短編

□嘘だらけの小指
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午後八時、鍋も一通り食べ終わり、一息付いた。未だに蒸している縁側に出て、菅田達は花火を見ている。引っ切り無しに上がるそれは、この場所からよく見えた。色取り取りの花火は、この真っ暗闇の中でよく映える。昼間に感じた緑は、黒に紛れて消えてしまっていた。花火に照らされる度、一瞬だけこの庭が深い色に変わる。照らされるだけで、緑は見えない。水戸はグラスを手に持ちながら、庭に立っていた。花火を見上げながら、庭に植えてあるミニトマトを摘んでは食べている。三井はというと、二人で何やら会話をしながら彼も同様に、ミニトマトを食べていた。こうして見ている限り、二人が特別な関係には見えない。知っている人間以外には。
「初めて見たんです。鎌倉の花火」
菅田は縁側で、隣に座っている遥に声を掛けた。
「そうなんですね。わたし、七里ガ浜に住んでて、毎年見てるかも」
へえ、そう言って菅田は、焼酎の入ったグラスに口を付けた。氷が軽い音を立てる。
「すみません。無理矢理誘って」
彼女を見ていうと、どうして? と問うように菅田を見る。そしてかぶりを振った。
「全然。楽しいですよ。誘ってくださってありがとうございました」
「なら良かった」
胸を撫で下ろす仕草をすると、遥は菅田を見て笑う。そして口を閉じ、正面を見た。彼女が見ているのは、菅田ではなかった。
「わたしね、失恋したんです」
菅田は何も言わず、未だに途絶えない花火を見上げる。
「でも失恋って、恋を失うって書くでしょ? そしたら何か、何か違うなって思って」
菅田は彼女を見た。今度は遥が、花火を見上げている。色とりどりの、鮮やかに咲く花だった。
「失う以前の問題だったんです。だって相手は、わたしに対して何の感情も持ってなかったから。一瞬の時間でさえ、無駄にもしてくれなかったんです」
失ってもいない、そう言った遥は、上げていた目を伏せ、自分の小指を見ている。少しだけ伸びた小指の爪を、人差し指で何度か弾いた。菅田はその小指を見て、単純に細い指だと思った。そして、これが癖なのかそれとも、嘘を吐いているのか。菅田にはまだ分からなかった。
ごめんね、と菅田は心の中で呟いた。だってあの現実主義者が本気になっちゃったから。あんなにクレバーで、勝利の為に戦術を選ぶ、選択出来る男が。そしてその為に味方を生かして自分も生き残る手段と方法を、誰よりも感性と理性で知っている男が。その上、その彼が、保険などという言葉まで使った。生き残る為の保険か、或いは他を捨てる為の保険か。それは知らない。ただ菅田は、「いいだろ?」が指すものがようやく分かった。庭の美しさを誇るものでもあったし、この生活を純粋に良しとしている意味でもあった。そのくせ、「あいつのことは知らない」「聞いてねえし」などと、切り取ったように言葉を繋げる。あの時の目は、心底その相手を愛おしんでいた。寂しくもないし、距離も測っていない。戦術でも生き残る術でも何でもなくて、彼にとってのこれは現実。
だからごめんねお嬢さん。きっとあの男には勝てないよ。
遥は未だに小指の爪を弾いている。緩く生温い風が、彼女の髪を揺らす。騒々しい花火の音が、耳の中を通り過ぎる。庭に立って、その喧しさを見上げている二人の友人。一人は学生時代から知っている男。
「あのー、的外れだったらすみません」
「え?」
「あいつ、三井ね。無駄を無駄にしない奴なんですよ。いや、違うな。オレらって勝敗が常に隣に居座ってて、いつも崖っぷちに居るようなもんで。でもね、敗けて落ち込んでも、次の日にそれさえ武器にするような奴で」
遥は首を傾げていた。真意が掴めないようだった。
「そいつがまあ、ここに来るまでに色々あって、悩んでたこともあったし。だからその、あなたが考えるほど、相手は分かんねえよってこと」
「……そうですね」
ありがとう、彼女はそう言うと立ち上がった。もう一度夜空を見上げ、終盤に差し掛かっているだろう花火を見ている。激しい色を伴うそれに、彼女は何を感じるのだろう。
「わたし帰ります」
「え? 最後まで見ないの?」
「近くだから、見ながら帰ります」
「え、あ、送る」
「大丈夫。ありがとう」
慌てて立ち上がって初めて気付いた。意外と小さい人だ、と。一瞬だけ向き合って、彼女はすぐに菅田を横切った。帰ります、ご馳走さまでした。二人にそれだけを言って会釈すると、水戸が言う。送りましょうか、と。だけれど彼女は、かぶりを振った。洋平よ、お前がそれ言っちゃいけねえよ? 意外と天然? そこも無念。菅田は苦笑してから言葉を咀嚼して飲み込み、広い庭を抜ける彼女を追い掛けた。
「待った!」
振り返った彼女は、ちょうど門を出て行く所だ。
「ほんとに一人で大丈夫? 送るよ」
「心配性? 大丈夫ですよ」
「違う。送るって、もうちょい一緒に居たいって意味なんだけど」
オレにとっては。そこを強調するように言うと、彼女は笑った。
「今日は本当に大丈夫です。じゃあまた」
「また、があるの?」
「あなたが望むなら」
さようなら。そう言うと、彼女は去ってしまった。後ろ姿を見送ると、上には花火が掛かっている。ぱんと弾かれたそれに照らされ、緩く巻かれた髪が揺れた。歩く速度は適度で、坂を下るとまた揺れる。連続花火が、彼女の頭上にあった。鮮やかなそれが光る度、眩しくて瞬きをする。振り返らないその人が見えなくなる頃、音は止んだ。お疲れさん、今日はありがとう。菅田はもう見えない彼女を後ろ姿だけ見送り、もう一度庭に戻る。
花火が終わってしまったからか、庭にもう二人は居なかった。菅田は縁側にスニーカーを脱ぎ、大きな窓を開ける。リビングに上がると、エアコンで酷く部屋が冷えていた。テーブルを片付けている水戸、飲みながら適当に摘んでいる三井、対極に居そうなのに、二人は今も尚、一緒に居る。
「なあ、お二人さん」
菅田が言うと、二人は同時に振り返った。
「オレ、惚れちゃったんだけど」
「は?」
ぽっかりと口を開けたのは三井だ。水戸は瞬きをしている。
「井上遥さん、ぜってえ落とす!」
「す、菅田。菅田くん、菅田さん! いや気付いてた。気付いてたけど、あの女はやめとけ。な? あれはお前の手にゃ負えねえって」
「分かんねえじゃん」
珍しく狼狽えている三井が可笑しくて、菅田は目を細めた。負えなかろうが何だろうが、やってみなきゃ分かんねえ。今までそうやって生きて来た。
「いいんじゃないですか? 菅田さんみたいな人なら、あの人寂しくなんねえだろうしね」
「ほー、お前はほんっと! あのねーちゃんのこと良く知ってんのなー」
「え、まだ言うの、それ」
「悪いけど、死ぬまでネタにするかんな」
「ちょっと、ほんとやめて。やめてください」
ほら、ね? あんたのこと、無駄にはしてなかったんじゃない? 菅田は彼女が弾いた、小指の爪を思い出した。嘘じゃなかった。嘘だらけの小指なんて、きっとない。




終わり


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