短編

□青空が似合うきみへ
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「今日見に行って来たよ」
「は? 何を?」
「家」
「はあ?! ずっる! お前ばっかり!」
 幾つだよ、と小さく言うと、そこに三井は返答しなかった。午後八時、ホームゲームを終えて帰宅した彼と一緒に、水戸はダイニングテーブルで夕食を食べている最中だ。冬の土日は鍋が多い。それは今日も同じだった。ぐつぐつと美味しそうな音と、出汁の匂いがリビングに広がっている。見渡すとまだ、彼と過ごしているこの部屋に変化はなかった。当然だ。二人が今暮らしている賃貸マンションは入居する前に既に完成していたからだ。借りているこの部屋は、毎日見ている同じ風景だ。骨組みも基礎もない。当然だ。
「どんなだった?」
「え?」
「だーかーら! 家! どんなだった?」
 彼は少しばかり不機嫌そうだ。ゲームには勝ったらしい。そういう問題ではなかったようだ。口を結び、肉肉肉、野菜、といった風に鍋から取っている。いい具合に煮えている鍋の音が、水戸の耳を過ぎる。結ばれていた三井の口は、大きく開いた。そうしてすぐに、取った鍋の具が口の中に放り込まれていく。あの家でもまた鍋すんだろうな、今後組み込まれている当然の予定のようなその想像に、水戸はまた驚いてしまう。不意に今日、竹野内から聞いた言葉が脳裏を過ぎった。
「お前、話聞いてる?」
「ああ、聞いてる」
 楽しいですよ、毎日。彼はあの時、そう言った。楽しいだろうな、水戸もまた、同じように考えた。
「基礎って分かる? コンクリート。地盤になる基礎の部分。それと柱と梁しかなくて、素っ裸みたいな家になってた」
「へえ」
「今朝竹野内さんから連絡貰ってさ、面白いですよって。そんで見に行ったんだけど、面白かったよ。剥き出しになってた所から、今日天気良かっただろ? 空が見えた。すっげえ真っ青の空に、何つーかこう、骨組みのとこが枠みたいに嵌ってて。カメラ欲しくなったな」
 思い出した景色と記憶を探りながら、水戸は窓の外を見る。そこから覗くのは、真っ暗な空だった。昼間とは違うし、枠も違う。そもそも、この部屋はあの家じゃない。頬杖を付きながら、水戸は昼間のあの景色を思い出した。
「ここから始まるんですよって竹野内さんが言ってたんだけど、始まるっつーか、何か凄えんだなって。土台みたいなのが剥き出しで。どうなんだろなーって」
 思ったよ、そう言って水戸が言うと、妙に視線を感じて三井を見る。彼は嬉しそうであったけれど、かといっていつものように賑やかな笑みを浮かべたわけでもなかった。どちらかというと緩やかで穏やかで、さっきまでの不機嫌そうな様子はあっさりと消えている。今はとても、ずっる! と子供のような言い方をする人には見えない。水戸は的外れにも、この人こんな表情もするんだな、と思った。
「携帯で撮らなかったのかよ」
「そういうんじゃなくて、ちゃんと記録みたいに残してえなって何となく」
「なーんか、お前がそんな風に言うなんてなー。意外」
 含むような笑みを溢した三井は、また鍋に手を伸ばした。肉肉肉、野菜、それは変わらない。取り皿の中は、あっという間に空になっていたようだ。麺食べる? 水戸が言うと三井は、食う、と返した。用意していた麺を、躊躇なく鍋に入れる。煮える音は、少しの間消えてしまった。
「三井さんにも見せたかったな、あの景色」
「え?」
「いいもんだったよ」
 今頃、あの景色を教えてくれた竹野内も、同居人の誰かと食事をしているのだろうか。それともまだ仕事中なのだろうか。水戸は知らない。知らないけれど彼は、その同居人との生活を楽しいものだと言う。世間は容赦無くいつもそこに居ると言う。それがどうでもいいことになるのだと言う。そして、終わる時は家があろうがなかろうが終わってしまうものだと言う。彼はあの景色と共に、水戸に世間話という現実の話を残した。
