短編

□さよならのいいわけ
1ページ/1ページ


帰宅して手を洗った後、まずは茶色の紙袋をテーブルの上に置いた。ポケットから煙草を取り出し、ライターで火を点ける。緩く舞う白い煙を眺めながら、吐き出した副流煙と一緒に溜息を吐いた。
その紙袋をまだ開けることはなく、煙草を持った右手もそのまま後ろにあるベッドに凭れた。天井を仰ぎ見て、しばらく目を閉じる。ゆっくり呼吸をしてから、目を開けた。体を起こして、頭を掻く。茶色の紙袋には丁寧にリボンが掛かっていて、それを手に持ち、まずは上から眺め、次は少しだけ持ち上げて下から覗いてみた。もっとも、そうした所で中身は見えない。水戸はまた深々と息を吐いて、煙草を灰皿に押し付けた。それから、掛かっていたリボンを外した。
今日は二月十四日だった。午後五時半を回った頃、取引先の事務員の女性が永瀬モーターにひょっこりと顔を出した。その頃水戸は事務所の自席に座り、パソコンで事務処理をしている最中だった。その時はたまたま一人で、ドアが開いた音を聞いた時に反射的に顔を上げた。ドアを開けて入って来たのは、見知った顔の女性だった。永瀬モーターとは数年付き合いのある部品業者の事務員の女性で、水戸が仕事でその会社へ出向くと必ず、にこにこと愛想良く挨拶をしてくれる人だった。暑い日などは、冷たいお茶どうぞ、と冷えた緑茶を入れてくれたこともあった。悪い印象などある筈がなく、社長の永瀬などはいつも、あの子可愛いな彼氏居んのかな、と下衆な発言をするくらいだ。その彼女が、ここに来るのは初めてだった。こんにちは、どうされたんですか?水戸が立ち上がりそう問うと、彼女は慌てて水戸に近付き、目もあわせないまま、これ良かったら食べてください、と割と大きな声で一息で言って茶色の紙袋を水戸に押し付けた。その言葉に水戸が返す暇もなく彼女は、足早に事務所のドアを開けて去った。唖然とした水戸は、それを眺めることもしないでパソコンの横に置き、何だ?と首を傾げた。少しすると年長の佐藤が事務所に戻り、あの子あれだろ取引先の、と言うと、目線を下げてその目元を緩めた。その後永瀬モーターの男達は全員、告白だ、だの、付き合うのか付き合わないのか、と囃し立てた。佐藤は更に「なかなかの娘さんだぞ」とまで言った。それでも水戸は、俺には勿体ないっすよ、と目を伏せて笑うしか出来なかった。面白がって全員が散々言ったものの、水戸はかぶりを振った。そして、仕事します、と仕事に戻ったのだった。
そして今現在に至る。フローリングの冷たさが、全身に伝わるのが早い気がする。そこで気付いた。エアコンを付けていなかったと。テーブルに置いてあるリモコンを手に取り、電源ボタンを押した。低く唸る音が響いて、何故だか一層寒さを感じる。紙袋はそれなりに、重さがあった。俺が貰ってもなあ、眉を顰め、水戸は紙袋のリボンを解いた。その中には綺麗にラッピングされた箱が入っていた。開けるのはやはり躊躇われ、そこに添え付けてあるカードが目に付いた。二つ折りにしてあったそれを開くとそこには、「ずっと好きでした」と丁寧な文字で書かれてあり、その下には携帯の電話番号だと思われる数字の羅列もあった。バレンタインデー、永瀬はあの時そう言った。それを思い出した。参った、思わず漏れる溜息を隠すように、また頭を掻いた。カードを手に取り、電話番号をぼそりと呟いた。一生懸命作って書いてくれたんだよな、そう考えると行き場もなく言いようもない感情が往来した。罪悪感でもなく、かといって告白された優越感なんてとんでもなかった。それよりもただ、どう転んでも応えられない自分に、多少焦燥していたのかもしれない。携帯を取り出し、記載してある電話番号の数字を押した。通話ボタンを押してしばらく待った。「もしもし」と上擦った声が聞こえたのは、二コール待った後だった。
ごめんね、好きな人が居て。そう言うと彼女は、ダメだって思ってたんです、と笑っていた。でも伝えることはしたくて、と続けた。そして最後、チョコ食べてくださいね自信作なんです、と転がるように笑って話し、彼女の方から「おやすみなさい」と電話を切ったのだった。水戸も携帯を放るように置いて、ようやくラッピングされた箱に手を付けた。スーパーのチョコ、じゃねえよな?パチンコの景品?そんな訳ねえだろ。水戸にとってのチョコの価値などその程度で、特にこの日に意味を持つこともなかったし愛情を持って二月十四日に接することもなかった。その時々に付き合っている女性が居ればプレゼントを受け取って、後日何かを返して、その程度だ。だからこういう、価値と愛情を比例して扱える女性やその気持ちを水戸は素直に、凄えよなあ、と思うのだ。
