短編

□百雷に隠す
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その日はずっと雨が降っていた。練習している体育館でも屋根に降りかかる雨音が酷く耳障りで、無駄に声を上げた。チームの連中はきっと、三井コーチは気が立ってる、そんなことを考えていたに違いない。実際荒んでいたのだろう。何処かが所在なくて、何をしても気が晴れなかった。どうしてもあの、忘れられた指輪が気掛かりだった。
午後七時には解散し、三井も足早に帰宅した。水戸の帰宅は普通らしい。もっとも、何時が普通で何時が普通でないのか、三井には分からなかった。早いのが普通なのか、それとも遅いのが普通なのか、午後七時なのか八時なのか九時なのか、三井には分からなかった。ただ置き去りにされた指輪が気掛かりで、あれが主人の帰宅を待ち望んでいるのではないかと、それを考える度に焦燥した。最寄駅に着いて、さほど遠い距離でもないのに早足になる。十月初めの夜は肌寒くて、しかも雨まで降っていて、職場を出た後は身震いするほどだった。事実電車を降りた後も同様だった。それでも、早く帰らないと、と思えば思うほど足は動き、自然と寒さが気にならなくなる。肩が濡れる。スニーカーが濡れる。傘を差していても変わらなかった。短く息が上がり、三井はそれでも先を急いだ。エレベーターが上がる時間さえ惜しくて、たった一瞬でも早くあの部屋に戻りたかった。玄関の前で鍵を取り出し、慌てていたのか一度落とす。かしゃん、とコンクリートと重なる音が鬱陶しくて、すぐに拾った。鍵を差し込み捻る。開けて見おろすと、水戸がいつも履いているコンバースの黒のスニーカーが揃えて置いてあった。三井が随分前に渡した、もう履き潰したのかくたくたになっている黒のコンバース。自分も早くスニーカーを脱げばいい、それなのに、廊下の向こう側に映るリビングの灯りを数秒見た。水戸が居る、それを確認したかった。
スニーカーを脱ぐと、靴下が微妙に濡れていた。多少不快だったけれど、それは放って小走りする。リビングに続くドアを開け、三井は上がる呼吸を整えた。
「おかえり。どうした?」
三井は呼吸を整えた。雨の音は消えない。ばたばたと、大粒の水が引っ切り無しに落ちる音が聞こえる。
「濡れてんな。傘持ってなかったの?」
三井はかぶりを振った。そうじゃない違う。走ったからだ。雨など気にもせず、スニーカーが濡れることさえ厭わず、三井が走ったからだ。
「普通って何時だよ」
「は?」
「だから、お前の普通は七時なのか八時なのか九時なのかどれだ」
「だからこんくらいじゃねえ?」
「お前は!」
何が言いたいのか、三井にも分からなかった。ただ、ローテーブルに目をやると、置き去りにされた指輪が見える。それがどうしても気になった。続く言葉を話すことなく、三井はそこに近寄る。放り投げられた指輪は、三井が朝そこに置いたままになっていた。今度は、拾い上げることもしないで、ただ見下ろす。三井はあれから、水戸に「指輪着けろ」と念押ししなくなった。何も言わなくなった。あの飲み会の翌日、水戸は黙ってこれを指に通した。表情を変えず、何も言わず、三井が何かを言うことなく、するりと中指に通した。あの目を伏せた横顔を見てから、三井は何も言わなくなった。物で繋いでも体で繋いでも、そこに感情が残っているとしても、人は誰も誰のものにはならない。未だに袋小路に居る。それを叩き付けられた気がしたからだ。
後ろから足音がする。水戸だった。水戸が近付いていた。振り返ると、普段通りに水戸は、三井を見上げていた。
「どうした?」
どうした、と聞かれても三井にも聞きたいことは分からなかった。元々、愛だの恋だのそういう分野は苦手な類で、ただ水戸に関しては違った。欲しくて渇望して、それがなくなると無性に喉が渇いて仕方なくて食べ物の味が無くなるような、彼の存在全てが欲の塊に近しい存在だった。あれが欲しい、そうして求め続けて今もまだ渇いている。あ、と声を出した。手を伸ばそうとしてみたけれど、指先だけで済んでしまった。また耳に、雨の音が通り過ぎる。もう一度指先を動かした。けれども、腕を動かすことは出来なかった。
なあ、なあ水戸、呼びたいのに声が出ない。三井さん、いつものように呼んで欲しいのに、それが今は酷く遠い。だから口元だけで呼んだ。口を開いて閉じて、もう一度同じことを繰り返した。それでも声は出なくて、唇を開いた。水戸、出ない声は呼吸に混じる。数秒それを繰り返すと水戸は急に、顔を顰める。眉を顰め、目を閉じた。頭を掻いて、その腕を下ろした。
「あー……、くっそ、やりてえ」
「え、何言ってんのお前」
「もういい?さっさとやらせろよ」
「い……、やだ」
