短編

□くそったれと心中!
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現実的になって来た。三井は風呂上がりにバスタオルで髪の毛を拭きながら思った。というのも、同じく先に風呂を済ませた水戸が、パソコンを開いていたからだ。その横には今日三井が、大楠から預かって来た古民家の資料がある。水戸はそれを眺めながら、パソコンで何やら調べていた。多少遠目に見えるそれは、三井からは何を調べているのかは分からない。ただ、眼鏡を掛けていることは分かる。そうかパソコン見てるから、三井は自分にさえ聞こえないほど小さな声でぼそりと呟いてキッチンへ行き、冷蔵庫を開けた。ビールを取り出し、プルタブを開ける。ぷしゅ、という小気味良い音が風呂上がりの暑さを緩慢にさせた。一気に呷ると、炭酸がいやに喉に染みる。今日結構歩いたな、そんなことを考え、三井は安堵の息を吐いた。今日、水戸の昼休憩に彼と話した後、鎌倉駅に向かった。大楠と合流し、彼の勧める物件を何軒か見て回った。リノベーションしなければ到底住めない物件や、既に直してあって即居住可能な場所、何軒かあった。意外と多くて、今日は午後からよく歩いたように思う。大楠に連れられて家の中にも勿論入った。一軒だけ何故だか、強く惹かれた家があった。水戸から頼まれた写真も、その家が格段に量が多い。鎌倉駅から徒歩十分の場所にあるそこは、平屋にも間違えられるほど一階が広い古い家だった。このままじゃとても住めねえよ、大楠はそう言った。そうだよなー、と半分聞いているのかいないのか分からないほど適当な返答をしながら、三井は携帯のシャッターを何度も押した。日中は湿度もなく、からりとしていて天気の良い、よく晴れた日だった。だから、大きな窓のあるその家は、太陽光が眩しいほど惜しげなく入って来る。三井は目を細めながら、手入れされていない広い庭を眺めた。大きな木も何本か植えてあり、勿論伸び放題だった。何の木だ?そう聞くと大楠は、桜梅楓他は分かんねえ、と資料を見ながら答えていた。何にせよ、人が長らく住んでいない家は埃っぽくて、三井はくしゃみをしたり咳き込んだりと、酷く忙しなかった気がする。
全てが記載されている資料を大楠から受け取り、三井はそのまま帰宅した。ぱらぱらと捲ったそれを、三井はローテーブルに置いておいた。随分な所まで来た、写真や金額を順に頭の中に並べながら考えていた。
水戸は未だに黙々と、肘を突いて眼鏡は掛けたままでパソコンを見ている。何を調べているのかは未だに分からない。キッチンでビールを飲みながら、三井はその横顔を眺めていた。何かに収められそうな瞬間で、思わずビールを置き、両手で枠を作る。嵌った横顔が、少しだけ面白かった。嵌った枠から多少動きがあって、右手が伸びた。煙草の箱とライターだった。一本手に取り口に咥えた所で水戸は、何かに気付いたように、あ、と小さく言った。何が「あ」?と、三井は不思議に思う。立ち上がると手にした資料をそのまま持ち、ベランダに向かった。窓が開く音は、この部屋は酷く静かだ。不意に辺りを見渡し、真新しいクロスに天井に照明に、目線を下げるとキッチン。今はここに住んでいるのだと、そこかしこに現実が伺える。出て行く。この部屋を出て行く。まだいつになるのか見当も付かないけれど、水戸も、自分さえも、今はそこに焦点を当てている。
三井もベランダに向かった。窓を開けると、やはり音は静かだ。すっと引けば簡単に開く向こう側に水戸は、煙草に火を点けて物件の資料に目をやっている。三井に気付いたのか、水戸はこちらを見た。スクエア型で黒縁の眼鏡を、彼は長らく使っているように思う。とはいえ、まだ二年だ。再会してからまだ、二年しか経っていない。随分と遠くまで来てしまった。この部屋に越して来た時は、波の一番上にある白藍に反射する光のような明るさしか見えなかったのに。遠い遠い、引き返すことが出来ない橋を渡ってしまったのかもしれない。
