短編

□それだけの理由
2ページ/2ページ


「ただいま」
 三井が帰宅したのは、午後七時半頃だった。ホームのデーゲームだったからか、帰宅も早い。ただいま、彼がそれを言う家は、今はこのマンションだ。
「おかえり」
 そして、おかえりを言うのは自分だった。試合どうだった? 聞いたものの、答えは分かっている。
「勝ったよ」
「だと思った」
 いつからか、三井の表情を一目見るだけで、勝敗が分かるようになった。彼は感情が顔に出やすい。だからかもしれない。本当は違うのかもしれない。ただ、どうでもいいことなのだと思う。一目見て分かる、その事実があれば。お疲れさん、水戸はそう言って、冷蔵庫から缶ビールを二本取り出した。プルタブを開け、二人で缶を合わせる。今日は豚の角煮にしておいた。祖母の家に行った時に嗅いだ染み付いた和食の匂いが、鼻の奥から消えなかったからだ。三井はキッチンを覗き込み、角煮じゃん美味そう! この人の瞳こそ、玩具箱みたいに見える。きらきらして、可能性しか秘めていない。狡さと負けん気と努力と、可能性。水戸は昔から、この可能性を自分が全部奪っていると思っていた。自由も不自由も両方とも、素手で全部掻っ攫ってしまったのだと。
 でもそうじゃなくて、そんなくだらない卑屈な理由なんて、理由にもなってなかった。空の色が変わって見えたのは、きっかけをくれたのは竹野内だった。でもそれだけじゃない。
「カメラ買ったよ」
「まじかよ、見せろ」
「そこ、あっちのローテーブルに置いてあるだろ」
 水戸は豚の角煮を温めようと、コンロに火を点ける。その間に、ほうれん草のお浸しや、つまみになりそうなものを冷蔵庫から取り出した。カメラを見付けた三井は、おおー! 感嘆の声を上げ、さっきよりもっと目を輝かせる。
「しかもニコンって辺りがさー、お前もあれだな、ベタなやつが好きなんだな」
「ベタもなんも分かんねえよ。店員さんに聞いたらそれがいいって」
「へえー。何か撮った? 家行ったんじゃねえの?」
 手に持っていたカメラを三井は扱い方が分からない様子で、そっとテーブルに戻した。ぐつぐつ煮えている角煮はもう少し煮立たさせたまま弱火にして、リビングに足を向ける。湯気から漂う角煮の匂いに、水戸はまた祖母の家を思い出した。おかえりの言葉、変わらないサンダル、一つ結びの髪、上品な服装。震えた肩。
 ばあちゃんごめんね。俺ずっと前から三井さんが好きだった。好きで好きで、もうどうしようもない。ごめん。でもばあちゃんにやっと言えて、空の色が変わった理由が分かった。
「家は撮ってねえよ」
「何で」
「はい、三井ヘッドコーチ、いい顔してー」
 水戸はカメラを手に取り、始めて構えてみる。ピントを合わせて、シャッターを押す。それだけの作業なのに、掌に掛かる重みが、手の動きを鈍らせた。初めて持つ一眼レフのカメラは、軽量のものを選んで購入したものの、重い。シャッター音は、失敗を予感させる。ぼやけた顔が撮れたに違いない。
「はあ? お前ふざけんなよ! オレ今絶対ブサイクだった!」
「はは! 大丈夫大丈夫、元々の顔以上にゃ撮れねえから」
「あ、てめえこら、オレがどんだけ男前か知らねえだろ。あ?」
 角煮が煮える小さな音、室内に充満する和食の匂い、これがこの先も続きますように。
「大丈夫。好きだよ」
「ご、誤魔化してんじゃねえよアホ!」
 大丈夫、好きだよ。たったそれだけの理由。それだけの理由で、空の色も変わる。






前へ

[戻る]
[TOPへ]

[しおり]






カスタマイズ