丁寧に箱を開けないとバチが当たる気がして、そうっと優しくシールを外した。開けるとそれは、スーパーのチョコでもパチンコの景品でも、はたまた高級チョコでも何でもなく、手作りで十センチ程度の円形のケーキだった。だから自信作、そう思った。崩れないようにきちんと型の中に嵌っていて、紙製の型を少しずつ剥がした。思い切り噛むと、中から溶けたチョコレートがとろりと出て来る。溢れるほどではなくて、それでも軽く舐めるとほろ苦い。水戸は甘いものは苦手だし、チョコレートもましてやケーキなんて好んで食べない。それでもこれは単純に美味いと思った。甘味はあるけれど基本的には抑えてあって、むしろ苦味の方が強い。酒にも合いそう、そんな的外れなことを考えながら、またがぶりと噛んだ。
「うま……」
三井とは数日前、電話で話した。何話したっけ?そうだ家具が云々くだらねえ話だった。それを思い出した。周辺を見渡すと、約一ヶ月後に引っ越す為の段ボールがあった。書類を整理して詰め込んだまま、まだ閉じていない段ボール、その類が並んでいて、引っ越すことを改めて知った。三井は確か電話口で、家具はオレが買うお前は口出すな、そう言った。いやいや今使ってるの使おうよ勿体ねえ、余りにも合わない生活観に水戸は唖然としたのだけれど、頑として譲らない様子に水戸は、好きにしろ、と言ったのだった。
あんな我儘で身長も百八十センチも超えてて体も柔らかくねえし可愛げもねえ、好きな人が居て、そう言って断った時に考えていたのは間違いなく可愛げのない男のことだった。水戸は三井のことを考えていた。
「あーあ」
三口ほどケーキを齧り、苦味が舌の上に残るのを確認しながら、取引先の事務員である女性は、酷く可愛らしい人だったと思ったのだ。にこにこと愛想も良くて口調も柔らかい、言葉遣いも丁寧で、彼女の好意を断った時でさえ、駄目だと分かっていたと言って無理矢理でも笑っていた。普通ならあれを選ぶのが正解で、正しくて、誰が見ても間違っていない。それでも水戸は、口調も荒くて自我が強くてついでに言うと気も強い、ふざけんなてめえと噛み付いて、きっと一緒に暮らせば一ヶ月に数回は必ず喧嘩をする。その人を水戸は選んだ。
「くそ、美味いなあ……」
あと一口で食べ終える、しかしそれを遂げる前に玄関が開いた音が聞こえた。狭い室内では、靴を脱ぐ音も、ずかずかと歩く音もすぐ側に聞こえた。
「なあー水戸ー、腹減ったんだけど」
その声が聞こえたのと、三井が洋室に入って来たのは同時だった。
「勝手に入って来んじゃねえよ、ついでにメシも食って来いっつーの。めんどくせえな」
「はあ?!合鍵渡したのお前だろ!つーか何食ってんだてめえ、それチョコだろ!」
自然と耳に入る三井の怒声に、水戸は思わず息を吐いた。何で俺はこんなでかくて可愛げねえ男を選んだんだ、そう思った。
「あ!あ!浮気だろ浮気したんだろ!しかもお前それ手作りだろてめえ!あー腹立つ!すっげえ腹立つ!浮気しやがっててめえ!新居解約すんぞ!」
「あーもう、だから浮気って何だよ。したことねえよ。ちゃんと断ったけどしょうがねえだろ?貰ったもん返せねえよ」
「返せよ!」
「よく分かんねえ内に居なくなってたんだって」
「じゃあどうやって断ったんだよ。あ?」
ガラ悪い、水戸は思わずあんぐりと口を開けた。三井は水戸に詰め寄り、いつの間にかすぐ側で座っている。威圧感があり過ぎて、思わず瞬きをした。
「それは、電話して、しましたけど」
「はあー?!電話?!何でてめえ番号知ってんだ?あ?」
「センパイ、まじで怖いんだけど、顔」
「うるっせえ、答えろオラ」
「いやだから、そこのカードに番号が書いてあって、これはちゃんとお断りしなきゃなんねえだろ?な?取引先の事務員の子だし、失礼ないようにしなきゃ……」
