短編

□カレーライスとラブシーン
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珍しいこともあるもんだ、水戸は未だ覚醒しない脳でそんなことを考えた。今朝は三井の方が先に起きていて何やら視線を感じる。目を閉じていても他人の気配や息遣いには敏感な方で、じっと見られているのはよく分かった。何見てんだよ、と言いたかったけれど黙っている。そろそろ指が伸びそう、と空気から感じた。圧縮していくような、彼だけが持っている独特の温度だった。
直後、水戸の額に一瞬だけ三井の指先が触れると、その掌を思い切り掴んだ。目を開けると三井は目を見開いていて、びっくりした、と余程驚いたのか取り繕うことなく声を出した。起きてたのかよ、と聞かれたので、簡潔に、うん、と答えた。三井は寝起きのようで、まだ頭が回っていない様子だった。上手く返答出来ないのか、まだ少しぼんやりしている。たまたま目が覚めたのかもしれない。じゃあもう一回寝る、彼がそう言ったので、掴んでいた掌を引っ張って組み敷いた。誘われているのか、と問われたので、そうだ、と答えた。この人が寝起きの状態の時、時々水戸はこんな風に即物的に近い状態で行為に及びたくなる。だけれどそれは、強制的にしたい訳じゃない。出来る限り優しく取り扱いたいのは何故だろう。何なら別に、しなくてもいい。このままこうして、ぎゅうっと抱き締めていれば良かった。だから何故だか、そうしていたくてしばらくの間抱き締めていた。すると三井は、お前って性欲あんの?と聞いた。今更何言ってんだバカか、と思った。繕うことなくそのままそれが口に出ていたようで、少しだけ彼は不機嫌になる。じゃあ今してるこれは何?と。ここまで言って気付いたのだけれど、ここ最近会話もあまり出来ないほど忙しかった。というよりも擦れ違っていた。水戸自身の仕事も忙しかったし、三井もシーズンを終えてから事後処理に追われていたからだ。毎年そうだった。手にも首にも触れない期間が二週間ばかりあって、だから性欲はあるのかなどと聞いたのかもしれない。かといってこれまでも、毎朝毎晩べたべた触れていた訳じゃない。変なこと言うな、と単純に思った。
そりゃ普通にあるでしょ仙人じゃねえよ、と抱き締めたままで言うと、次は、こういう性癖?と問われた。こういうって?と聞いた。寝起きで襲うの、三井がそう言ったので水戸は吹き出した。面白かったからそのまま始めることにした。襲うって何それ辞書引けよ俺が襲ってんなら逃げてみろ、三井の言った言葉が面白くて、体に唇を這わせるように言うと、彼はくぐもった声を上げる。逃げ出す気は無いようだった。いつかお前の性癖バラそうかな、三井は水戸を抱き締めながら言った。誰に?と聞いた。誰にしよう、と笑っていたので、誰でもいいよ、と答えた。朝のこうした、カーテンの隙間から光が入っているのを横目で感じながらする行為は、時間を忘れそうになる。開いてない布切れは未だに夜更けかと勘違いさせるし、ちらちらと見える太陽光がきちんと朝を匂わせる。夜と朝の境目なんかじゃなくて、勘違いをさせるのが何処か、酷く扇情的に感じさせた。
三井が、はっはっ、と途切れるように息を吐くのを上から見下ろすようにして眺めていると、この人このまま俺が止めたらどうするのかな、と考えてしまう。止めたら嫌がるのかな、どうするのかな、と。なので一度動きを止めた。伏せていた目を三井は、ゆっくりと上げて水戸を見詰めた。何?と聞くと、何で止めんの?と答えた。襲ってるみたいだから止めようかなって、水戸はそう言った。三井は何も言わず、水戸を抱き締めた。優しくしたいんじゃなかったっけ?と、心の中で問うて、思わず笑った。また再開すると、三井はもう一度息を乱した。短く呼吸をするのを聞くのが耳に心地良くて、最適の気温の筈なのに茹だるような熱がこもっている錯覚を起こす。ずっと体の芯に残るような、夢心地のようにふわふわした実態のないもの。朝のセックスはそんな夢現な何かを水戸に残す。
