短編

□さらわれた明星
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水戸が永瀬に、住所変更の手続きお願いします、と言ったのは、遥が三井と某駅までの道を一緒に歩いてから約一年半経った後だった。
永瀬モーターの昼休憩の時間に、ぎょっとして弁当箱から顔を上げたのは遥だけではなかった。いつ引っ越したの?そんな話をしていたっけ?と考えていたのは、当然遥だけではないだろう。社長の永瀬も、お前いつ引っ越したの?と愛妻弁当らしきそこから顔を上げる。少なくとも水戸は、仕事中も休憩中も飲み会の時も、引っ越し云々の話はしなかった。それが急にこれだ。遥が二人の会話を追っていると、水戸は変更届の用紙を手渡されていた。いつでもいいぞ、と言った永瀬に、いや今書きます、と受け取った。水戸は会釈して自席に戻り、すぐに筆記用具を手に取った。遥から水戸の席は、よく見える。水戸は速筆なのか、ざざっと滑らせるように書き終え、もう一度立ち上がった。季節は夏の初めで、暑いからか整備士達は全員、作業着の袖を腰に巻いていた。それは水戸も同様に。
お願いします、と永瀬に変更届を渡し、永瀬が確認するのを待っているようだ。鎌倉?と問われると、はい、と水戸は言った。遥は昼食を食べながら、横目でそのやり取りを見ていた。二人の横顔だけが映るのだけれど、水戸は普段よりどこか素っ気なく見える。時々頭を掻いていて、黒髪が多少浮いた。横から見える彼の後頭部は、形がいいように遥は思った。素っ気ないというより、何か照れ臭そうな、会話を早く終わらせようとするのが見て取れる。が、永瀬相手にそうはいかない。何で鎌倉?マンション?ルームシェアどうすんの?彼の矢継ぎ早の質問に水戸は、また頭を掻いて、珍しくぼそぼそと順に答えている。元々マンションって苦手だったんで鎌倉の古民家を改装っつーかリノベーションしました。それだけ言って彼は、自席に戻った。買ったの?!その若さで?!いやでも二十八なら住宅ローンのこと考えたらちょうどいいのか。と、事務所内は酷く騒々しかった。水戸はそれに、まあ、と適当な相槌を打ち、煙草とライターを手に取ると事務所を出て行った。彼はルームシェアの件だけは触れずにいたのに、不動産購入の話が予想外に大き過ぎて紛れてしまったのか、誰もその件については口にしなかった。水戸はきっと、これを狙ったに違いない、と遥は考えていた。相変わらず意外と思慮が浅いのね、弁当箱の中に入っている卵焼きを箸で掴み、口の中に入れる。話の腰を敢えて折るように、新居祝いプレゼントしましょうか、と遥が口に出したのは、昼食を終えた後だった。
午後から遥は、水戸と自動車部品メーカーに同行した。ここ一年ばかりで遥は、仕事量が増えた。過去の職業で培った会話術が役立っているのか、取引先と会話をすることや提案も、割とスムーズに事が運ぶ。二十歳の頃から数年間だけ向かい合った仕事が、思わぬ所で重宝していた。何事も無駄ではなかったということだ。社長の永瀬に同行することもあれば、整備担当である水戸に同行することもある。ただ二人とも、相手側との会話に関しては、遥が口を挟むことが出来るほど浅はかな言葉を口にしない。酷く丁寧かつ穏やかで、手短に賢く済ませている。その中で経理担当の自分が発議する余地があれば、最後に提案することが主だった。元々信頼あるメーカーとの関係で、ただ永瀬モーターのような零細企業ではこの信頼関係が殊更に重視されるように思う。
この日の会議も手早く済んでしまい、遥は水戸と歩いていた。水戸はこういった場合、スーツを着るようにしている。作業着で参加するのは、社内で行われる会議だけだった。日中は暑い。遥は何気無く空を見上げた。真っ青の明るい空から、惜しげなく光が注がれている。暑いなあ、と頸の辺りに触れた。水戸はスーツのジャケットを脱ぎ、ネクタイを緩めていた。喉渇きません?遥は聞いた。お茶して帰りましょうよ、そこで。すぐ側にあるカフェを指差すと、水戸は多少驚いたのか、何度か瞬きをする。そうですね、と言って目を伏せて笑う彼を見た遥は、昼休憩に、住所変更の手続きお願いします、とぶっきらぼうに声を出した水戸を思い出した。
