短編

□掴んではいけない手
1ページ/1ページ


いい物件が幾つか見付かったよ。
大楠から三井に連絡が届いたのは、出社する前のことだった。多少迷ったものの、善は急げという言葉もある。三井は大楠と午後から鎌倉駅で落ち合う約束を取り付けその電話を切った。その後すぐに、十一時頃からの有給休暇を捥ぎ取る。とはいえ午前中に、会議用の資料を作成しなくてはならない。こちらはさほど急ぐ仕事でもなく、一旦目処が立てば問題はなかった。もっとも、不動産もここまで急くことでもないのかもしれないけれど。元々机の上の仕事は苦手な分野だ。それも相俟ってか、三井は迷うことなく余りに余っている有給休暇を取った。そこからの三井は目覚しい集中力を発揮した。颯爽とスーツに着替え、マンションを出る。早足で駅まで歩き、ジャストタイミングで着いた電車に乗った。職場に着くとすぐにパソコンを開き、見よこの集中力、誰に言うでもなく自画自賛しながら、パソコンを打つ手は早くなった。
ひと段落して目処が立った所で、三井はパソコンの電源を切った。時間は午前十一時。今日は間違いなくツイてる、一人ほくそ笑んだ三井は、椅子とコンクリートの擦れる音が聞こえるほど勢い良く立ち上がった。今は六月も後半で、梅雨明けもとうに過ぎた日中は、暑くなることが多かった。けれど今日は、首の後ろに掛かる風の湿度はあまりなく、からりとしていて撫でる空気も心地良い。川崎駅から水戸の職場近くの駅は三十分程度で、電車から降りて構内を出て歩く度に空気が触れた。頬にも耳にも当たるそれは、こちらの方が一瞬立ち止まりたくなるほど軽やかに感じる。不意に空を見上げると、青と白のコントラストがあまりにも鮮明で、瞬きをして遮ってしまいたくなる。瞠る、とは少しだけ表現の仕方が違う。かといってそれを何と呼ぶのか、三井には分からなかった。
水戸の職場である永瀬モーターへ行こうと思ったのは、大楠から連絡があっただろうと思われるものの一応話をしておこうと考えたからだ。今から昼食を摂って行けば、水戸の昼休憩に多少話は出来る筈だ。だから最寄駅で降りた。三井はまた歩いた。すっきりとした風と、それを引き連れて歩いて行くと、ラーメン屋の暖簾が見える。二人で通っていたこともある店だ。その暖簾を見ると条件反射で胃袋の中がすかすかになる。時間も丁度良くて、躊躇なく店内に入った。いらっしゃいませー、と掛けられた声の方を見て会釈すると、店に立っている人間が変わっていた。中年の威勢の良い親父、というイメージを持っていた店主が、まだ三十代と思しき男性に変わっている。昔々道を外していました、とあからさまに見て取れる何かこう独特の人当たりの良さが、三井の足を止めた。お好きな席にどうぞ、と朗らかに言われ、三井は一番近い席に座る。さほど広くない店内にはそこそこ人が居て、それらを一応眺めてから、チャーシュー麺を注文した。程なくして運ばれて来たそれに手を付けると、何やら違和感を感じる。不味い訳ではなく美味い。それは変わらないけれど、何かが微妙に、水戸と二人で食べたあの頃の味とは変わっていた。あの頃っていつだっけ?三井は麺を啜りながら考えた。ああそうだ、とすぐに思い出す。
まだ水戸が、安アパートに住んでた頃。思い返してみても、さほど昔ではない。一年、二年、その程度だ。年月の流れに三井は、たった一、二年を昔だと捉えることに、何故だか少し、奇異に感じた。
手早く昼食を済ませた三井が腕時計に目をやると、時刻は十二時十五分だった。コンビニでコーヒーを買った後ポケットから携帯を取り出し、水戸の名前を着信履歴の中から探した。なぜ履歴の中から探したのだろう。彼が三井に、自分から連絡をすることなど余り無いのだ。それこそ昔、安アパートに住んでいた頃は別として。それなのにどうして。また分からないことが増え、首を軽く傾げる。ディスプレイを人差し指でスクロールすると、驚くほど名前がない。やっと見付けたそれは、一月は昔の履歴になっている。ふっと息を吐いて笑うと、自然と指がその名前を押していた。『はい』と言って、ワンコールで出たその声に、多少三井は驚いている。
「早えな」
『たまたまあんたに連絡しようと思ってたからじゃねえ?』
「もしかして物件の話?」
『あー、そうそう。大楠から連絡あって』
「ふふふ」
『え、何?気持ちわりいな』
その言葉改めろ!三井は一つ咳払いをし、無言で水戸に注意を施した。かといってそれが、彼に通じているかは知らない。
「今、お前の職場の近くなんだけど」
『え、何でまた』
「午後から見に行くんだよ。その前にちょっと話せねえ?」
『……あんた、暇人?』
