短編

□嘘だらけの小指
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庭に続く大きな窓を開けると、蒸した空気以上に感じたのは直接目に入って来る緑だった。大きな木が三本、ミニトマト、胡瓜に茄子、他にあれは何だバジルか、三井が好きそうだと菅田は思った。生温い風で時々、葉の緑がさらさらと揺れる。いいだろ? その時三井は言った。後ろから掛かる声に菅田は振り返る。得意気に言う三井に、菅田は、「いいだろ?」が何を指しているのか分からなくなる。だけれど菅田は彼に、いいじゃん、と返して窓を閉めた。閉めると急に、エアコンの冷えた風が横を通り過ぎる。
今日は鎌倉の花火大会だ。三井の新居に来たかったことも相俟って、ちょうどこの日を選んだ。オフシーズンの今時分は、菅田も三井も時間が取りやすかった。もっとも、取り難い場合もあるのだが。ただ今日は、二人とも一日中フリーだ。東京から電車を乗り継ぎ、菅田は今日は鎌倉で過ごすことにしている。とはいえ、三井と何時間も共有するのは自分の性格上避けたくて、午後四時頃を狙って鎌倉駅に着くようにしていた。泊まるつもりはない。その勇気はさすがに無い。万が一彼ら二人が盛り上がって、万が一行為が始まったとしたら、そしてそれを万が一自分が目撃してしまったらと考えたら面白過ぎる。菅田は水戸が可愛かった。歳下だと感じさせない平静さを持っているのに、妙に懐に入るのが上手く見える。そしてそれを、不用意に無意識に出来ているのが可愛い。弟が二人居る菅田にとって、彼は何やら捨て置けない気にさせる存在だった。その彼が、三井に組み敷かれているのを想像すると、残念やら無念やら可哀想やら、もっといい相手が居ただろ! と思わざるを得ないのだ。三井の手によって、あの捨て置けない男が暴かれていく。無念だ。こんなにでかい、しかも我儘で自分勝手な野郎より、もっといい女が居たよ洋平。しかも家まで買うなんて! と嘆きたくなるのを堪える以外無くなってしまう。よって、断固泊まらないと決めている。
三井は冷蔵庫から、ビールを出していた。飲むだろ? と聞かれたので、おう、と返した。真新しいキッチンは広く、その後ろには、木製のキャビネットがある。古びた様子のこれは、作られた古さなのかそれとも元々備え付けてあったものか、菅田には分からなかった。依然として、三井の言った「いいだろ?」が何を指すのかも分からないままだ。或いは、彼の表情だったか。出された缶ビールのプルタブを人差し指で玩びながら、菅田は目を伏せた。
「あ、グラス要るか?」
「いや、いいよ」
三井の言葉にようやく、菅田はプルタブを開ける。この時間からもう飲んでる、という高揚感はあるものの、今座っている椅子にしても足の裏に感じるさらりとしたフローリングも、居心地はいいのだが妙に擽ったい。辺りを見渡すと、一面フローリングでリビングはだだっ広い。所々仕切り戸はあるのだが、想像するに浴室や洗面、トイレだろう。あとは個室といった所だろうか。リビングには階段があって吹き抜けで、見上げると中二階のような場所に何部屋かあることが伺える。ほぼ一階で生活出来そうだった。
「しかしまあー、思い切ったもんだな」
「そうでもねえよ」
「そんなもんかねー」
菅田は缶ビールに口を付け、土産に持って来たたまり漬けのクリームチーズに手を付けた。土産というより、自分が食べたいものだ。クリームチーズ、生ハム、スモークチキン、それらは既に三井が皿に盛り付けている。ついでにバジルとトマトまである。相変わらずベタだな、とそれを並べた時に彼を見て、自分が言っていたのを思い出した。つい数十分前のことだった。
「お前よー、父ちゃんと母ちゃんには言ったの?」
「いや? 詳しくは言ってない。鎌倉に引っ越すってのと、ここの住所は伝えたけど」
ぎょっとして、菅田はビールを飲む手を止めた。自ら聞いたものの、菅田にとっては突飛な回答だったのだ。ただ驚いた。
「え、まじ? どーすんの。どーなんの」
「あのさあ、保険って掛けときたくねえ?」
「は?」
「使わねえにしても、掛けときゃ安心じゃん。いつか使うかも分かんねえからさ。だからまだ、あの人達も保険掛けときたいんだろ」
