短編

□無垢な心を置いてゆけ
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 あー疲れた。飲みたい。外で。
 水戸にそのメールを送ったのは、サンダースの事務所でパソコンを前にしている時だった。オフシーズンの上、且つ自分はまだアシスタントコーチの身だ。雑用は多い。一番苦手な分野に加え、これが連日のように続いている。やだ、もうやだ絶対やだ飲んでやる! 三井の苛つきは凡そ頂点に達していて、飲みたい飲んでやる明日のことなんて知らねえばーっか! と、誰に言うでもない悪態を、心の中で吐いた。
 この時間以前に、三井は水戸に電話まで掛けている。時間は午後五時前で、当然相手は出ない。分かった上で掛け、出なかったからメールを入れた。それからパソコンの前で唸っている。
 雑用は山積みだった。とにかく山積みだった。すぐ終わるなんてタカを括っていたらこれだ。お陰で水戸とも、二週間は会えていない。
 そのツケも、今になって回って来た。
 粗方目処がついたのは、午後八時前だった。スツールから立ち上がり、残りは明日早めに出社して、と考えた時、はたと気付く。明日、明日なあ、三井は緩くゆっくりと息を吐いた。水戸は明日がなんの日かなんて、きっと知らない。あなたは明日がなんの日か、ご存知ですか? なんて話もきっと、彼には通じない。
 首をぐるりと回し、一つ小さな声を出した。呟きに近いそれは、誰も居なくなった事務所に響いた。お疲れ様でしたオレ、自分を労るような言葉を漏らし、三井は歩き出した。そういえば、つい数時間ほど前まで色々な同僚に言ったのだ。お疲れ様でした、と。お先です、と帰って行く同僚を見送った記憶が、今日の三井にはなぜだか鮮明に残っていた。自分が今、いるべき居場所はここ、ちょっとした瞬間にふと、そんな感覚が流れてくる。夜だから、一人だから、そんなもん? 叙情的なことを考えるのは、苦手な方だった。
 事務所を出て、タイムカードを押し、外に出る。五月のこの時期は、驚くほど肌に寒暖差を感じない。つい先日までは、暑くて寒くて暑くて寒くて、気候と天気に波のような変化があったのに。
 パンツのポケットからスマートフォンを取り出してみるものの、水戸からの着信はない。メールの返信など確認するまでもない。あいつはそんなもん、分かっていながら鳴っていないそれを確認するだけに過ぎなかった。自然と出ていた舌打ちは、聞こえない振りをする。
 平日のJRは混んでいて、時間も時間だからかシートは空いていなかった。吊革を掴み、窓の外を眺める。枠の向こう側に見える暗闇には、色とりどりの灯りが散らばって重なって見えた。赤、黄色、オレンジ、ブルー、流れては新しい色が散る。電車内には、変わらず人が居る。スーツに私服に制服にまたスーツ、仕事帰り、学校帰り、遊んだ帰り、この箱の中はいつも、現実が溢れていた。
 藤沢駅で三井は降車し、改札口を出る。歩いている人達を横切り、吐く息の単調さを感じながら、一軒の店の看板を見上げたところでようやくスマートフォンが振動する。ディスプレイには図々しくも水戸洋平の名前が映されていた。ばーっかアホ!