一旦吐き出してしまうと、急激に目が冴えた。隣でごろごろと転がっている三井は、水戸には聞こえないような何か独り言を喋っている。
「お前のせいだ」
「は?何が」
「体怠い」
「じゃあ止めれば良かったろ。止める?って聞いたじゃん」
水戸が言うと、三井は口をあんぐりと開けた。合意だろ、と続けると、三井は水戸の脇腹の辺りを軽く殴った。反射的に、いて、と言うと、嘘吐け!と彼は笑った。
「あーあ、お前のせいで体怠いから一日付き合って貰うって決めた」
「は?強姦した訳じゃあるまいし。付き合って欲しいなら最初っから言え」
呆れたように息を吐き、舌打ちを交えながら水戸が言うと、次はもっと強く脇腹の辺りを殴られた。痛えな!と思わず言うと、ざまあみろ!と、三井は子供のように歯を見せて笑った。




結局一日中、水戸は三井に付き合った。電車乗るぞ、と言われたので電車に乗り、鎌倉駅で降りた。それから周辺をうろついて、三井が再三通っているらしいセレクトショップでジャケットを着せられ写真を撮られる。水戸さんが着てくれたらいい宣伝になりますよ、だって雰囲気いいもん、ねえ?と店を出る時に最後にはそのジャケットをプレゼントされた。ねえ?と問われた三井は、はあ、だの、そうっすかオレでしょやっぱり、だのぶつぶつ文句は言っていたものの、さほど機嫌は悪くなかった。その後は三井が勧めるカフェでサンドイッチとカレーライスを食べる。そこでまさか、冗談でけしかけた「あーん」に対抗されるとは思いもしなかった。そういうぎりぎりの線に踏み込んで来るのは予想外だ。てっきり、アホか、と一蹴されるものだと。ただ一点。
「撮られてた。知ってる?」
マンションに帰宅して、セレクトショップの店長である佐倉からプレゼントされたジャケットを脱ぎながら、水戸は言った。腕にすっきりとした空気が触れる。ジャケットというのはどうにも慣れない。肩が凝る気がして、普段は全く着なかった。よく似合う、と散々言われたものの、自分では何がどう似合っているのか首を傾げた。それでも酷く朗らかに笑って、どうぞ貰ってください、と言われたら嬉しいものだった。ありがとうございます、と言うと、口元を緩めて彼はかぶりを振った。そして、良かったらまた来て下さいね水戸さんはうちの洋服似合うよ、と佐倉は言った。そんなもんかねー?と軽く考えながら一度三井に目を向けると、撮られた、の意味がよく分かっていないのか、ぽかんとしている。寝室に入ってクローゼットを開け、使っていないハンガーにそれを掛ける。要はカフェでの食事中、近くの席の女性二人組に写真を撮られたのだ。件の「あーん」の時か普通に会話をしている時かは分からない。そこまでは定かではなかったけれど、小さな黄色い声と同時にシャッター音がした。ああいった細い声は、多少小さくともよく通る。
寝室を出ようと開けっ放しのドアへ向かうと、そこには三井が立っていた。
「なんだ、お前気付いてたの」
「は?知ってたんだ」
「分かるだろそりゃ。ぼそぼそ何か言ってたろ」
水戸は少しばかり驚いた。三井のそういった視野の広さは昔から知っていたけれど、気付いていてあの悪ふざけに乗ったのか。
「相変わらずタチ悪いなあ、あんた大丈夫?広報うるさいんじゃなかったっけ」
そう言うと三井は酷く軽く笑い、分かってねえなあ、と言う。何が?と問うと、お前は何も分かってない、と続けた。
「お前さ、意外と歳下っぽいとこあんだよね。知らねえだろ」
ビール飲も、彼は背中を向けてそう言った。知らねえよ?と、水戸は三井の方に向けて息を吐いた。
「あ、ジャケット凄え似合ってた。つーか貰えんの?ずりーのなー」
「よく分かんねえよ。あれを何にどうされんの?」
「そりゃあれだろ。そのショップのブログとかインスタに載るんじゃねえの?」
