テーブルに置いたのは、スーパーのカツオのたたきだった。結構な量で、「半額」のシールがでかでかと貼ってある。そうそう、時間遅いと半額になるんだよね、と目の前のパックを眺めた。
「つーかおまえ、何食ってんの? 何それ」
「何って……」
 別に不器用な悪さをしているわけでもないのに、妙にばつが悪くなる。頭を一度掻き、三井から目を背けた。
「ご飯と鰹節と醤油です」
「ほー、世間で言う猫まんまというやつですね」
「さすが三井ヘッドコーチ、物知り。さすが」
 誤魔化すように彼を持ち上げた調子で喋ると、三井は、ふっと息を吐くように笑った。
「おまえよー、オレには食生活ちゃんとしろって言ってたくせに」
「一人だったらこんなもんだろ。作るのめんどくさかったし、腹に溜まりゃいいやって時あんじゃん」
「でもオレ、おまえがあのマンションから出て行った時もそれなりに作ってたんですけどー」
 そう言われた時、口の中に放り込もうとしていた箸が止まる。あー、と言って、尚更ばつが悪くなったのだけれど、結局そのまま口の中に入れた。するとなぜか、なんの変哲のない鰹節と醤油の味が、やけに舌に染みるのだ。あれ? と、ただ思う。思わず三井の顔を見ると、彼は、何? と問う。自分でも分からなくて水戸は、首を振った。
「おまえが猫まんまね、笑える」
 くく、と悪戯に笑う三井は、一度立ち上がった。炊飯器を開けたので、彼も米を装うようだ。少しして箸と茶碗を持って戻ってくる。いただきます、と言うと、三井はカツオのたたきが入ったパックを開けた。
「一緒に食わねえ? おまえ猫まんまだけじゃさすがにかわいそうだろ」
 かわいそうと言いつつ、三井はとても楽しそうに笑っていた。というより、揶揄した調子だった。別に要らない、と思いつつ、どうも、と水戸も箸を伸ばして一切れ食べる。驚いた。美味かった。スーパーの半額、カツオのたたき。
 ああそっか、そうだよな。一人で庭に出たのも、夜の虫の鳴き声も、交差する鳴き声が喧しく聞こえなかったのも。
「あんたがいたから作ってたんだよ」
「え?」
「人と食べるならそれなりに考えるだろ」
「まあ、そうだな」
 三井はビールに口を付けた。飲み込む音はあまりしなかった。二人で会話をしていて、リビングは決して静かではないからだ。
「別に俺、料理が趣味ってわけじゃねえし、美味い不味い特にないし、基本食えりゃなんでもいいんだよね」
「うん、だと思った」
「でもなんだろ、カツオのたたき、美味いよ。猫まんまも、今は美味い」
「え? ただのスーパーのカツオのたたきじゃん」
 はは、カツオ繋がり。そう続けて、三井は一人笑っていた。
「じゃなくて、一緒に食べる相手が重要ってこと。分かんねえかなあ、三井さん」
 カツオのたたきと猫まんまを一緒に口の中に放り込んでも、今はほら、悪くない。意外と、面白いほど、悪くないんだ。
 三井は水戸を見て、驚いたように瞬きをする。なにー? と聞くと、彼はふっと笑った。
「おまえそれ今更。ずっと前から知ってたよ、オレは」
「あ、そーですか。それはなんかすんません」
 わかればいいの、と得意気に言うから、舌打ちをした。舌打ちすんな、と釘を刺されたので、はいはいごめんね、と窘めた。
 以前住んでいたマンションと今の生活に、特別な変化はない。朝は別々に起きるし、朝食も別の時が多い。日中は当然、行動は別だ。ただ夕食だけは、一緒に食べることが多い。合わせよう、なんて話はしたことがないし、約束もしていない。それでも毎日メールは着て、毎日同じ着信音が鳴る。水戸の携帯電話がガラケーから今後スマートフォンに変わっても、きっと一緒。同じ文面が並んで、「了解しました」と返信する。
 この先いつか、この家の際立った木の香りも、妙な心許なさも、気にならなくなる日が来る。いつか、必ず。
「明日は普通に帰れそう」
「それ今言うの?」
「またおまえが猫まんま食ったらかわいそうだから。くくっ」
「あー、うるっせえ」
 続く日々はまるで、昼寝のようなうたたねのような。それはささやかであることに違いない。




 終



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