「どうした?髪乾かした?」
「あ、まだかも」
「乾かせよ」
「ああ、まあ、そのうち」
水戸はまた、資料に目をやっている。ベランダに肘を掛け、部屋の光を利用して、それはただ眺めているだけのようにも感じた。
「部屋で見ればいいだろ」
「煙草吸いたくなっちゃって。さっき咥えて、火ぃ点けかけてさ、やべってそのまま出て来た」
「お前もそういうボケたことすんのな」
「あのね、結構俺ぼーっとしてんの。知らねえ?」
「最近知った」
「そう」
そうなのだ。ごく最近気付いたのだけれど、水戸はしっかりしているように見えてそうでもない部分もある。例えば風呂の湯を張るのを忘れていたとか、例えばタイムセールの曜日を間違えていたとか、そのショックは計り知れなかったようで、その日はずっと無口だった。三井は一人笑っていた。また機嫌が悪くなった。その日水戸は、パチンコ行く、と言って当分帰って来なかった。他にも多分ある。今日の昼間のように、不意に触れるとか。見えないようにそうしたり、以前鎌倉を歩いた時も、ずっと視線を感じたり、電車の中で少しだけ距離が近かった。あれ?と不意に些細な差異を見付けると、三井はいつもどきりとする。
「そういやお前、何で部屋の中で煙草吸わねえの?ここに越して来た時、オレ別にいいっつったじゃん。前の安アパートでは普通に吸ってたろ」
そのむず痒さを掻き消そうと、三井は疑問を投げた。「あ」と気付いて外に出るなら尚更だ。
「え?そんなん聞きたいの?」
「ちょっと興味ある」
「怒んなよ?」
「回答による」
えー嫌だなあ、と水戸は目を伏せ、灰皿に短くなった煙草を押し付けた。
「副流煙って壁黄色くなるだろ、クロスの張り替えもしなきゃなんねえし。前は別に自己責任だしね、どうでも良かったんだけど」
「うん」
「今度は家賃も折半だし、俺だけの責任じゃなくなるわけだ。それにね、あんたが出て行くならまだしも俺が出て行く可能性も捨てらんなかったし、黄色い壁見る度、思い出させても腹立つだろ」
こういう言葉を喋る時、水戸は三井とは目を合わせない。必ず少しだけ逸らして、他人事のように緩く笑う。さも自分だけの責任として側に置くように、三井の気持ちなど他所に放り投げる。三井はあの日、ここに越して来たばかりの頃、希望だけがあった。こいつの寂しさなんて丸ごと自分が引き受けるのだと、そんな風に考えていた。水戸も同じように、多少は熱に浮かされているのだと思っていた。その頃は。所詮根付いた薄寂しさなど、消えないのかもしれない。どれほど愛情があろうと、溶けることはない。
「お前、案外くそったれだな。浮気するしな」
その事実に三井の方が物寂しくなり、わざと茶化す真似をした。
「またその話かよ。浮気じゃないってあれは」
「いやいやいや浮気ですよー。はい正当化ー」
「もうその辺価値観の違いだよね、別に俺、あんたが女の子と一晩何かあっても多分怒んねえもん。むしろ、三井さん女抱けんだ。もう無理だと思ってた、どんな表情すんだろって聞くかもな」
軽く笑いながら言うその言葉に、つい先程の憂いなど全て消えた。思わず口が、あんぐりと開く。思い切り空気を吸い込んで、喉がかさついた。一気に息を吐き出すと、大きな声が出る。
「お、お前は!まじで!デリカシーゼロだな!まじでくそったれだな!」
「怒んなっつったろ。だから言いたくなかったんだよ、こうなるの分かってたから」
「回答によるっつったろ!」
三井が割と声を荒げて言うと、水戸は目を細めて笑っている。正直、面白いことは何もない。
「一晩何かあっても大したことないだろ、出て行かれたり、その子を好きになったって言われたら話は別だけど」