「あーもう全然意味分かんねえ世界。好きにして」
深く息を吐くと、三井は水戸にビールを手渡した。プルタブを開け、三井から缶をかちんと軽くぶつける。
その翌週のことだ。水戸の職場である永瀬モーターで、後輩の藤田が就業時間前の事務所で携帯を持って騒いでいる。毎日うるせえなあ、と言うと、見てください水戸さん写ってますよ!と言って水戸に自分の携帯を差し出した。するとそこに、先週末に行った鎌倉のカフェで件のカレーライスを「あーん」の写真と、三井と水戸が普段通りに喋っている様子が写っている。どうやらSNSで誰かが投稿したものが拡散して、それがそれなりに話題になっているようだ。元ネタをSNSに投稿した女性が「三井コーチやっぱりカッコいい!じゃれ合ってんのとかヤバイし!可愛すぎでしょ。前に座ってる人誰だろう。この人もカッコいいんだけど!」と記載しているらしい。さすがにぎょっとして目を見開いた。すっげえやだかっこ悪過ぎる、水戸は思わず額を押さえて息を吐いた。続けてネット記事を読むと、この投稿が拡散された後、バスケ専門のwebマガジンの記者が三井に取材したそうだ。
「三井ヘッドコーチ、話題になってますね。もしかしてこの方がよくインタビューにも出て来る『高校の後輩』ですか?」
「ああ、そうなんです。はは、写真で見ると笑えますね。こいつ昔から気が合うからよく連んでるんですよ。たまにああいう悪ふざけするんですけど、参ったな。撮られちゃったか。いい歳して恥ずかしいですね、あんな高校生みたいなノリの写真」
「あのクールな三井ヘッドコーチがじゃれ合ってて可愛いって言われてますよ。前に座ってる後輩さんも話題になってるし、本当に格好いい方ですね」
「そうですか?こいつも結構バカですよ?変な趣味あるし」
「え?変な趣味?」
「バラしてもいいって本人は言ってたんですけど流石に可哀想じゃないですか。でも……、はは!すみません、思い出したら笑っちゃいました。笑えるような面白い趣味です」
最後に、ありがとうございました、と礼で締める定番の、終始和やかな空気が読み取れる雰囲気で記事は締められていた。それを読み終え、傍の辺りで藤田が「水戸さんの変な趣味ってなんですか?バラしてもいいなら教えてくださいよ。どーせあれでしょ?バイクなら一日中弄れるとか、そういうやつでしょ?あ、もしかして違う?変なAVが好きとか?!やっべ、それやっべえよ笑っちゃうよ三井コーチ」と一人で自己完結しながら喋っているのを他所に水戸は、ふーん、と携帯を見下ろしている。あんのやろうこれのこと黙ってやがったな、と揶揄するような彼の子供じみた悪戯に、怒りを通り越して呆れた。そして最後、笑ってしまった。三井はきっと、線を引いている。ここまでなら騙せる、自分なら確実に騙し通せる、この先はアウト、見られる仕事というのを逆手に取り、上手く周囲を見渡して、彼はさながらゲームしているようだ。お見事三井コーチ参りました俺の負け。
「しっかしまあ、洋平もこんな悪ふざけすんだな。ちょっと意外。三井コーチもクールに見えて可愛いっつーか」
藤田の携帯を、面白そうに覗き込んだ社長の永瀬が、やはり揶揄するように言っている。
「だから全然クールじゃないですよ。まじでバカです。振り回されっぱなし」
水戸が息を吐きながら言うと、永瀬も藤田も笑った。そして、じゃあ仕事しますか!といつも通り永瀬が声を掛ける。すると背後から小さく静かに、経理の遥が声を出した。
「ていうか、惚気ですよね」
「は?」
振り返ると、遥はまるで素知らぬ顔だ。ばつが悪くなり、水戸は作業着のポケットに手を突っ込んだ。
あの野郎、いつかてめえの性癖もバラしてやる。水戸は目を伏せ、少しだけ笑った。誰にも気付かれないように。








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