短編

□さらわれた明星
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生い茂った木々の中に、その家はあった。想像するに、昔の家主がそのままにしていたのだと思う。車とバイクが一台ずつ停められる程度の駐車場に、ぽつりと水戸が所有しているそれらがあった。遥は一度立ち止まり、それを眺める。二台ともボディは黒で、毎日見ている筈の車なのにもかかわらず、遥はその色を眺めた。今日も蝉は鳴いていた。艶のある黒に触れると熱いだろうと何気なく考える。駐車場の横には、古びた鋳物風の門扉があった。その横の門柱に、真新しいインターフォンがある。それを押す前に遥は、門扉の向こう側に見えるアプローチを眺めた。石が並ぶそこはあまり直されていないのか、まだ雑多だ。庭は広く、大きな木が三本は確実に植わっていた。手入れが大変そう、と何気無く考えた。そこでようやく、遥はインターフォンを押した。はい、と水戸の声がした。こんにちは、と言うと、どうぞ、と続けられた。彼には今日、永瀬モーターの誰かが、新居祝いを持って行くことは伝えてあった。週末の土曜日の午後二時、ちょうどいいタイミングだと思う。祝いの品は、永瀬から任せられていた。それともう一つ、遥が個人的に用意している。
永瀬モーターの社員達はきっと、水戸が三井と生活をすることを未だに知らない。水戸もそこについては何も言わなかった。もしも今後、その話になればどうするのだろう。水戸は多分、あの人が楽みたいで半分居候してます、と妥当な所で上手く切り返すのだと思う。彼は口数が多い方ではないし、自ら主張することはしない。その上、その場を素知らぬ顔と素振りで遇らう能力が抜群に長けている。そこに浅さを滲ませることがあるとしたら、不意を突かれた時くらいだ。例えばネクタイ、そんな生活の一部を垣間見る瞬間に踏み込んだ時。広い庭を眺めながら遥は、そんなことを考えた。ここに植わっている木に蝉が付いているのか、威勢良く鳴いている。あつ、口の中で言った遥はその声を聞いているだけで、汗が吹き出そうだと思った。
玄関は古びていて、開けると砂が噛んだような音がした。引き戸のそれは、昔ながらの風情が漂っていてどこか安堵する。挨拶をする前にもう一度、軽く辺りを見渡した。ひんやりしたそこは、リビングと繋がっているのかエアコンの涼しい風が抜けて行く。息を一度吐き、こんにちは、と声を掛けると、顔を見せたのは三井だった。
「げ、何であんたが」
「こんにちは、三井コーチ。顔見て『げ』って言われたの初めてです」
三井はあからさまに不機嫌さを滲ませながら、どうぞ、と施した。お邪魔します、と言うと遥は、履いていたバレエシューズを脱いだ。丁寧に揃え、フローリングを歩いた。特に廊下があるわけでもなく、玄関の横はすぐにリビングだった。広いそこは、柱と梁が剥き出しで、アイランドキッチンもリビングも、きっと浴室も洗面も全て、その中に収まっているように感じる。外から見ると平家に近いように見えたけれど、吹き抜けで階段が付いていて、中二階のような所に部屋があるようにも見えた。元がどのような構造になっていたかは知らないけれど、リノベーションは大変だっただろう、とは感じる。
「水戸さん、こんにちは」
「誰かが来るって聞いたから社長かと思ってました。遥さんだったんですね」
「あの人騒がしそうだから、わたしが代わりに来ました。これ良かったら。みんなからです」
使ってください。遥はそう言って、紙袋を一つ水戸に手渡した。ありがとうございます、と受け取る水戸を、三井も見ていた。彼もまた会釈して、ありがとうございます、と言った。口調が不器用に感じ、思わず笑ってしまう。
「あとこれも。わたし個人からですけど、良かったら使ってください」
続けて手渡すと、水戸はぎょっとしたようだった。それでも、ありがとうございます、と会釈した。三井も同じように、そうした。
「遥さん、その辺座っててください。コーヒー淹れます。あ、紅茶だっけ」
「どっちでも大丈夫ですよ、飲めますから」
広いアイランドキッチンに付けてあるテーブルセットの椅子に、遥は座った。そこからは、大きな窓が見える。その向こう側には植えられた木と、手入れされた庭があった。まだ手を付けられていないそこは、この先どう変わって行くのだろう。目映いほどの光を受けたこの室内と広い庭に、これから彼等の手で何が起きるのか。遥は何となく、またこの庭が見たいと思った。