「てめえ! おっせえんだよ!」
「あー、うるっせえ。こっち、目線下げて前」
 水戸の声に瞬きをして目線の高さを変えると、数メートル先に見知った男が見える。あ、と口を開けると、間抜けな顔、と電話口から聞こえた。すぐに通話を切り、店のドアを素通りして水戸に近付いた。よう、お疲れさん、と普段と変わらない様子の彼に三井は、口を噤んで歪ませた。
「来ると思った」
 三井の反応を他所に、水戸は、はは、と笑っている。
「おまえ連絡しろよ」
「俺もさっき終わって直接来たんだって。ちょうどあんたが見えたからさ」
 間抜け顔、と言って未だに水戸は笑っている。その前に連絡しろ、重ねるように言うと水戸は、外で飲むならここだろ? と言う。まあそうか、三井が言うと同時に、二人で歩き出した。車は? と三井が聞くと、職場、と短く返ってくる。水戸の職場は確か、ここから十五分程度歩いた先にある。
 水戸の顔を見下ろし、三井は思う。あなたは明日がなんの日か、ご存知ですか? と。じーっと睨むようにしていると水戸は、なんだよ、と言って三井を見上げた。別にー、とわざと語尾を伸ばすと、水戸はふっと息を漏らした。
店のドアを開けると、カウンターが空いている。二人で来ると、大概座る席はカウンターだった。そこには二人以外居らず、よく話をする男性店員だけがカウンターの奥に立っていた。いらっしゃい、と男性店員がにこやかに言った。どうも、と会釈し、二人で座る。水戸は、こんばんは、と挨拶をした後、アメリカンスタイルください、と続ける。苦味の強い王道のビールだ。水戸はよく、このビールを頼む。この店はクラフトビールの種類も豊富だし、料理も手頃で美味い。二人で外で飲むなんて滅多にないけれど、来るなら大概ここだった。
 三井は、アンバーロースターのSください、と男性に注文する。彼は笑みを残してサーバーに向かった。
「おまえよー」
「ん?」
 問うてみたものの、聞く言葉が見つからないのだ。明日が何? それを言われることをよく知っていたから。
「あーいや、忙しい?」
「んー、まあまあ。あんたは忙しそうだね」
「まじでなー、明日も早えし」
 そう、と水戸が言った時、紙のコースターの上にアンバーロースターとアメリカンスタイルが置かれた。お疲れですね、と穏やかな声を出す店員の言葉に、ああ腹減った、と天井を仰ぐ。そこは照明が薄暗く、オレンジ色の明るさの曖昧さに、三井は何度か瞬きをした。
「キタさん、オレまじで腹減ってんの。アヒージョとサーモンのカルパッチョ、それからピザのプレーン、とりあえず」
「俺ピルスナーください。あとはキタさんのオススメでいいや、腹にがっつり溜まるやつ」
「え、おまえもう飲んだの?」
「うん。美味くて」
 キタさん、というのが、カウンターに居るいつもの店員だ。美味しいクラフトビールを注いでくれる。水戸が店員と会話をすることは珍しいのだけれど、彼とは車やバイクの話で合うようだ。水戸は新しい店にはあまり行きたがらないし、三井が他の店に誘うと露骨に嫌そうな顔をする。それが続くうち、飲む時はここが定番になる。むしろ、この空間が好きだった。
 暗過ぎず広過ぎない店内に、美味しいアルコールと食事、気兼ね無い会話、一人で来ることも時々ある。それもまた、水戸と会えない時間が増えて忙しい日々が続いた時に。それがこの男は何だ。着信は無視した挙句、返信も無い。その上、来ると思ってた、ときた。明日の意味も知らないくせに。未だに口を噤んだままでいる三井に、どうした? と水戸は聞く。別に、と目を逸らしてビールに口を付ける。ああもう本当に美味い、脱力してしまうほどの飲み心地に、三井は息を吐いた。
 次第に運ばれて来る料理に二人で箸を伸ばし、ビールが無くなれば新しく頼んで、そうしているうちに、段々と口を噤むことも面倒になる。水戸は変わらず、黙々と食べたり飲んだり、時々言葉を繋げる。店内に流れている音楽の中でも、水戸の声は三井の耳によく通った。低過ぎず高過ぎない、主張もしない声だった。口調も早過ぎないし、遅くもない。いつぶりだっけ? と聞かれ、二週間、と手短かに答えた。へえ二週間か、多少表情は動いたものの、驚いた様子はなかった。三井は段々と、口数が多くなって行く。雑用がすげえ量で。机の上の仕事は苦手だ。そんな話を水戸にした。三井は周りで起こっている現実の話を、水戸にする。彼はいつも通り、へえ、そう、それから? また早過ぎない口調で、焦らせないように聞く。そうして三井の言葉を施すような口調は、高校生の頃から随分と変わってしまった。カウンターに頬杖を付き、三井を見て、その表情は柔くて緩やかなものだった。これもまた、随分と違う。
 次第に酔いが回る脳に三井は、電車で見渡した光景と今のこれと、どちらが現実が分からなくなる。もっとも、両方が現実で、少しだけ過去と現在だ。だとしても、ああ好きだなあ、それしか分からなくなる。
 治ることを忘れてしまった病気みたいだ。

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