短編

□それだけの理由
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 初めて持つ一眼レフのカメラは、軽量のものを選んで購入したものの、重い。
 本当に気軽な気持ちだった。昨夜、カメラ欲しくなったな、なんて口にしたのは、記録を残しておきたいというどこか漠然とした理由からだった。家が出来上がっていくのがこの先、流れ作業になってしまうようになれば、惜しいな、と単純に感じたからだ。その上三井が、「本当に欲しい物はオレに言う」などと言ったのだ。以前なら、は? 言わねえよ、と悪態を吐いていただろう。だけれど今は少し違う。附に落ちた部分があった。
 昨日歩いた道を、水戸は今、また歩いている。今日は手土産の代わりに、黒のカメラが入った紙袋を持っていた。何しろ水戸は、カメラに関しては全くの初心者だ。撮ろうと考えたこともないし、あの人を収めておこうなんて鳥肌が立ちそうなことも、全く考えたことがなかった。使ったことがあるとしたら、友人らと遊び半分で使っていた使い捨てカメラ。その程度だ。その自分が、今はずっしりと手に収まる機械を紙袋に入れて持っている。
 とりあえずカメラが買える場所は家電量販店だろう、と酷く安易な理由で向かった。午後二時辺りのことだった。様々な音が重なって鳴り響く、喧しい店内を歩いた。日曜日の家電量販店は家族連れや男女、とにかく普段着の姿で歩いている人が多い。それを通り抜け、カメラが置いてあるスペースに行くのだけれど、種類が多過ぎてさっぱり分からない。一通り見て回るものの、やはり分からない。ちょうど後ろを通り過ぎたスタッフに、すみません、と声を掛ける。振り返って微笑む男性に、カメラが欲しいんですけど、と伝えた。彼はちょうど、カメラに詳しい専門のスタッフだったようで、予算や欲しい機能、耐久性や重さ、事細かく丁寧に聞いてくれた。もっとも水戸は初心者だ。何も分からない。その上全く調べることをしないまま、高い買い物をしようとしている。こんなことは過去を振り返ってもしたことがない。
 俺カメラに関しては全くの初心者なんです。予算は十万くらいで機能は記録に残せりゃいいくらい。出来れば持ち歩きに便利なタイプで軽い方がいいかな。
 ゆっくりと、質問をなぞるように言うと、男性は頷いた。そうですね、彼はそう言って、水戸が先ほどまで眺めていたカメラの列を見ているのか、左から右に目線を動かしている。そして、すっと手を伸ばしたかと思うと、一つカメラを手に持った。
「これはいかがですか? 軽さもちょうどいいかと思いますよ」
 見せられたカメラには、ニコンと白文字で書かれてある。初心者の水戸も、この社名は知っていた。
「持ってみてもいいですか?」
 知らないくせに、とは思いつつ、精巧で綺麗な線を描く機械に単純に惹かれたのだ。持ったらどんな馴染み方なんだろう、子供じみた興味が、ふっと湧くように生まれて来る。ぜひ、スタッフの男性はにこやかに微笑み、水戸にカメラを手渡した。手にしたカメラは、ちょうどいい軽さとはいえ、内側に籠もる重さが残る。だけれどその重みや、掌に残る馴染み方が、なんかいいな、そんな風に思えたのだ。直感的に、なんかいいな、と。
 スタッフの彼を見ると、またにこりと笑って、丁寧にカメラの説明をしてくれる。水戸に選んでくれたのは、ニコンDシリーズのフルサイズ機のなかで、入門機に位置付けられているというD610という機種らしい。価格も予算内で、何より手に持った感触がしっくり来た。これにします、即決したのは未だに愛車として乗っている車以来だ。バイクも車も、直感的に選んだものに後悔したことはなかった。
今はそのカメラが入った紙袋を持ち、また昨日と同じ道を歩いている。石段を上がり、壊される予定のない門扉を開ける。空を見上げると、また青空が広がっていた。ただ今日は、ぽつぽつと雲がある。筆でざっと荒く描いたような雲が転々と。
昨日の景色と違う、梁の枠に入る空が違う、なんかすげえ。見える景色が変わって見える。
 随分前に見たテレビに、とある芸人が出ていて言っていた。芸人になりたくて、なりたいから某有名大学を中退したのだという。その日に見上げた空の色は、今までと全く違って見えたのだそうだ。「空の色が変わって見えた」その芸人は、本気でそう思ったのだと。落語好きから生じて、その芸人がテレビに映ると、水戸は時々眺めることがあった。それを思い出した。