なんねえ、と水戸が言った所でついに三井がキレた。いや、既にキレていたのだけれど、テーブルの上に置いてあるカードを見つけ、それを手に取った。完全にアウトのパターンだ、これ。水戸が目を閉じた頃には時既に遅し。見つけたカードをじっと見つめた後でそれを投げ捨てた。深々と溜息を吐くと、三井は水戸の胸倉を掴んでがくがくと揺らした。何か喋ってる、そう思った。ただ、とにかくうるさかった。
身長も馬鹿でかい可愛げのない男、それでも水戸は、三井が良かった。何がどういいのか説明しろと言われても括りがないから何も言えないし、誰かに好意を寄せられて例えばそれがとてつもなく可愛らしい女性でも、言いようもない愛しさも逆に暴力的な憎悪さえ感じるのも、良くも悪くも水戸にどんな感情も否応なく与えるのも三井だった。ただ好きだった。再会して過ごす時間が増える中で、擦れ違いも増えて何度も喧嘩をしたし、心底嫌気が差したこともあった。この人の我儘や自分勝手な行動が理解出来なくて、暴言も吐いた。それでも彼との日々を放り投げようと思ったことはなかったし、その愛情が減ることもなかった。
未だに三井はうるさかった。オレは本命チョコは全部断った、だの、義理でさえ他のやつに配った、だの、終いには、オレは忙しいのに家具選んだり引っ越しの準備してんのにてめえはのうのうと本命チョコしかも手作りのそれフォンダンショコラだろくそ!と後半水戸には理解出来ないそれ何語だよ、と突っ込みも交えたい言葉も加えてぎゃんぎゃん騒がしい上に、ついでに言うと家具はてめえが買うって勝手に言ったんだろ、と言い返したい所を堪えた。が、最後にまた、三井は水戸にとっての地雷を踏む。
「てめえやっぱり、女がいいんだろ」
その言葉を聞いた直後、水戸は三井を睨み付けた。ずっと三井のよく分からない暴言を聞いて、いつか治るだろうと思っていた矢先だった。女がいいなら最初っからてめえなんて選ばねえんだよ、水戸がそう言ったかどうかは分からない。ただ三井はたじろいだ。距離を取ろうと、胸倉を掴んでいた手を離した。水戸はそこで、手を伸ばした。三井が逃げないように右手を伸ばし、掌で彼の両頬を鷲掴みにする。
「ごちゃごちゃうるせえ口だな。俺があんたを選んだんだ、あんた以外居ねえんだよ。他の女なんて知るか。いい加減黙んねえと殺すぞ。それともその口に無理矢理突っ込んで犯してやろうか、あ?」
水戸はただ、三井と鍋を囲んだら楽しいだろうと思ったのだ。同居を決意したあの日、三井が鍋を用意して待っていた。元々そんな気もなかったし、しようなんて考えてもいなかった。玄関を開けた時、鍋の出汁が室内に広がっていて暖かくて灯りが灯っていて、これが生活なのだと、ただ思った。
好きだった。それしかなかった。喧嘩をしても何をしても、三井が三井であれば、水戸は何でも良かった。だから今この瞬間、一瞬でもいいから同じ時間を共に過ごせたらと考えたのだ。寒い日に鍋を囲む、それが欲しかった。
「ふっ、はは!」
「何笑ってんだよ」
ついさっきまで目を見開いていた三井が、次は細めて笑っている。けれど、頬を掴まれているからか口元が曖昧だった。手を離すと、彼の頬は少しだけ赤かった。水戸の掌には未だに、三井の頬の感触が残っている。
「お前、口にチョコ付いてる」
「え、かっこわり」
「はは!可愛いとこあんのな」
「馬鹿にしてんだろ」
三井は水戸の顔に口を寄せ、その唇を舐めた。苦い、と言う彼に水戸は、美味かったよ、と返した。デリカシーゼロだな!と声を荒げるのも聞かず、今度は水戸から口付けた。一度口付けて離れ、もう一度口付けた。舌を差し込んで、また三井の頬に触れる。しばらくの間そうしてから離れ、水戸は三井の体を抱き締めた。
「三井さん、ほっぺた柔らかいね」
「え、何それ知らねえ」
「柔らかい、気持ちいい」
ふっと笑う声を聞いて、水戸は抱き締める力を強くする。
例えばもしも何年後かに、どちらかが別れを告げる日が来るとする。それが水戸の方だったとする。きっとその時も水戸は、今日彼に告げた気持ちは変わっていないのだと思う。だから頬の柔らかさも唇の厚さも覚えているし、俺があんたを選んだんだ、そう言ったことも覚えている。あんた以外居ねえんだよ、と言ったことも。三井の体を抱き締めながら水戸は、言い訳は苦手な分野だ、そう思った。
だから多分、例え言葉数少なく告げたとしても、さよならの言い訳にすらならない。





終わり



[戻る]
[TOPへ]

[しおり]






カスタマイズ