うっせえな暇人じゃねえよ手際がいいと言え頭の瞬発力があんの午前中に仕事一本終わらせたこのオレの集中力知らねえだろ見てねえだろそれを暇人だの何だの凄え働いてるよ知ってるだろバーッカ!と思わず一息で言うと、水戸は盛大に笑っていた。そして、駐車場に居るよ、と水戸は言って通話を終えた。三井が永瀬モーターの駐車場に着いた頃、水戸は自分の車に軽く体を預け、煙草を吸っていた。あまり見慣れない作業着に、妙な違和感を感じる。要は慣れなくてむず痒く、三井は口元を噤んだ。三井に気付いた水戸は、よう、と言って右手を上げた。それに応えるように三井も、同じように右手を上げる。水戸の愛車に近寄った三井は、まずは腕時計を見た。時間は十二時半。あと、三十分弱しかない。しかない?三十分あれば十分だろ毎日同じ家に居て会ってるのに、三井はまた、妙にむず痒さを感じた。その所在無さを消す為に、手に持っていたコーヒーを一口飲んだ。
「待ち合わせ何時?現地集合でいいの?」
「ああ、一時半くらいにとりあえず鎌倉駅」
「そう」
水戸は静かに返答すると、口元に煙草を寄せる。三井に煙が掛からないようにする為か、彼は自然と顔を背けていた。とはいえ、風の方向にしろ何にしろ、多少の匂いは残る。それが当然になっているのも、こうして向き合ってみて何処と無く実感する。不意に空を仰ぎ見て、その色を確認した。未だに鮮やかなコントラストは消えない。
「あのさあ」
「ん?」
「ラーメンの味、変わってんの」
「は?」
的を得ない三井の言葉に、水戸は呆気に取られている。
「よく行ってたろ。ここの近所にあるラーメン屋。おっさんの声が凄えでかくて、いらっしゃいやしたー!って言うとこ」
「ああ、あそこね」
「味変わってんの。ムカつかねえ?」
よくよく考えてみたら、何に対して苛立つのか分からない。不味い訳ではなく、美味かった。対応が悪い訳でもなかった。むしろ愛想のいい新しい店主が切り盛りしているのが見て取れた。それなのに。
「え、まじ?」
「まじなんだよ。酷くねえ?店長消えたか」
「いや、じゃなくて。あんたそんなに敏感な舌だったっけ?海原雄山かよ」
「ぶっ!また古いネタ出してくんな。美味しんぼかよ、つーか読んでたのお前」
「昔通ってたラーメン屋に全巻揃ってて」
「はは!読んでんの?」
三井が声を出して笑うと水戸は、たまにね、と言って目を伏せた。そして、携帯灰皿に短くなった煙草を押し付ける。押し付けられた煙草から、最後もう一度緩く煙が舞った。風に流れて消えていく様を見た三井は、今こうしてくだらない会話を水戸と出来ることに、何故だか現実を見せ付けられたように思う。
「物件ってどんな感じなんだろうな」
「お、興味出て来たか」
「最初からあるよ。この先住むんだろ?買う訳だし、マンション借りますって簡単な話じゃねえんだから」
三井はまた、作業着を着ている普段の水戸に覚束ない違和感を覚える。水戸はこれを毎日着て仕事をする。多分この先も。変わらない日常を、変わっていく場所と環境の中で過ごして行く。三井はずっと、家を買うと自ら言いながらも、実感が湧かなかった。探して調べて行く中で、写真や大楠からの話を元にしても、それは現実ではなかった。夢現のような言葉を目の前にあるものに変えて行く作業は、ほんの一言や景色がきっかけになるのかもしれない。この先住むって?ずっと?オレもそうなの?この先ずっと。なあ、何か言ってよそうだよって。空想と現実を往来しながら、三井はまた、見慣れない作業着を見る。
「楽しみだな。写真撮って来てよ、そういうの好きだろ。よろしく」
十二時五十分。もう終わる。今、今この瞬間が。曖昧な感情が変わる一瞬を経て。
「昼休み終わるな、大楠によろしく。じゃあまた」
水戸はそう言って、コーヒーを持っていない三井の左手の甲をするりとなぞった。最後指先に軽く触れてから、何も言わずに背を向ける。お前そんなことする奴だったっけ?三井は触れられた箇所に自分の指を重ねてなぞった。水戸の背を追いながら三井は、水戸の手を思い出した。三井は過去、あのラーメン屋の味が変わってしまう前、あの手を掴んではいけないのだと思っていた。いや、掴んでいてもいずれ離れて行くのだと。そうして、普通でありたくて変わっていきたくない自分の後ろめたさを正当化した。あいつが離れたから、オレはちゃんと掴んでたのに、掴んじゃいけないって言うから、そうしてど真ん中にある罪悪感を消した。あいつはオレの気持ちを分かっていない知らないずっと分かり合えない価値観が違う考え方が違う環境が違う、そうして摩擦を減らしてしまえ、と。愛情なんて形の見えない曖昧なもの、熱で浮かさない限り相容れないからだ。
でも違うんだ。そうじゃないんだ。消えて行きそうな背をまだ追い掛けながら、三井は水戸が恋しくて堪らなくなる。残り三十分の昼休み。変わってしまったラーメンの味。見慣れない作業着。鮮明な青と白のコントラスト。空に消えた煙草の煙。その全てが、曖昧な愛情と相容れなかった価値観と環境も何もかも全てが、彼とのくだらない会話で現実と一瞬の幸福に変わる。
だからもう、遠くに行こうとすんじゃねえよ?オレの側に居ろバーッカ。








[戻る]
[TOPへ]

[しおり]






カスタマイズ