短編

□KIDS
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昔住んでいた祖母の家には、鼠が棲み着いていた。
幼い頃によく聞いていた。眠る時分になると天井の裏をばたばたと走り回るそれが、果たして鼠だったかは分からない。今日も走ってる、水戸は幼いながらも走り回るそれに対して妙な愛着を持っていた。時々帰って来る母親の足音、自然と始まる祖母との怒鳴り合い、二人の大人の女、それを他所に鼠は、毎夜毎夜運動会状態だ。案外、うるさいと思っているのは鼠の方で、制するつもりで走っているのかと、水戸は時々考えた。布団に寝転がった先に見える真っ暗な天井は、毎晩うるさかった。が、その内、夜の運動会が無くなる。どうしたのかと水戸は思った。一晩だけでなかった。翌日の夜もその次もそのまた次も、音はすっかり消えて無くなった。祖母に聞くことはしなかった。この音が無くなった頃、母親と祖母の怒鳴り合う声も消える。本格的にあの母は、祖母の家には寄り付かなくなった。その頃自分の年齢が幾つだったか、水戸は覚えていない。
三井が購入を迷っている古い家を、水戸も見に行った。その日は二人とも休日だった。もっとも三井は今、オフシーズンで割と時間がある方なのだが。見に行った家は、酷い有様だった。雑草の生え放題の手入れされていない広い庭に、建て付けの悪い玄関、家の中は当然埃まみれだ。これを三井は、購入を考えているのだという。あんたどうしたの普段なら絶対選ばないやつだろこれ、水戸はそれを、彼を見上げながら口の中で言った。三井は口を噤んだままだった。この物件を紹介した大楠は、直すと幾らくらいなんだろなー、と既にその辺りを視野に入れている。水戸はこの時、鼠が居そう、と思った。天井を仰ぎ見ると、電気の通っていないそこは薄暗い。耳を澄ませても、裏を走る掻いたような足音はしなかった。三井は窓を開けた。開けると景色がいいんだよ、と何故か誇らしげで、水戸はそれに続いて歩いた。これもまた建て付けの悪い大きな窓を、我が物顔で開ける。水戸は景色よりも先に、大きな窓の外から見えるだろう景色を見た。三井の後ろに立っている水戸は振り返り、物が無くて閑散とした室内を見渡した。窓に負けず劣らずだだっ広く、床に使われている木はひんやりとしている。広い、ただ広いのだ。右を見ても左を見ても広くて、これ確実に鼠住んでた、と訳もなく思う。今度はこの人に追い出されちまうよ、お前。と水戸は、居るかどうかも分からない動物に同情する。
なあどうする? 三井が聞いたそれに、水戸は返答しなかった。薄暗いリビングと思しきそこを見渡しながら、今更ながら考えた。幼い頃に幾日か一緒に過ごしたあの鼠は、どこに行ってしまったのだろうと。
後日、大楠から呼び出された。飲む誘いで、水戸は了承した。どうせ物件を購入するかしないか、その辺りの話だと水戸は思った。見慣れたいつもの居酒屋で、水戸と大楠はジョッキを合わせた。まだ夏の気配が終わらなくて酷く暑い日が続いている。暦の上ではもう秋だ。その中でこの居酒屋は、相変わらず空調が整っている。じわりと湿っていた肌が乾くのに、さほど時間は掛からなかった。
「お前よー、家買うのはいいけど、ばあちゃんと母ちゃんに何て言うの」
「それなー、どうしたもんかね」
「あんま困ってるように見えねえなあ、のんびりか」
実際、さほど困惑してはいない。というより、未だに実感が湧かなかったのだ。あの家を見て、庭を見て、景色がいいと言われた所で、水戸の目に映ったのは草が茫々と生えた手入れをしていない庭、というより野原だ。
「つーか、お前ぐだぐだ言わなくなったね」
「何がよ」
「ミッチーがあーだこーだって話」
大楠は、ジョッキを空けてしまった。次に何を飲むかは、もう決めているようだった。
「だってオレ、お前の全面的に味方ってのはもう変えらんねえもん。ばあちゃんに殴られるなら一緒に行ってやってもいいよ」
「そりゃ助かる」
水戸は目を伏せて口を緩めた。すみませーん、と声を上げた大楠は、店員を呼んだ。