三井と出会ってもう、十年は越えた。十一年、いや十二年か、随分と、時間が過ぎた。水戸はあの剥き出しになった裸の家を見て、最初は物寂しく感じた。すっからかんになってしまって、そこから覗く青空が妙に後ろめたく感じたのだ。違和感もあったし、その場に居るのも妙な気分だった。酷く不釣り合いで、その逆圧巻でもあった。
 十二年前、三井は水戸の手を取った。突然だった。いきなり引っ張った。暗闇から澄んだ真っ青の世界に引き摺り出すようにして。嫌だと言って殴っても詰っても噛み合っても、彼は一切負けを認めなかった。敗北を嫌うこの人は、譲ることをしなくて手を掴んだままでいた。振り払って逃げ出しても、常に挑戦状を叩き付ける。この手を振り払うのはもう、不可能なんだと水戸自身が知ってしまった。
「やっぱ意外」
「何が」
「お前あんまり喋んねえし言わねえからよー、分かんねえじゃん」
「そうだっけ」
「文句ばっか言ってんじゃん。あーだこーだ、分かんねえっつーの」
 この部屋に来て、色んなことがあった。楽しいこともあったし、二人で居ることに意味を為さないと感じる日々もあった。引き摺り出された学生時代よりもっと、もっとたくさんのことが、過ごす時間が増えれば増えるほど、共有すればするほど増えた。それでも三井は、手を離さなかった。今この時間にこうして、二人で鍋をつつけているのは、彼が、三井が諦めなかったからだ。水戸との時間を。この瞬間に、それだけでなくこの先も、一緒に過ごそうとしてくれた。だからだ。
「俺と一緒に居てくれてありがとう」
 ずっと好きでいてくれて。
鍋の中で、麺が煮えている。ほら食えよ、水戸が言うと三井は、また口を噤んで鍋に手を伸ばした。水戸も同じように、麺を取った。室内には今も変わらず、鍋の出汁の匂いが漂っている。
 翌日、三井はまた早くから出て行った。ホームゲームの二日目だ。出て行く時彼は、写真よろしく、と言った。カメラ買うっつーこと? と水戸は聞いた。お前が欲しいっつったんじゃん、からからと笑う三井を見て、あーそういやそうだったなー、と思い出す。つーか今日買うの? あんたが決めんのか俺が考える余地あんだろ。一応反論してみるものの、三井は勝ち誇ったように言うのだ。
「お前知らねえだろ? 本気で欲しいもんはオレに言うんだよ」
 行ってきます、そう言って捨て台詞を残す彼に水戸は、やはり負けを認めざるを得ない。はいはいそうですね、天井を仰ぎ見て、もういいや、とも思う。しばらくの間、ソファに座っていた。大きな窓からは、昨日と同じように澄んだ青空が見える。きっと今日も、あの骨組みの枠からも、同じ景色が臨めるのだろう。後ろめたさも残したまま。
 水戸はローテーブルに置いていた携帯を手に取った。祖母の名前を出し、通話ボタンを押す。きっともう、彼女は起きている。何度かコール音が鳴り、特に待つこともないまま、祖母の声がする。
「もしもし? 珍しいわね、こんな時間に」
「ごめん。起きてた?」
「起きてたよ。洋平、元気だった?」
 うん。水戸は短く答え、息を吸った。ゆっくりと吐いて、声を出す。
「ばあちゃん、話があんだけど。今日そっち行っていい?」
「いいけど。どうしたの?」
「行ってから話すよ」
 じゃあ後でね、うん、また。数分で通話を終え、水戸はソファに身を委ねた。世間は容赦無くいつもそこに居る。その言葉が昨日から水戸の脳裏にずっとあった。それでも、いつかそんなことさえどうだっていいと思えるようになる、いつか。まだ見たことのない先に。
 もう一度窓の外を見る。変わらない青空に、水戸は思う。終わる時は何があった所で終わる。欲しいと叫んでも強請っても、擦り抜けて行くものだ。でもそれでも、今はそんなことどうだっていい。だから今度は、俺が手を離さないって約束します。
 青空が似合うきみへ。






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