短編

□陳腐な世界と引き換えに
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「三井さん、布団入れて」
三井はそれに、ああ、と言った気がする。あまりに緩慢で穏やかな空気が流れ過ぎていて、五月後半の気温の高さが酷く怠惰に感じ、返答の仕方も定かではなかった。ベランダの窓を開けて外に出ると、どこからか夏草のような、葉の始めの匂いが漂う。その匂いは実際に生えている葉の香りなのか元々初夏が持った気配が漂わせるのか、三井には分からなかった。広いベランダに干してある布団に、思わず腕を掛けた。太陽の光を惜しげなく浴びたそれは、酷く暖かくて思わず身を委ねる。息を吸い込むと、干した布団特有の力が抜ける匂いが通り過ぎた。
今日は、とても天気の良い日だった。見上げると空の青と白い雲のコントラストが、一層三井の体を怠惰にさせる。そうだった、忙し過ぎたのだ。チャンピオンシップも終わり、報告会見も終わり、広報担当とのメディアと連動した仕事は引き続きあるものの、連休というのは何ヶ月振りだろうか。チャンピオンシップでの敗退を材料に三井は、チーム全体として来季へと進んでいた。その中で久々の土日の連休で、水戸と朝から過ごすのも当然何ヶ月振りかも分からない。それくらいゆったりと過ごしている。
水戸がこのマンションに戻って来てから、もう二ヶ月は過ぎた。この二ヶ月の間、三井の生活は酷く慌ただしく、特別何か具体的な会話はしなかった。いつも通り、何の変哲のないくだらない話、時間があればそれしかしなかった。ただ、三井は自然と、自分の話だけを優先することはなくなっていた。かといって、喋らないこともなかった。あんたのラジオが無いと落ち着かない、と笑われることもあった。そういう瞬間、水戸がふっと笑った時、いつも三井の思考はぼんやりと霞む。仄めくように纏まらない何かの理由が、三井には未だに分からない。
その時、窓が開く音がした。振り返ると当然水戸で、三井は何故だか瞬きをした。室内の自然な明るさと太陽光が混ざり合って、よく見えなくなる。彼の黒髪が光を反射して、思わず目を細めた。
「おい布団。早く入れてよ」
「だってよー、あったかくて」
言い訳のように目を逸らし、もう一度三井は、ベランダに掛かっている布団に前から体重を預ける。マンションの下には行き交う車が見え、今日は土曜日なのだと何気無く考えた。こんなにも穏やかでいられるのは久々だった。時間の流れが緩やかで、こうして干された布団に体を預けているだけで、目を閉じてしまいたくなる。思えばここ数ヶ月、常に激情の波の中に居たように思う。プライベートではずたずただったのに、チームの成績は決して悪くなかった。チャンピオンシップにも出場し、敗退ではあったけれど躍進もした。もっともその頃は既に、水戸はここに戻っていたのだけれど。それでも全体的にはずっと、休息はなかったのではないだろうか。だからね大目に見てよ、と言う前に三井は、軽く目を閉じて布団の暖かさに身を委ねる。
すると、物凄い勢いで衣擦れの音がした。揺れる体に驚いて瞬間的に目を開けると、水戸が布団を思い切り引っ張っている。ぎょっとして彼を見ると、珍しく歯を見せて笑っていた。はは、と声を出して笑った後、水戸はその布団を丸めて室内に放り込む。そして、やっと煙草吸える、そう言って箱から一本取り出し、ライターで火を点けた。水戸はいつも、右手に煙草を持つ。右利きだからだろう。煙草に口を付け、それを吸い込む時は目を軽く伏せる。それも彼の癖のように思う。この日は風が強いからか、ざわりと時々、勢い良く吹き付ける。三井は特に、特別煙草に対して不快感を覚える訳ではないし、水戸に対して禁煙しろ、とも思わない。好きにすればいい。ただ、この香りが三井の鼻を過る時、時々ではあるけれど胸が詰まる。飽きた、という言葉を思い出して、また彼がこのベランダに居ない瞬間が来るのではないかと、不安になる。水戸が吸う煙草は、高校時代から変わらないからだ。変わらない匂いが、三井の脳に焼き付いている。染み付いて離れないのだった。