また、彼が言った「いいだろ?」が過ぎる。あれはどういう意味だったのか。庭の風景がいいという意味なのか、或いはこの生活か。菅田には分からないのだ。
「洋平は? 親御さんには言ってんの? その辺」
「さあね。あいつのことは知らない。聞いてねえし、必要ならあっちから言うだろ」
菅田はそこで、あ、と思った。三井は窓の向こう側に目をやり、庭を見て、光が反射する向こう側を見て、あまりにきらきらしているせいか多少目を細めている。思わず振り返り、菅田もそちらを見た。緑に太陽光が反射して、眩しいほどだ。大きな木が三本、確か梅と桜と楓だと三井は言っていた。それから小さな小さな畑のようなもの、土の匂いが酷く近い。閉め切られたここまで届く筈がない。それなのに身近に感じる。吸い込むとまだ、真新しい木の匂いが充満している。剥き出しになった柱、梁、首を動かして、改めて見渡した。広い。ただ広い。全てが整うこの状態に至るまでに、どれくらいの時間が掛かったのだろう。
「あー、恋がしたい」
「何だ急に。アホか」
ビールを呷ると、炭酸が喉を抜ける。まだ明るい時間からこうしてビールを飲んで、気分が悪い訳がなかった。自家栽培だというバジルとトマト、土産のつまみ類、何だこれ最高な休日、菅田は何気無く考え、一人頷いた。
「洋平の職場ってどの辺だっけ」
「何だよ、急に」
「なあなあ、迎えに行かねえ? 終わるくらいに」
驚いたのか三井は、目を瞬かせている。
午後六時半頃、水戸の仕事はその頃に終わるらしい。見計らって家を出て、菅田は三井と電車に乗った。鎌倉駅から江ノ電に乗り、最寄駅で降りる。三十分程度揺られながら、鎌倉の家でビールから始まり焼酎を飲んでいた菅田は、その頃既に気分が良かった。江ノ電の中で、景色いいなー、だとか、花火楽しみだなー、と誰に言うでもなく独り言のように呟いていた。三井は珍しく静かで、相槌を打ったり、或いは黙っていたりと、普段の喧しさとは真逆だ。思えば今日は、初めからそうだった。鎌倉駅に最初は迎えに来た。午後四時頃、彼は一言、よう、と言った。菅田は普段通りの口調で、どーよどーよ、と声を掛けた。うるせえなあ、と言いながらも彼は歩き、鎌倉の家に着いた。リビングは既に冷えていて、そのだだっ広さに菅田は驚いたのだ。凄えな、淡々と声を漏らすと、三井は目を伏せた。緩く笑いながら、そうだろ、と言うだけだった。得意気でもありながら、これが当たり前のようにも見えた。自慢ではなく、ただこの生活が側にあることが当然のように。「いいだろ?」と言った時もそうだった。その上三井は、保険掛けときゃ安心、とまで言うのだ。ああもう学生じゃない、三十を越えちまった、菅田は改めて自分と三井の年齢を考えた。
初めて彼と会ったのは、大学生の頃だった。当時互いにバスケットに必死になり、迷って悩んだ挙句、煌びやかな表舞台を一瞬だけ垣間見せる過酷なプロの道へと進んだ。選手とコーチという、畑は違えど同じ方向だ。昔から三井は、クレバーな男だった。勝利の為に戦術を選ぶ現実主義者。選択出来る男だった。そしてその為に味方を生かして自分も生き残る手段と方法を、誰よりも感性と理性で知っている男だった。その彼が、保険などと言う。生き残る為の保険か、或いは他を捨てる為の保険か。どちらにせよ、恋がそれをさせたのか。三十分の間、電車に揺られながら菅田は、同様に揺られている頭の中で彼を、こうして恋に没頭している三井を、シンプルに羨んだ。
水戸の職場に着いたのは、ちょうど午後六時半頃だった。水戸が整備士という話は知っていて、菅田はほうー、と辺りを見渡した。整備工場を間近で見たのは初めてだった。駐車場には水戸の車しか残っておらず、そこから少しだけ離れた場所にある事務所には灯りが点いていた。その横に併設されている整備工場に人影はない。事務所内にまだ、水戸は居るようだ。三井はスマートフォンを取り出し、操作をすると耳に当てた。それと同時に、事務所と思われる場所の灯りが消え、誰かが出て来る。洋平じゃねえ? 菅田が言うと、もう一人。女性が出て来たのだ。菅田は目を凝らした。ん? と自然と出て来る声とほぼ同時に、三井は一言、げ、と言った。げ、と本当に口から出す人間を、菅田は初めて見た。単純な疑問で、幾らか身長の高い三井を見上げる。彼は眉を顰めていた。嫌悪感、というよりも、苦手意識をあからさまに見せている。もう一度菅田は、水戸が居る方向を見た。水戸は事務所に鍵を掛け、一言、お疲れ様でした、と言っているように聞こえた。さほど距離はない。目を凝らさずとも、その女性の見栄えの良さは分かる。
