短編

□青空が似合うきみへ
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 見上げた先は青空だった。
 冬の晴れというべきか、転々と雲が並んだ間に、空の青さが広がっていた。酷く鮮やかなそれは、水戸の視線を奪っていく。しばらくの間眺めてから、持っていた紙袋を持ち直した。壊される予定のない石垣に囲まれた門扉から入り、少しだけ歩いた。未だに茫々と茂っている緑は、まだそこには手を付けられていないことを教えてくれる。雑多に置いてある石を踏みながら、水戸は歩いた。よく晴れた、土曜日の午後だった。
 進むとそこには、骨組みと基礎だけになった、素っ裸に近い状態のものが建っている。この土地の所有者はもう、水戸だ。水戸洋平に名義変更されている。今から約半年後、この土地に水戸と三井は住むことになるのだろう。が、未だに実感が湧かないのも事実だった。古民家をリノベーションすると決めてから約半年間、まるで空っぽのイメージのまま銀行での住宅ローンの手続きや、建築家との内装や金額の話し合い、その他諸々必要だと言われたことは全て行っていた。興味が無いなんてとんでもなく、ただ湧かないのだ。水戸の後ろ側で莫大な金銭が動き、それによって今の工事は進んでいるということのイメージが湧かない。柱と梁と基礎、それを上から順にぐるりと見渡しながら、どことなく曖昧な感覚に身を委ねるしかなかった。
 今日はたまたま、建築家の竹野内から連絡があったのだ。もし良かったら見に来られませんか? 面白いですよ。そう言われてここまで来たのだけれど、確かにこの、丸裸に似た状態のものを見るのは圧巻だ。古びた柱や梁はそのまま生かし、使えるものは修理に出して最後に組み込む。それが今から、ここやそれぞれのパーツ毎の場所で時間を掛けて行われる。時折、声を掛け合う大工の大きな声を聞きながら、職人の仕事だ、水戸は漠然とそう思った。
 水戸は少しだけ、足を動かした。数メートル動き、眺める。また数メートル動き、眺める。それを繰り返していると、水戸さん? と声が聞こえた。首を左側に動かすとヘルメットを被った、この家の設計者である建築家の竹野内が立っていた。
「来てくれたんですね」
「はい」
 竹野内はにこりと微笑み、水戸の隣に立った。すらりとした体躯の、彼もまた見栄えのいい中年の男性だ。年齢に見合った適度な皺もあって、それでも若々しく見える。しゃんとした背筋と快活な声の調子が、そう思わせるのかもしれない。竹野内は、水戸が見る限りいつもスラックスにシャツを着ている。それは今日も然り。仕立ての良さそうな上下の服装には、品の良さが漂っていた。三井も彼の雰囲気を酷く気に入っていて、三井が居る時はいつも、そのシャツ格好いいですね、と声を掛けていた。それに対し竹野内も、これはね、と楽しそうに話をしていたのを覚えている。その三井は今日、ホームゲームの最中でここには来ていない。
 水戸は竹野内に会釈し、お世話になります、と挨拶をした。
「竹野内さん、これ良かったら皆さんで食べてください」
「え? いいんですか? ありがとうございます。いただきます」
少し前に持ち直した紙袋を、水戸は竹野内に差し出した。彼は酷く嬉しそうに、力餅だ! 大好きなんです。と言う。水戸は彼の喜びように釣られて笑った。彼はいつも、リラックスしているような口調と声で、気軽とは決して違う話し方をする。これまでたくさんの人の意向を汲んで来たからかもしれない。穏やかとは違う、明るくてそれでいて安堵出来るように会話を進めてくれる人だった。
「面白いでしょ?」
「え?」
「これから始まるんですよ。凄いですよね。今まで何度も現場には立ち会ってるけど、この瞬間はいつも思います」
 竹野内の目は、今後の出来栄えを既に見据えているようだった。水戸には未だに、実感が湧かないのに。その上、ここから始まる、という一言とこの景色がどうにも一致せず、ほんの僅かな後ろめたささえ感じる。
「柱も梁も、壊さずにすみそうです。とてもいい状態でした」
「そうですか」
 水戸はまた丸裸の骨組みを見上げ、その隙間から覗く青空に、なぜだかどきりとする。冬の硬質な空気が、妙に体に纏わり付いた。澄んだ青と素っ裸の家が混ざった時、曖昧だったイメージが、一瞬だけ何かに変わる。後ろめたさは残したまま。
「でもまだ俺には、実感湧かないんですよね」
 参ったな、水戸はそう言って頭を掻いた。
「そんなもんですよ。模型見たってね、出来上がって住んでみないことには実際の所は分からないし。ただ、とてもいい家に仕上がると思います。後はわくわくするばっかりですよ」