水戸の右手の中指には、今日も指輪が嵌っていた。適度なボリュームと艶がなくて凹凸のあるそれは、水戸の節張った掌にはよく似合っていた。ここに戻ってから彼は、これを着けることを忘れないし、職場にもどうやら、チェーンに着けて行っているようだった。帰宅して外す時、首の裏を掻いているのを時々見掛ける。そうして多少の不快感とも上手く付き合いながら、水戸は適度にやり過ごしているようだった。三井はもう、指輪着けろ、とは言わないし、かといって水戸も、邪魔だから着けたくねえ、とは言わなかった。こういう瞬間三井は、何か変わったのかな、と感じる。
「えーっと、何?」
「何が」
「ずっと見てるよね、さっきから」
そうだっけ、と問うと、そうですよ、と返って来る。何の気なしにする会話に三井は、時々不意に過ぎるのだ。これで良かったのかな飽きたってやつの答えは、と。こうして三井は時に、間違い探しをするのかもしれない。日常を過ごし続ければ続けるほど。
「昨日さ、お前怒ったじゃん」
「ああ、あんたがまた今更なこと言うからだろ」
酷く呆れたように水戸は、乾いた笑いを見せた。そして、もう一本煙草を取り出して、ライターで火を点ける。いつも通り、コンビニでもどこでも買える安いライターだった。簡素なプラスチックのそれは、太陽光が当たるときらきらと不揃いに光る。どうにも眩しくて、三井は目を細めた。
三井は水戸と、昨夜喧嘩をした。もっともそれは、喧嘩と呼べるものでもないけれど。
「あれは、嫉妬とかヤキモチという系で纏めてもいいんですか?」
「違うでしょ。ああいう試すようなやり方が嫌いなの。まじでムカつくからさ、今後は止めていただきたいもんですね」
「はは、善処します」
すると水戸は、三井を見て柔く笑う。入ろっか、と言われたので、三井も続いた。ベランダから室内に戻ると、その光の差異にまた揺れる。瞬きを繰り返し、ようやく室内の緩慢な自然光に慣れた。室内の灯りは点けていなくて、それでもこの部屋は明るい。外が晴れているといつもそうだ。水戸はもう、シングルサイズの布団を二枚、纏めて持っている。寝室に持って行くのだろう。続いて三井も後ろから付いて行くと、ばさりと布団が、ベッドに掛けられているのが見えた。二人は、シングルサイズの布団を二枚個々に使っている。ふかふかと盛り上がるそこが心地良さそうで、三井はベッドに乗って横になった。消えていないその匂いに、思わず息を大きく吸って吐いた。手招きすると、水戸も同じように横になる。
「ほんとだ。いい匂いする」
水戸の素直な感想に、三井は自然と笑みが零れる。この当然のような過ごし方に、また間違い探しをしたくなる。多分それが昨夜の喧嘩だったのだと思う。
昨夜三井は、普段なら持ち帰らないものを持ち帰った。それは、ファンから郵送されて来た手紙やプレゼントだ。いつもは、菓子類なら周囲に配るし、物は受け取らないことにしている。手紙も読んでは纏めて、職場に置いていた。が、それを昨日は持ち帰った。飽きた、と言われたのが嘘かどうかはさて置き、時々三井は水戸を試したくなる。どこかでまだ、引っ掛かる部分があった。だから、どこからどこまで許される?という酷く安易な打算的な考えが昨夜は過ぎった。
いやいや見てみろよこれモテちゃって。凄くねえ?オレ。とは言わなかった。それでも、参ったなあ、と言わんばかりにこれ見よがしに触れ回ると、水戸の様子は一変した。
「あんた今更何が言いたいの。試されんの嫌いっつったろ」
と言ったのだった。いや試したんじゃなくてちょっとあるじゃん色々、どんな反応すんのかなって思うじゃん。三井はだらしなく笑って言った。
「あ?ふざけんなよ。腹立つから一人で寝て。おやすみ」
そう言って、水戸は一人寝室に消えた。頭に何か石のような硬いものが思い切りぶつかった感触があって、脳がぎゅうっと凝縮されたように固まった。めちゃくちゃ怒ってる、と水戸の不機嫌そうな顔を思い出した。その場に立ち尽くしたまま三井は、彼の顰めっ面を思い出した。眉を顰め、あからさまに怒りを露わにして見せた。その後しばらくして、三井は着替えを取りにそっと寝室へ入った。水戸はクローゼットには背を向け、横になって眠っているようだった。本当に寝ているかは知らない。きっとまだ起きている。それでも声は掛けず、三井は着替えを持ち出すとその場を後にした。風呂に入り、浴室に浸かり、三井は考えた。そういえば水戸は、めんどくせえ、とは言わなかったと。普段なら何も言わず、ただ一言めんどくせ、と息を吐くだけだった。怒りや嫉妬は、究極に自分勝手な感情だと思う。他人の真意など推し量ることなく、ただ一人勝手に感情を巡らせる行為だ。もっとも、三井を含め大概の人間はそうして生きて行くものだと思う。それを水戸がこうして、露わにするのは酷く珍しいことだと、三井は思った。
