短編

□夢を見ない人
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とにかく胸が詰まって、早く目を覚ましたかった。覚めればここから抜け出せる、三井はそう思いながら目を開けた。目の先に映ったのは、最近引っ越して来たばかりの真っ白な天井だった。目覚めた時、夢の内容は覚えていなくて、ただ苦しかった。そして悲しかった。心臓が酷く慌ただしくて、思わず胸の辺りをカットソー越しに掴んだ。息を吐いて吸って、呼吸を整えてから左側を見ると、水戸はもう居ない。枕元に置いてある携帯で時間を確認すると、時間は午前九時前だった。四月に入ったばかりの日曜日の朝は、三井の心臓に反して穏やかだ。気温は高くもなく低くもない。閉じたままのカーテンの隙間から、光が見える。天気良さそう、そう思った。
ベッドに横になっているのが嫌で、三井は起き上がった。フローリングに足を付けると、そこは心地良い冷たさだった。歩くと足の裏に適度な温度を感じて、ついさっきまで感じていた言い様のない悪夢のことなど、どうにでもなってしまう。寝室から出ると、眩しいほどに明るい陽射しを感じて思わず目を細めた。
おはよう、そう言う水戸を見た三井は、言葉に詰まった。何故だかとても安堵したのだ。だから唾を飲み込んだ。二度ほどそうして、三井も同じように挨拶を返した。
「早いね」
「変な夢見た」
「へえ、どんな?」
「んー、忘れた?」
「何で疑問形だよ」
笑う水戸の目を見て、三井は一気に目が覚める。どうでもいいや夢なんて、釣られて笑い、洗面所に向かった。顔を洗い、タオルで拭くとすっきりとする。辺りを見渡すと、相変わらず綺麗にタオルが収納されていた。マメだ、そう思った。そうなのだ、水戸は酷く清潔な男だった。一緒に暮らしてから気付いたことが、多分指で数えたら足りないほどある。もっとも、実際数えることはしないのだけれど。
まず、洗濯物はきっちりと畳む。三井が適当に畳むと、酷く口うるさいのだ。あーあーあー、と重ねるように三井が口を挟むと、めんどくせえ、と呆れられる。そういうことが何度もあった。洗い物や食事に関してもそうだ。だけれどその、水戸の口うるささを三井は、不満に感じたことはなかった。水戸がどう思っているかは知らない。不平不満だらけかもしれない。そんなくだらないことを考え、三井は一人笑った。
リビングに戻ると、朝食が用意されていた。ベーコンエッグとパンだった。美味そう、と言うと、あんたはメシが出来た頃に起きる、とまた水戸は呆れた。続けて、鼻が効くねー、と揶揄するように言われ、三井はふん、と息を吐くように笑った。三井もキッチンに立ち、コーヒーを入れた。水戸がアパートから持って来たインスタントコーヒーだ。近々、もう少し洒落たコーヒーメーカーが欲しいと、三井はぼんやりと考えた。コーヒーを入れ、引っ越したばかりの部屋を見渡すと、真新しい物ばかりだった。ダイニングテーブル、ダイニングチェア、ソファ、寝室にはベッド、それでもまだ、三井は欲しい物が浮かんだ。コーヒーメーカーに時計、寝室に置くサイドテーブル、水戸と過ごす為に最適で最良の物が、幾らでも浮かぶ。欲深だ、そう思った。俗物過ぎる、と。
入れたコーヒーを持ち、ダイニングチェアに座る。それからテーブルの上にカップを置いた。目の前に用意された朝食を眺め、大きな窓から入る光を眺め、また目を細める。天気いいな、そう思った。
「食わねえの?」
「あ、食う。いただきます」
「どうぞ」
いただきます、水戸もそう言って手を合わせた。三井は水戸と食事をするようになってから、必ずいただきますを言うし、手も合わせるようになった。彼の影響だった。残さず食べるようになった。これも彼と出会ってからだった。三井はそんな過去の記憶を掘り起こしながら、目の前の朝食に手を付ける。相変わらず大きな窓から日差しは入って来ていて、酷く暖かかった。電気を点けなくとも明るかった。三井は何故か、また夢の中の言いようもない不安や寂しさを思い出した。
「どうした?」
「何が?」
「まだ寝惚けてんの?いつもうるせえのに」
うるさいは余計だ、それは言わなかった。水戸があまりにも柔く笑っていたからだ。
「変な夢、見たからかも」
「またその話?忘れたんじゃなかったっけ」
「そうなんだけどよー、何か凄え怖くて。早く目え開けないとそのまま」
飲まれそうになるんじゃないかと。三井はそう思ったのだ。飲まれるって何に?あの夢を探ろうと思い出すのだけれど、なかなか思い出せなかった。けれども、水戸の柔く笑う表情を見た時、何故だか既視感を感じた。何だっけ?首を捻るも、説明しようがなかった。黒くて暗くて、ただぼんやりとした不安だけが残った。
その時、水戸は目を伏せた。口元は薄く笑っている。水戸はよく、こういう表情を見せる。三井と話していても、あまり目を合わせない。窓の外を眺めたり、こうして目を伏せたり。オレの顔、嫌い?そう考えた所でぎょっとした。馬鹿じゃねえの?と思ったのだ。が、それで思い出した。三井が見た夢を。内容は未だに掴めていないのだけれど、とても大切な何かが遠くに行ってしまう夢だった。掴んでも振り払われ、暗くて静寂な世界へ消えようとする夢だった。三井を置いて。しかし、それを説明するには三井には語彙力が足りなかった。圧倒的な茫漠さを感じさせるものだったからだ。そして、あまりにも所在無い夢だった。
「お前ってさー、夢見るの?」
「さあ、分かんねえ」
「オレの夢見ようよ」
「はは、言われて見るもんなのそれって」
「隣で寝てんだからさ、見れるだろ精神統一!」
「はは!意味分かんねえよ」
屈託無く笑うその表情は、酷く幼かった。年齢より幾らか若く見え、子供のように歯を見せて笑う。水戸は三井と話す時、目を合わせないことも多いけれど反対によく笑うのだ。それが三井は、とても好きだった。目を伏せて憂いた表情も惹かれるけれど、それはやはりどこか遠い。だから決めた。三井は今決めた。
「大体、夢にまで出て来られたら困る」
「はあ?!てめえ喧嘩売ってんのか!」
「じゃなくて、毎日同じ場所に居てこうしてメシ食ってんのに夢の中まで一緒なんて勘弁しろよ」
三井は口をあんぐりと開けた。ふ、ふ、ふざけんな!と言う直前。水戸は三井を見て、酷く優しく笑うのだった。優しいじゃない、愛しい、それが一番近い。
「夢の中でまで会うなんて、俺あんたのことどんだけ好きなの。恥ずかし過ぎる」
三井は口を噤んだ。どんだけ好きって凄え好きなんじゃん知らねえの?言ってやろうと思うのに、言葉にならない。三井は決めた。今決めた。夢なんて見ない人間だった。元々夢を語るのも苦手な分野だ。それよりも、目的や目標として側に置いておく方が余程いい。
だからもしも、水戸が暗くて寂しくて静寂な場所に行こうとするなら、それを引き止めればいいだけだ。また三井から目を逸らす水戸を眺めながら、そう思った。
「ツーリングでも行く?天気いいし」
「行く!」
「じゃあ早く食いなよ。行き先決めといて」
返事をする代わりに、三井は水戸を見て笑った。




終わり



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