「み、三井! あれ! あの子誰! あの美人さん! 隠れキャラ?!」
「うるっせえよお前はよ!」
二人の声が大きかったのか、水戸がこちらを見た。同様に女性も一緒に。
「三井さん、菅田さんも。来てたの」
水戸が言うと、隣の彼女もにこりと笑んで、会釈をする。肩より下の髪の長さ、長い前髪で額の綺麗な丸みが良く見えていた。私服なのか、ノースリーブのカットソーにワイドパンツで、スニーカーを履いている。瞬きをした時、一瞬だけ陰が見えた。寂しさを濁すような瞼の滲ませ方に、雷が落ちるってこんな感じ、とただ思う。あ、やばいめちゃくちゃ好みだ。ファッションまでタイプ、菅田は息を吐いて、額に手を当てた。
「初めまして。菅田功輝です」
努めて冷静に言うと、彼女は瞬きをして菅田を見る。
「初めまして。井上遥です。あの、もしかしてバスケの?」
「え、知ってくれてんの?」
「ああやっぱり。時々テレビで観るので」
目立ってらっしゃるし、続ける彼女を見て、バスケやってて良かった、とやはり努めて冷静に菅田は思う。
「あ、オレらね、今から花火見るんすよ、鎌倉の家で。良かったら来ません?」
三井を見上げて言うと、彼はぎょっとしたように菅田を見る。そして、今度はおもむろに嫌そうにするのだ。
「てめえ、何で勝手に決めんだよ」
「いいじゃん、なあ洋平いいだろ?」
次は水戸を見た。彼の方は特に何ら問題ないような素振りを見せ、いいですよ、と言う。ほら見ろ、と言うと、三井は舌打ちをした。それを見て、遥は鼻で笑った。
「ほんと、あからさまに嫌そうにしますよね。三井コーチは」
「あのなあ! あー……、もういいや。どうぞご自由に」
三井は目を逸らし、もう歩き出している。大きく足を動かし、水戸の車の方へ向かっていた。水戸はそれに付いて行っている。彼は三井を見上げ、あんたもう飲んでんの? と、聞いた。三井はそれに、いいだろ? と目を細めて笑った。またいいだろって言った、菅田はそれを、何気無く後ろから眺める。何か、何つーか、凄えんだよな。客観的に見るのは、昔から得意な方だった。明確に言葉にして発信するのは苦手だったが、形にして捉えるのは好きだ。何しろ言葉にすると、正論ばかり言うからだ。三井にもよく言われたものだった。パス、シュート、ドリブル、ヘッドコーチとのアイコンタクト、言葉にする前に行動で示すタイプだと自負している。
だから一層思うのだ。この計算高いこの男が、と。同居人が居る、と言われた時は驚いた。それは彼を、客観的に見ていたからだ。こんな勝手な、勝利しか目指さない男と同居する強者の女が居るのか、と。恋愛関係には酷くドライで淡白で、尚且つその逆、純粋な方だと信じて疑っていなかった。が、蓋を開けてみれば相手は男だった。その上、ずっと好きだった人なのだと聞く前に知ってしまった時には驚きをゆうに超えた。いや、違う。納得をしてしまった。そして、嬉しくもあった。その当時も、凄えなあ、と思ったものだった。この男が、常識を覆してしまうことが。
菅田は隣を歩く遥を見下ろした。横顔から伺える瞳は、やはり曖昧な何かを滲ませるものだった。寂しさじゃない、かといって煩わしさでもない。そうじゃなくて。ああそうだった。客観的に見るのは得意な方だった。
今日の飯何? 鍋にする、人数多いし。夏に鍋? 夏の鍋もいいもんだろ。はは、懐かし!
目の前で車に乗る二人を見た。当然水戸は運転席で、三井は助手席に乗る。菅田と遥は、後部座席に乗った。戯けるように菅田は、しゅっぱーつ! と声を出す。水戸はそれに、シートベルト付けた? と聞いた。相槌を打つと同時に車は走り出した。菅田は三井が、舌打ちをしてまで彼女を誘うのを拒んだ理由が分かった。彼女を拒絶したという意味ではない。菅田が彼女に、一瞬で好意を抱いたことを知ったからだ。その上、彼女の気持ちを知っている。
意外と優しいとこあんだよね、お前。菅田は前に座る三井の後頭部を眺めた後、真っ直ぐ前を見ている遥を見た。




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