何か、歳下っぽい。そんなことを考え、三井は浴室で一人笑った。結局その日は、三井は一人では眠らなかった。普段通りベッドに入り、同じように眠った。水戸も気付いていただろうけれど、彼も何も言わなかった。翌日、つまり今朝も同じだった。おはよう、から始まり、普通通りに朝食を摂り、たまたま天気が良かったから布団を干そうと水戸から言い出したのだ。天気いいな、布団干そうか、と。彼がそう言った。それを思い出した。
今こうして、干したての暖かい布団の上で寝転がり、不意に乾いた匂いが鼻を横切る中で、三井は天井を見ていた。時々横目で水戸を見遣ると、彼は目を閉じている。すると視線に気付いたのか、水戸は目を開けた。割と至近距離で見る中で、表情の変化を見付ける。すっきりとした奥二重の目元と、よく通った鼻がある。唇は多少薄くて、左顎の下の辺りに、ほんの小さな、点のような黒子が二つ。色は意外と白くて、金属アレルギーが多少あるのか、普段着けているチェーンが当たる首を掻いた痕が少しだけ残っていた。じっと見ていると、また水戸が、何?と言う。三井は何も返答しなかった。何だよ、ともう一度聞かれても上手く返すことが出来なかった。ただ急に、もう急激にどうしようもなく、この男がこの場所から自分の側から消えてしまうことが怖かった。恐怖だ。柔らかくなった表情には、高校時代から随分と時間が流れた痕跡が見える。ここに行き着くまでに、どれほどの時間と言い合いと激情が繰り返されたか、その波に飲まれたか知れない。きっと水戸すら知らないのだ。三井の往来している心の在り方など、自分しかきっと見付けられない。
「なあ」
「んー?今度は何」
「家、買わねえ?」
思わず飛び出た言葉に、三井は口をあんぐりと開けた。何を考えるでもなくただ自然と水が溢れるように出ていたそれに、自分が逆に驚いている。オレ何言ってんの?とは一瞬過ぎったけれど、それでも撤回しようとはしなかった。今ならまだ間に合う。うそうそ冗談、そう言えばいい。けれども三井は、開けていた口を閉じ、空気を飲み込んだ。言わなかった。水戸は目を見開いていた。それから三度瞬きをして、一瞬だけ開いた口を閉じる。今度は水戸が三井を見詰めた。水戸の目は、色素が濃いように思う。逆に三井は、色素が薄いと水戸が言っていたことがあった。それを思い出した。どちらにせよ、至近距離で見なければ分からない。その距離に、二人は居る。その時、水戸が笑った。声を出して、目を目一杯細めて口を開けて。さながら子供のようで、小さな水戸を一瞬だけ垣間見た気がして、三井は喉が詰まった。ぐっと唾を飲み込んで、込み上げて来るこれが果たして同情なのか愛情なのか、どちらか分からなくて目元が熱くなる。
「いいよ」
「……え?」
「だから、いいよ。ここ家賃も高いし、それ考えたらいけんじゃねえ?」
「何だよ乗り気かよ」
「はは、自分が言ったんじゃん」
そうして笑う水戸を三井の中に収めた時、今ここでようやく気付いた。
三井は自分達の関係を特別なものだと思っていた。殺したいほど何も変え難い愛情と憎悪と、それが混同しても耐えていけるほど寧ろそれがないと生きることが困難に思えるほど、そんな相手は水戸以外二度と現れないのだと。互いに特別で、普通の世界と引き換えにして一緒に居るのだと今までは思っていた。違うそうじゃない逆だった、三井は水戸とまたくだらない話をしながら思った。ツーリング行く?山でも海でもいいよ、あんたもうすぐ誕生日だっけ?どっかで泊まってもいいかもね。じゃあまた箱根行こうぜ。オーラが違うんだっけ?つーかオーラって何だよ俺全然分かんねえ。そんな会話を交わしながら、オレ達がよほど陳腐な世界に住んでいる、と思ったのだ。水戸の笑顔を見て、日常会話を交わして、そんなもの側から見たらなんてことないただの惚気だ。なんて陳腐でありふれていてくだらない。オレ達は誰よりも陳腐な言葉と世界で出来ている。このくだらない生活と表情と日常が身近にあることは、決して切り離されちゃいないんだ。
でもそれでも、このくっだらねえ陳腐な世界は何よりも素晴らしい。
三井は水戸の乾いた掌を握り、この世で生きて行くことを決める。








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