 重たい紙袋を持ち直し、カメラを取り出して初めての写真を撮ってみようか、考えたものの、結局撮ることはやめてしまう。ずっる! 三井が昨夜言った、あんた幾つだと呆れてしまった言葉を思い出した。ずっりーだろ、な? 空の色が変わって見えるんだよ。見上げて口元を緩めると、足音がする。そちらを見ると、手を振って近付いている竹野内だった。
「水戸さん。今日も来てくださったんですか?」
 今日は日曜日だ。彼は土日祝日関係なく働いている。思えば打ち合わせも、水戸が彼と会う日は土日だったし、三井と会う日は平日だった。客の意向に従う、つくづく大変な仕事だ。水戸は会釈をし、竹野内に向き合った。
「竹野内さんこそ。今日も来てくださったんですね」
「いやいや、俺は仕事ですから。気になるとね、来ちゃうんですよ」
 緩くはにかむ微笑みに、水戸も釣られて笑ってしまう。不意に竹野内の視線が下に向く。家電量販店の紙袋に対してだと分かった。派手に飾ってあるそれは、見るからに目立つからだ。水戸は竹野内に見せるように持ち上げ、すぐに下ろした。
「カメラ買ったんです。昨日この状態の家を見た時、何つーか記録に残したいって思ったんですよね」
「嬉しいです、そう言っていただけるのは。俺も仕事柄よく撮りますよ。デジカメが気軽に使えるから普段はそっちですけど、記録に残したい時は一眼レフ使うんです。水戸さんは?」
「初心者のくせに一眼レフ買ったんです。バカでしょ?」
 我ながら思い切った行動に、自分のことながら笑ってしまう。竹野内はかぶりを振り、裸になっている家に目を向ける。これが仕事だと言う彼の目元も表情も、もう中年の、適度に皺のあるものだった。そのくせ、瞳の奥にはきちんと玩具箱のようなものを隠している。水戸は不意に、彼も昨夜、大切な誰かと食事をしたのだろうかと思った。暖かい部屋で、楽しいと感じる食事を。竹野内と話した世間話、付いて来る現実世界、全て自分自身で決めたこと。ふと聞いた話の派生から生まれたはずなのに、全て繋がっているようだ。
 空の色が変わって見えるなんて、俺は知らなかった。後ろめたさなんてずっとあるのに、きっとこの先もあるのに、踏み出しただけでこんなにも違うのか。
「竹野内さん」
「はい」
「今日は俺が世間話をしてもいいですか?」
 竹野内は瞬きをする。そして微笑み、もちろん、と言って目を伏せた。
 水戸は今朝、カメラを買いに行く前のことだ。午前中の所で、祖母の家に行った。鎌倉に家を購入したこと、三井と暮らすこと、それを伝えようと今朝連絡したからだった。祖母の家に着き、もう古びた家屋の古びて燻んだ呼び鈴を押すと、屋内からぱたぱたと、スリッパが擦れる音が聞こえた。鍵が開き、祖母は玄関を開ける。摺硝子と木材で出来た、昔から変わらない玄関だった。がらがらと引かれるのも変わらず、祖母が開けて出て来る時に履いてくる昔からのサンダルも変わらなかった。彼女はにこりと微笑み、一言言った。
 水戸は彼女がいつも言う言葉と笑顔に、一瞬口を噤んでしまう。
「今朝、祖母の家に行きました。俺の実家です。ガキの頃色々あって、俺を育ててくれたのは祖母でした。って言っても、ばあちゃんって歳でもないんです。まだ六十くらい。そんな年齢にも見えない。若々しくて可愛くてとにかく元気で、俺が帰るといつも言ってくれる」
 おかえりって。
 今朝も同じだった。彼女は水戸の顔を見て、言ってくれた。変わらないおかえりの言葉。表情は変わらず笑顔で、溌剌とは違う柔くて穏やかな、溢れるような表情だった。愛されている、一目見て分かるそれに、水戸は足が竦んだ。俺はこの人を傷付ける、今から傷付けるのかもしれない、だったらもう、お互いに見ない振りをしていた日々に結論なんて付けなくてもいいんじゃないか、この笑顔が無くなってしまうなら。
 早口言葉のように過ぎて行く言葉の羅列に、水戸の足は一歩が踏み出せない。どうしたの? 早く入って。今は消えていない祖母の笑顔を見下ろしながら、彼女の背が縮んだのではないかと心配をする。所在無いまま玄関に足を踏み入れた時、祖母の背中が見えた。しゃんと伸びているようで、幼い頃とは全く違う。反抗ばかりしていたあの頃、見捨てなかった彼女、そうだ背が縮んだんじゃない。自分の身長が伸びただけだった。ただいま、それを言う場所も変わってしまったと気付いてしまう。