「は?」
「今更誰か別の人間に惚れました、だから出て行きますって言われたら、今は離せる自信ねえなあ。まじであんたを殺しちゃったらどうしよう」
ごめんね。水戸は最後、少し笑って呟くように言った。お前それ反則だろ、三井は口を噤んだ。お前そういうこと言っちゃうの?やっぱりボケてるだろオレにそういう弱味を握らせるの弱点晒してるようなもんじゃん何それプロポーズ?はは頭沸いててくそったれはオレも一緒か。自嘲したくなるほどふざけた思考に、一気に息を吐いて笑えば良かった。笑えばいいのに、口を開くと違う言葉が出そうになる。やめておけばいいのに三井は、その全てを吐き出そうとする。
「水戸」
「ん?」
「オレさ」
「うん」
水戸は煙草の箱を開けた。ずっと変わらない、高校時代から変わらない赤のマルボロボックス。白い煙草ではなく、茶と白のくっきりした色合いの細い筒を、三井はじっと見つめる。匂いも、吸うペースだって今は何となく分かる。手持ち無沙汰にこの男は、あの指先を軽く遊ばせる。好きだ。好きなんだ本当に。誰に言うでもなく、言い聞かせるでもなく、今、今ここで心の底から思う。この男が好きだと。あの頃からずっと、この男だけが。でもそれでも、捨て切れなかったものもあった。
「ずっと普通の人生が欲しかった」
「そうだね」
「お前を好きでも、どうせ先にどっか行くんだろって思ってて、それを言い訳にしてオレはいつか普通に結婚すんのかもって、思わなくもなくて」
「知ってる」
知ってたの、と目を見開くと、そんな喧嘩しなかったっけ?と水戸は言った。もう色んなことあり過ぎて、と続けて緩やかに笑う。そして続けた。
「だからもう、やめような。そういう喧嘩は。無駄に疲れるし、言いたいことあったらその時言ってよ。前も言った気がするけど、殴ってもいいしムカついたら怒鳴ってくれて構わねえから。まあ、今度からは俺も遠慮なくやり返すけどね。あんた、俺を怒らせる達人だからさ」
覚悟しといて。水戸は言うと、手持ち無沙汰に遊ばせていた指先で、煙草に火を点けた。もういい、と三井は思った。もうオレはこいつと生きることが普通なんだ、と。恋人じゃない親友じゃない先輩後輩じゃない、じゃあ何だ?
恋人で親友で先輩後輩で、一緒に生きて行く男だ。たった一人の。
「もうオレはお前が居なきゃ無理。死ぬ。絶対死ぬ。他人から影響受けるなんてクソ食らえって思ってた。ずっと。お前に人生握られるなんて恐怖しかねえって。でもそうだよ、女なんて抱けねえよ、お前に抱かれて気持ち良くて死にそう。毎回死にそうって思うのに結局生きてる。生きてるから心中する気で家買いやがれくそったれ野郎」
今度は水戸が、目を見開いた。口に付ける筈の煙草がそのままで、ずっと緩く燃えている。赤い火種がゆっくりと燃え、じっと見続けていると段々と煙草が短くなる。灰が落ちて、目線を下げた。おい水戸お前ちゃんと掃除しろよ?
「はい」
「あ?」
「はい、分かりました。家買います」
「え、掃除じゃなくて?」
「は?何言ってんのあんた」
少しの間顔を見合わせ、どちらともなく笑った。短くなった煙草の火は消して、水戸は部屋に戻る。続けて三井も戻り、髪乾かしなよ、と入った直後に言われる。はいはい、と酷く適当に返事をすると、彼は次に、三井さんお勧めの物件は何だったっけ?と聞いた。庭に木が植わってる家、と答えると、梅の木だっけ?と言った。梅も桜も楓もある、そう言うと、楽しみだね、と昼間と同じように言った。
頼むぜもう、オレの命はお前が握ってる。心中と一緒だろ、これ。いつか水戸が言った言葉を、三井は思い出した。








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