カフェに入ると店内は空調が整っていて、思わず息が漏れる。半分くらいの空席がある中で、空いている場所に座った。年若く溌剌としたスタッフが、水の入ったグラスを置いた。同時に水戸が、アイスコーヒーを頼む。遥さんは?と聞かれたので、アイスティー、と言うと、あとアイスティーください、と低過ぎない声を彼は出した。こうした、軽い気遣いに遥は、息を吐きたくなる。暑くて堪らなくて、アイスティーが待てなかったからグラスを手に持った。喉に通る冷たい水分は、多少酸味が効いている。レモン水だ、と思った。水戸も同じようにグラスを手に持った。レモン水ですよ、と言うと、へえ、と言った。特に関心は無いようだった。
「水戸さんって、スーツ似合いますよね」
「は?何ですか、急に」
「別に。ただ似合うなあってそれだけです」
彼は会議がある時、大概このスーツを持って来る。二日続けて出掛けることはないけれど、週一で会議に出る時は稀にある。午後からの時もあれば、朝一で事務所に寄り、そのまま出て行く時もある。その時は、朝から彼はスーツを着ていることが多い。
「ネクタイ、結べないんですか?」
「え?」
「だって今日も、ぽちくんに頼んでたでしょ」
「ああ、苦手なんです」
その時、また同じスタッフが、アイスコーヒーとアイスティーを運んで来た。コースターとストローを置き、それから丁寧にグラスを置く。ごゆっくりどうぞ、と会釈をして、踵を返した。遥はストレートが好きだった。シロップもミルクも入れず、茶葉の苦味が直接舌に残るのが、好きだった。水戸も同じように、シロップもミルクも入れなかった。ストローさえ要らない素振りを見せてから、やはりアイスコーヒーの液体の中に刺した。から、という氷の軽い動きが、音と共に残る。彼はストローで、その液体を飲んだ。煙草も吸いたいだろうな、と何気なく思う。
「朝スーツの時は、三井コーチが結ぶんですね」
遥が言うと、水戸は咳き込んだ。何度も咳き込むと、ばつが悪そうに遥を見据えている。
「あんたね、何が言いたいんだよ」
「昼休み、家を買った話に重点を置いて、ルームシェアのことは触れませんでしたよね」
敢えて。そう付け加えると彼は、小さく舌打ちをした。こういうことする人なんだ、と思った。単純に、彼は普通の青年なんだ、と。
「これだから苦手だ」
「三井コーチにも同じこと言われたんです」
「いつ?」
「さあ、いつだったっけ?」
忘れました、そう言うと彼は、軽く頭を掻いた。こうして頭を掻くのは、ばつが悪い時の癖だろうか、と遥は思った。水戸はまた、アイスコーヒーに口を付けた。どこか手持ち無沙汰に見え、遥はもう一度同じことを考える。煙草吸いたいんだろうな、と。店内はすーっとした冷えた風が抜けていて、コーヒーの香りやその他美味しそうなカフェメニューの香り、それらが満遍なく、かといって互いを邪魔することなく漂っている。喫煙席は設けていないようで、年若い女性客が多い。辺りを見渡すと余計に、彼は普段の姿よりもずっと幼く感じる。何故だろう。遥はその、明確な答えが見つからなかった。
「思い切りましたね」
「え?」
「家です。買うなんて思い切ったなあって」
だから思わず聞いた。彼をどうにか、普段の様子に戻してみたくなる。すると水戸は、テーブルに肘を付いた。大きな窓ガラスの向こう側を見て、どこか他所を見て口の端を上げた。
「そうでもないですよ」
「そうかな」
「決めたのは俺なんです。その時は別に、思い切ったわけでもなかったな」
「へえ」
遥は思わず、目を見開いた。そして何故だかどきりとする。今日ここに来て、彼の違う側面を幾つ見ただろう。ネクタイも上手く結べなくて三井の名前を出すだけで咳き込んで小さく舌打ち、それを脳内に並べただけだと、水戸は酷く幼い。だけれどこうして、肘を付き窓辺を眺める男の視線は、どこか曖昧だ。誰を浮かべているかなど聞くつもりもなければ聞くほど野暮でもないけれど、彼は本当に、ある特定の人物を思うと確実に魅力が変化する。
遥は堪らず、アイスティーを飲んだ。氷が少し溶けたのか、茶葉の味が多少薄くなっている。少しだけグラスを動かすと、また氷の、軽い音がする。不意に、今日は暑かったことを思い出した。
「あなたってやっぱり変わってる」
「そうでもないです」
「普通の男なのか思慮が浅いのか」
それともそこが魅力なのか。それだけは言わなかった。
「思慮は浅いですね、頭沸いてんなあって思いますよ」
「夏だからかな」
そう言うと、水戸は柔く笑った。彼にとってこの季節は、何か特別な意味があるのだろうか。蝉が鳴き始める時期、鳴き止む時期、口数の少ないこの男はきっと、それを遥に話すことはないだろう。




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