「わくわく、ねえ。それ以前にあの人と揉め過ぎて。ここまで来たことに、何つーか驚いてます」
 驚いている、という言葉に、水戸自身なぜだかはっとする。
「はは、そうでしたね。聞いてる方は、こんなこと言っちゃなんだけど面白かったですよ」
「そうですか? 腹立つだけでしょ」
「あなた達は、距離感が絶妙ですよね。介入し過ぎないし、かといって言いたいことを飲み込むこともしてない。信頼し合ってるんですね」
「……まあ、付き合いも長いんで」
 そうだ。ここまで来たことに驚いている。長い付き合いの中で、丸裸の骨組みを見上げる所にまで来た。剥き出しになって外壁も中身も剥ぎ取られたそこは、水戸の曖昧な線を少しずつ消そうとしてくれる。
 竹野内は骨組みを見上げて笑っている。その目は本当に、新しい玩具を手に取った子供のように見えた。この家の内装を考える時、それはそれは揉めたのにもかかわらず。竹野内とではなく、三井とだ。家具は問題なかった。今住んでいるマンションに引っ越す際、彼が購入した物を使うことになっていた。ウォルナットでまとめていた家具に合わせ、フローリングも同じように。そこまでは良かった。そこからだった。キッチンは広くしろリビングもだし風呂は当然広くしろ二階は云々その辺りはもうよく覚えていなくて予算がどうこう反論しても、彼もまた引かないのだ。あんた好き勝手言ってっけどローン組むの俺なんですけど、と言ってみるものの、毎月半分払うから大丈夫、と言い出す始末だ。そんなこと言ってんじゃねえよ、あのね、年収や職業で組めるローンの金額変わるんだよ? ね? マンションに住むとかじゃねえの、借りて家を買うんです。あんたの大好きなリノベーションとやらをするんです。分かる? と言った所でようやく、ふーん、と言う。それを纏めて、後日竹野内に相談しに行き、彼が妥協案を考える。その繰り返しだった。結局、二階は中二階という形で二部屋しか作らない方向に変更し、ほぼ一階で生活出来る形で纏まった。時折三井の夢が混じる喧嘩を含めたその作業は、水戸を酷く疲れさせた。仕事が忙しい時に重なると、二人は荒れた。とにかく荒れた。ただ、もう辞める、とは互いに言わなかった。不思議なことに、険悪になることもなかった。
 ここから作られていく、竹野内からその言葉を聞いて空を見上げた時、あの算段の日々が微かに馴染んだ気がしたのだ。空の青さと相まった時、心許なさも若干残していたから余計にどきりとした。
「水戸さん、世間話をしてもいいですか?」
「え?」
 竹野内を見上げると、彼は柔く笑んでいる。世間話、の内容が水戸には分からず、どうぞ、と言った。彼はまた見上げる。それは青空なのか或いは丸裸の骨組みか、水戸には分からなかった。もしくは両方なのか。
「俺もね、同居人が居ます。相手は男性です」
 水戸は瞬きをした。ぎょっとする、というよりただ驚いたからだ。意表を突かれた。
「って言っても、家はそれぞれあって今は俺の家に相手が住んでるっていう状態なんですけどね、楽しいですよ。毎日」
 まだ水戸は口を開かず、竹野内を見上げたままでいる。
「俺は周りに知られたっていいと思ってます。だって、大切な人を紹介して何も悪いことはないでしょう? でも相手はね、嫌みたいです。だから言わないようにしてるんですけど」
「……そうですか」
「若い頃のように、世間体なんてどうでもいいと言える勢いはありません。そんな若さはもうないし、どうしたって世間は容赦無くいつもそこに居ることもよく知ってる。でもむしろ、それがどうでもいいって思えるようになる」
「何でそれを俺に?」
「ただの世間話ですよ」
 水戸は彼を見上げたまま、息を抜くように笑った。竹野内は少しだけいわけなく、目尻に皺を寄せ、にこりとする。
「それに、終わる時は家があろうがなかろうが、何したって終わるもんですよ。仕事柄たくさん見てきました」
 誰のせいでもない、最後彼は空気に乗せるような声を出した。それはすぐに消えてしまう。水戸はもう一度空を見上げた。雲は少しだけ動いたようで、形を変えている。ゆっくりと動いている緩慢な姿が、骨組みの隙間から覗いた。澄んだ青空、基礎に骨組み、ふっと消えて行く世間話、あの人が今ここに居たら、何て言っただろう。ここから始まると感じるのか、それとも。曖昧だった線が、空の青さに溶けるようにじんわりと薄れていく。
 今この景色を、この一瞬を残しておけたらいいのに。水戸は瞼の裏に、今見えている景色を焼き付けている。



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