祖母は何と言うだろうか。母親は何と言うだろうか。三井との関係を喋るつもりはないが、家を購入するとなると祖母は確実に何らかの事情を察知するだろう。上手く辻褄を合わせたとしても見破られるのは明白だった。ひ孫が見たかった、とは言わないかもしれない。三井とのことを勘ぐれば。思ったとしても口にはしないだろう。口にすれば確実になるのをあの人は、理解しているからだ。万が一の可能性、要は水戸と三井がそういった関係性である見通しを減らす為の保険を、自分で掛ける為に。だからこそ、好きにしなさい、とは言わないように思う。ただ、母親は別だ。あれは凡そ、見当を付けている。詮索することなく、好きにしなさい、と言う気がしないでもない。皮肉なことに、こうなってくると、あの地雷の女の方が付き合いが楽だと思えてくる。皮肉なことに。
その日もまた、日を跨ぐ前に帰宅した。明日は休日ではあるのだが、三井が懇意にしている横浜の時計店のオーナーの友人が建築士なのだそうで、事務所に伺うことになっている。水戸も一度、あの時計店で買い物をしたことがあった。三井に渡した時計は今も尚、休日になれば着けられている。明日もきっと、あの手首に巻かれる。
三井はもう、寝室に居た。ベッドサイドランプは灯っていて、また消さずに眠っているのかもしれない。よくあることだった。ベッドに寝転がり、雑誌やスマートフォンを見ながら、そのまま眠る。水戸はそれを見て呆れ、よく消している。今日もそうかと、水戸はベッドに上がり、三井を覗き込んだ。眠っているのならそのまま消そうと。
「おかえり」
「ただいま。起きてたの」
「何となく」
嘘吐け寝てたろ、とは言わなかった。三井は起き上がり、水戸はベッドに座ったままの状態だった。
「大楠、何か言ってた?」
「は? 何かって?」
「あー、いや別に」
水戸がこの部屋から居なくなっていた頃の話を、三井から聞いたことはなかった。ただ想像するに、契約変更の書類云々の時に話はしている筈だ。その後彼等の関係性がどうなったかは個々には聞いてはいないが、特に変化もないように水戸には思える。二人は変わらずよく話しているし、今日大楠とメシ行く、と三井から聞いたこともある。わざわざ水戸が付き合うこともしないし、そこは各自自由にやってください、と水戸は思っている。ただ、まあ言わんとすることは分からないでもない。
この人は常識と非常識が一緒になった子供みたいだ、水戸は要所要所でそう思う。起き上がった三井の手を水戸は取った。さらりとしているのに、適度に水分のある手をしていた。節もあまり目立たなくて、爪も綺麗に揃えられている。まじまじと見つめながらなぞったり撫でたりしていると三井は、何? と聞いた。んー、と曖昧に返事をする。こうして触れると、三井は撫でられることを心地良く感じる動物みたいな顔をする。
「昔住んでた家にな、ばあちゃん家なんだけど、天井裏に鼠が居たんだよね」
「うん、うん?」
一度返事をした彼は、返答したものの真意が測れなかったようだった。水戸は、ふっと笑った。三井の指先を眺めてなぞりながら、綺麗な指だなあ、と会話とは的外れなことを考えた。
「毎晩ばたばた走ってて、ばあちゃんと母親が喧嘩してんのに構わず走ってんの。うるせえって、俺の代わりに言ってんのかなって思ってた」
三井はいつも、水戸が昔話をすると沈黙する。思った通りの顔をする、と何度考えたか知れない。その反面、彼は時々、水戸から過去を探ろうとするのだった。昔ってどんなだった? と直接的ではなく、或いは、昔から好きな食べ物って何だった? と聞くような、確定しない言葉で曖昧に聞きたがる。ぽつりぽつりと水戸が返すと、へえ、と少しだけ嬉しそうな顔を見せる。ただそれは、こうして昔話に相当するような話ではなかった。世間話、その括りのような。
「でもその鼠、居なくなっちまったんだよね。知らん間に。あんたが気に入ってるあの家も、鼠住んでそうじゃねえ?」