「もう古い家です。廊下を歩くとぎしぎし言って、足が抜けんじゃねえかなってくらい。ガキの頃、天井に鼠が走ってたこともあった。そんな家なんです」
「素敵じゃないですか。一度見てみたい」
 水戸はかぶりを振った。そんないいもんじゃないですよ、目を伏せて言うと、竹野内は水戸を見る。
 祖母はそれから、水戸を和室に通した。お茶入れるね、コーヒーがいい? お茶でいいよ、ばあちゃんが入れたの美味いから。確かそんな気楽な会話を交わし、水戸も彼女に笑顔を見せる。本当は、心臓が鳴っていた。どくどくと、早鐘のようだった。掌を開いたり伸ばしたり、気付かれないように背を向け、湯を沸かして茶葉の準備をする祖母を見ないように、いつも座る座卓の前で足を止めた。祖母の背中を一度見遣り、畳に並べてある変わらない座布団に腰を下ろす。昔の家特有の埃が交えた匂いが、鼻先を過ぎった。それに加え、この家は昔から、何かの料理の匂いがした。染み付いた和食の匂いだ。中学生の頃、祖母に教え込まれた料理を思い出す。もう一度彼女の背中を見た。見ない振りをして、決定的なことを言わせないようにしていた彼女も、今頃心臓が鳴っているのかもしれない。何となく、そんな都合のいいことを考えた。だからいいんじゃねえ? 脳裏に過ぎった時、自分の幼さに自嘲したくなった。
 祖母が和室に来た時、これ食べる? 前に置かれたのはバウムクーヘンだった。甘い物は苦手だ。知っているだろうに、ここへ来ると彼女は変わらず、水戸に茶菓子を置いてくれる。俺はこの人を、ずっと愛情をくれたこの人を傷付けるのかもしれない、もう一度考えた時、自然と声を出していた。
「祖母に、ばあちゃんに伝えました。家買ったって。最初はもう、すっげえ驚かれたんです。何で? って。そりゃそうですよね。孫が知らん間に家買ってりゃ驚くのは当たり前なのに、前置きもなくいきなり」
 でもそうじゃなかった。買った理由を多分知っていて、だから彼女は目を見開いたのだ。
「三井さんと住もうと思ってる、それだけ言いました。俺ね、女性の服装なんて分かんねえし、ただばあちゃんの格好はいつも上品で好きなんです。今日は黒のカーディガンに何つーんだろ、パッチワーク? そういうので作られたような、足が全部隠れる長いスカート履いてて。背中もしゃんとして、髪はいつも一つに纏めてる。その人に俺は、家買って三井さんと住むって言ったんです」
 竹野内は、ただ黙って水戸を見下ろしていた。彼が被っているヘルメットは、目元に陰を作っている。見上げた空はやはり、昨日とは全く色が違う。
 祖母は、肩を震わせていた。いつも気丈に振る舞っているあの人が、口を噤んで目を伏せ、全てを堪えて肩を震わせた。掌はきっと、あのパッチワークで作られたスカートを握っている。水戸が見えない所で、握り締めて言葉も一緒に噛み潰している。
「祖母は何も言いませんでした。ただ最後に、バウムクーヘン持って帰ったら? って言ったんです。三井さんが甘い物を好きなの知ってて。ありがとうって、それだけ言って帰りました。俺は結局、彼女を最後まで傷付ける勇気がなかった。いや、あれ以上の姿を見るのが怖かった。だから全部言わなかったんです。まだ余地を残していたくて」
 水戸さん、竹野内の声に、水戸は彼を見上げる。
「その余地が、周りに対する優しさなんじゃないかと思います。俺はね」
 にこりと笑う彼は、水戸にまた、この先の世界を見せる。裸になった家、剥き出しの柱と梁から見える、昨日とはまるで違う青色の空が、水戸の目に映った。
「今日は撮らないんですか? せっかくカメラ買われたのに」
「撮ろうと思ってたんですけど、今度にします」
「そうですか」
 彼の笑みは、酷く心地良いと思う。空の色が変わるきっかけをくれたのは、竹野内だった。彼が居なければ、この景色は見られなかっただろう。
「竹野内さん、ありがとうございました」
「何がですか?」
「俺の世間話を聞いてくれて」
 大きく口を開けて笑う仕草が、目の奥に見える玩具箱を際立たせてくれる。




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