水戸は舌打ちをした。それでも水戸の手が伸びる。何でそこで舌打ち、さすがに苛ついて、三井はその手を掴んだ。
「何なんだよ急に」
「あんたこそ何。言いたいことあんなら言え。俺は言われなきゃ分かんねえ」
言いたいことなど、三井には分からなかった。だから水戸の手を掴んだまま、目を逸らした。
「わ、からない」
「分かんねえ?」
「分かんねえよ。何が正解で何が間違ってんのか」
むしろこの関係が一番間違ってるだろ、そう思った。それでも言えなかった。今あるこれを、愛情だとずっと騙し続けてもいいからそこに一番近くにあるものだと笑っていたかったからだ。
「あんたが分かんねえって言うなら話になんねえな」
「え?」
「もういいだろ」
そう言うと、水戸は三井の手を振り払い、髪を掴んだ。無理矢理引き寄せ、名前を呼ぼうとした唇を奪った。なぞるように何度も口付け、自然と開いた口の中に舌を差し込まれる。この舌は駄目だと思った。三井の思考を止めるからだ。止める代わりに、余計な考えを巡らせる。口の中を平気で掻き回す舌と、体をなぞり始めた指先に、また話す言葉を失う。薄眼を開けて、置き去りにされた指輪を見た。まだそこにあった。ごめん、何故だかそう思った。何に対してか、どの対象に謝罪したかったのか、三井には分からなかった。
そのままずるずると下がっていく体の後ろにはソファの肘掛があった。水戸と並んで座るソファだった。
「三井さん」
「ん?」
名前を呼ばれ、三井はそこで我に帰る。この呼び方が好きだ、そう思った。
「あんた、何が欲しいんだよ」
「え?」
股がられた三井は、水戸を見上げた。質問している間も、水戸は動きを止めない。首筋をゆっくりと舌でなぞられ、上擦った声が上がる。そのまま耳を軽く噛まれ、答えられないと思った。だからこの舌も唇も歯も、全部全部が駄目にする。
「俺がやれるものなら何でもやる。腕でも足でも内蔵でも、あんたが欲しいんだったら何だってやるよ。でもそうじゃねえだろ、あんたが欲しいのはそれじゃない」
じゃあ何だ、水戸は最後、そう言った。じゃあ何?三井も同じように、自問自答する。三井はずっと、大声で叫びたかった。雨音に紛らせ、そこに隠すように叫びたかった。何でお前はそんなに寂しそうなの寂しさなんてオレには分かんねえよ、そう言いたかった。水戸の寂寥の根源をこの先ずっと理解出来ない三井は、孤独を武器にすることなんて出来ない。三井は水戸とは違い、一般家庭で家族の一員として何不自由なく育った。それなりに手を掛けられ、趣味でも何でもなく愛するバスケットと共に生きている。唯一不自由だと感じるのは水戸だった。だってこいつは簡単に擦り抜けて溢れていくし幸せだと笑っていても奥の方はまるで透けない。どんな人生を歩んで来たかも詳細な話は聞いていないしこの先聞けるか聞くかも分からない。だからこそ三井には、寂しそうな部分が好きだなんて言えなかった。だってその部分が好きだなんて言ったら自分が埋めていなくて埋まってないのと一緒だろ?
欲しいものは何だ。共有出来ないものは何だ。孤独を得るには自分一人ではとても無理だ。だから「誰か」が必要で、水戸にとっての「誰か」は、自分であればいいと三井は思った。名前を呼ぶ声が無くなると思うと、あの置き去りにされた指輪を思うと、それが無くなるくらいなら。
水戸は三井を見た。訝しむように見た後、水戸は目を伏せる。その目の動きを俯瞰するようにして眺めながら、三井は水戸の頬に触れた。相変わらずつるりとしていて、少しだけかさついている。小さなほくろが顎の下にあって、何かが詰まった。
「何、どうした?」
「いや、お前って何気に凄えこと言うよな。殺し文句?」
「あんたは相変わらず、思った通りの顔するよね。そんで、嘘が下手だ」
「そうかな」
「そうだよ」
お前ほどじゃない。これは言わなかった。言えなかった。水戸の唇に塞がれたからだ。
お前の言う「苦手」の意味分かる?知らねえだろ。だからずっと騙しててよ。そんなことを考えながら、三井は水戸の唇の薄さと柔らかさを感じた。思った通りの顔をしているなら、三井の考えることなどお見通しだ。見通してみろ、そう思った。初めてこれを言われたのは確か、高校生の頃だった。どんな顔?と当時は思っただろうけれど、今なら分かる気がする。水戸はきっと、三井の狡さやその計算を、もう見越しているのだろう。でも彼は、無意識に言った「苦手」の意味を知らない。何故か今、初めて抱かれたあの日を無性に思い出した。その痛みと快感に絶望さえ感じた日を。意味がないことを知った日だった。
セックスなんて意味があるようでまるでない、三井はこの時、初めて抱かれたあの日を思い出した。





終わり


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