水戸は伏せていた顔を上げ、三井を見て笑った。多分あの鼠は、十中八九駆除されたのだろう。祖母はずっと気付いていて、しばらくの間放置していたに違いない。気付いていない筈がないのだ、あの人が。喧嘩をしている最中も、母親が金切り声を上げている最中も走る音がうるさいから、水戸が居ない間に業者がやって来て片付けた。そうだと思う。気付いていた。あの人はきっと、今も尚、水戸を小さな頃のまま可愛い孫のままで見ている。将来的には器量のいい女性を見付けて結婚をして、ひ孫が産まれる。その可能性を期待して生きている。例え、本質や真実に気付いていたとしても。言葉にして現実にするのを避けて。
「参ったなあ」
「どうした、お前酔ってんのか?」
「三井さん、セックスしよっか」
「脈絡ねえな、完全に」
「あるよ」
「ねえよ」
あるよ俺がしたいから、そう言うと、そのまま三井に覆い被さって口付けた。不思議なもので、水戸の性器は彼に触れないと、或いは想像しないと反応しないようになっていた。見栄えのいい人と擦れ違っても、仕事で可愛らしい女性と話しても、この人に触れたい抱き締めたいと考えることは一切無く、今目の前に居るこの硬い体を前にするとどこにだって触れたくなる。整えられた指先、形のいい耳、筋が綺麗な首筋、浮き出た鎖骨。体の作りは何一つ自分と変わりないのに、どこを触れても心地良くなる。この人も同じで、水戸が触れると甘ったるく鳴くのだ。体に唇を滑らせてもそうだし、掌で緩慢になぞってもそう。唇を開いて舌を出して舐めて、それから噛んでも同じ。強く噛んでも弱く噛んでも、変わらない鳴き声と反応する性器に、新鮮な体を前にしたような気分になる。何度も何度も、もう数え切れないほど抱いているのに。
呆気なく放たれた精を見て、どうしようもなく愛おしくなった。虚ろに見上げる三井の目を見て、堪らないと思った。三井も、彼の両親には話もしていないらしい。話した? と一度だけ聞いたことがあった。まあ追い追い、彼はそれしか言わなくて、水戸もただ、ふーん、としか答えなかった。考えていると早く入れたくて仕方なくて、もう指を突っ込んだ。嬌声が耳に入り、このマンションの天井裏には鼠が居ないことを今更知った。当然だ。何しろ新築。居る筈がない。
三井が好きな箇所を抉るように探り、もういいやと挿入した。動き出そうにも気持ち良くて勿体ないと思う。何度も同じ行為をしているのに、これも不思議なものだ。三井の体を水戸は、時々ぎゅうっと強く抱き締めたくなる。この人が現実に帰ってしまったら、と時々思う。だけれどそれは今の所、起こりそうにはなかった。何しろ家購入に向けて、彼は颯爽と動いている。これはバスケットのゲームでも仕事でもない、それなのに。動きながら水戸は、ゴミを捨てることを考えた。掃除機を掛けることも考えた。これが現実。だけれど今は、彼の体だけを堪能しなければ、それこそ勿体ないことのように思う。
開いた唇、うっすら汗を掻いた額、肩と首の辺りに食い込む指先、鼠の走っていない天井裏。



「明日楽しみだな」
「え?」
水戸がシャワーを終えて戻って来ると、三井はまだ起きていた。珍しい、と思った。
「何だっけ、明日」
「お前はよー、やる気あんのかよ、この間も家見に行ったのにボーっとしやがって。時計屋のオーナーに紹介して貰った建築家の人と会うんだろ?」
「あー、だったね」
ベッドに入ると、そこは妙に暖かい。先程の熱が残っている筈もないのに。
「とりあえず俺は、あんたがめちゃくちゃなこと言い出さねえように口出すよ」
「あーもうはいはい!」
横になり、三井の体を抱き締めた。現実、現実、これが現実。祈るようにただ思う。
「お前もちゃんと、手の内晒せよな」
「晒してるだろ」
晒してるよ完全に。明日はゴミを捨てる、掃除機を掛ける、それからそれから。
水戸はもう、三井には唯一の弱みを握られていると思う。彼に心底惚れているという唯一の。子供が二人、今も尚夢を見ているみたいだと思った。唇が好き、額が好き、指先も好き、我儘で自分勝手な子供のようなこの人が好き。
今はただ、それだけを考えて眠る。鼠の走らないこの部屋で。







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