「三井さん、紅茶ってあったっけ」
「あるよ、ほらそこの」
「あー、まだ慣れねえ」
「お前意外とボケてるもんな」
二人の声を聞いた遥は、キッチンの方を見た。二人で余裕を持って立てるそこで、こうして生活をしていくのを目の当たりにする。そこには何故だか、物寂しさは感じなかった。それ以上に、彼は好きな人の前では本当に普通の、ただの男であることを知った。三井も同じだ。紙媒体やテレビ等で見せる顔や口調と、全く違う。どの言葉が適切か、遥は未だに二人の会話を聞いていた。
この間あそこのカフェ行って買って来た。はいはい味も大して分かんねえくせに値段だけはアホみたいにたっけえやつな。は?味が分かってねえのはてめえだろ。
「そっか、高校生みたいなんだ」
「は?」
振り返った水戸は、酷く年若く見えた。三井も同様だ。
「あの、新居祝い良かったら開けてください。綺麗だから」
今見て欲しい、遥は続けてそう言った。何故そう思ったのか、それは二人があまりにも自然に見えたからだった。普段はそうして急かすような無礼はしない、だけれどこの二人には遠慮は無用だと思った。
水戸は紙袋から箱を取り出した。桐箱に入ったそれは、定番ではあるけれど江戸切子だ。ウィスキーグラスと記載してあったけれど、このサイズなら何でも使い勝手がいい筈だ。綺麗だな、と小さく呟く二人に、遥は素直に嬉しくなる。
「三井コーチはぜひ赤で。サンダースは朱色でしょ?」
「よく知ってますね」
「それくらい知ってます。神奈川の人間なんで」
三井はそこでも、不機嫌さを露わにする。面白い人、と遥はまた笑った。
「こっちは?」
「開けてください」
施すと今度は、三井が手を伸ばした。多少目をきらきらとさせて、玩具箱を開けるようなその表情に、彼は感情表現が豊かだ、と単純に思った。こちらも江戸切子同様に、桐箱に入っていた。それを三井は、躊躇なく開けた。
「あんたこれ嫌がらせだろ」
「半分嫌がらせで半分本気です」
口調がもう違う、と彼の充分な表現の仕方に、やはりこれを渡して正解だったと思った。
「やっぱこの女タチ悪い」
「三井さんは口が悪い」
「やかましい!」
「あのね、いただきものでしょ?ありがとうございますって言いなよ。ありがとうございます。すみませんね、こんな人で」
二人のやり取りに遥はまた笑った。三井が言う気持ちも分からなくはなかった。同じサイズの同じ茶碗という、嫌味なのか本気なのか分からない所に彼は、こうして悪態を吐いているのだろう。
「シャレで選んだんです、最初はね。でも、名前が気に入って。有田焼の『青き明星』っていうお茶碗なんです。三井コーチ、明星の意味分かりますか?」
「は?馬鹿にしてんのか」
「まあしてますけど」
この女!そう言った三井を他所に、遥は続けた。
「明星って明け方や日没後に一番星として輝く金星のことを指すんです。ぴったりだなって今分かりました」
沈黙する二人を交互に見て遥は、もうお終い、とただ思った。
「食事って大切でしょ?なるべく一緒に食べてくださいね」
「うるせ、小姑みてえ」
舌打ちを交え三井が言うと水戸が小さく、こら、と言って彼を小突いた。だけれどその様子は、少しだけ楽しそうに見える。その後水戸は、軽く腕を組み、三井と遥を同時に見る。自分を見る目線が酷く柔く感じ、遥は内心ぎょっとした。
「意外だな。二人って仲良いんだね」
「どこが!」
揶揄するようには感じなかった水戸の口調に、思い切り三井が食い付いている。呆れた、そう思った。
「ご安心ください。わたし三井コーチ全然タイプじゃないんで」
「うわー、奇遇ですね。オレもです」
「ほら、仲良いじゃん」
はは、と声を出して笑う水戸を、遥は初めて見たように思う。年若いまだ高校生のようないわけなさに、お終い、の意味をはっきりと理解してしまう。それを見て、三井は彼に、すっかり攫われてしまったのだと思った。ネクタイも上手く結べなくて三井の名前を出すだけで咳き込んで小さく舌打ちする男、決めたのは俺なんですとはっきりと言った男、沸いてんなあって思いますよ、と最初から降参してしまった彼。その普通さを見出したのは、目の前に居るきらきらと眩しい明星のような男だ。
そうしてきっと、魅力的なあの男は全てを曝け出す代償に、明星を攫ってしまったんだ。遥は少しだけ俯き、二人の声を聞く。





終わり


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