短編

□百雷に隠す
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目が覚めると、窓の向こう側からぱたぱたと小さな拍手のような音が聞こえる。連続的に変わりなく聞こえているので、窓の方向に目をやった。だけれど外は見えなかった。カーテンが掛かっているからだ。
掌を動かして隣を探ってみた。温もりはなくて、随分と前に居なくなってしまったのだと知った。もっともそれは、目が覚めた瞬間に分かっていたのだけれど。当たり前だ。今日は平日で、水戸は仕事だからだ。逆に三井の方は、今日は午後からの出勤だった。シーズンに入ってしまうと休みがなくなるから、休める時は午前休を取るようにしている。今日が正にその日だった。未だに鳴り続ける拍手に似た音は止まなかった。だから妙に怠惰になる。賞賛や勝利に対する拍手ならいいのに、三井は覚醒し切っていない体を擦るように立ち上がらせ、一つ欠伸をした。体を起こした後三井は、必ず柔軟をする。腕を伸ばして唸り、一つ大きな息を吐く。カーテンに近寄り、それをゆっくりと引いた。空はグレー一色で、朝なのに薄暗い。どんよりと埃が被ったような色彩が広がっている。雨だ。ばらばらと降り続け、ずっと音が止まないそれは、三井を酷く鬱屈とさせた。午後から練習、そんなことを考えて気分を転換させようとゆっくり瞬きしてみたけれど、やはり変わらなかった。
雨は嫌いだ。駅まで徒歩で傘を差していてもそれなりに濡れるだろうし、お気に入りのスニーカーも濡れる。思わず舌打ちしたくなるのを寸での所で堪え、寝室を出た。リビングも勿論誰も居なくて、顔を洗う為に洗面所の方に足を向けた。裸足でひたひたと歩きながらキッチンを見ると、ベーコンエッグが作って置いてあった。普段ならこれが目に入れば少しだけでも気分は上昇するだろう。それなのにまだ、三井はどこか怠惰な気持ちが抜け落ちない。
顔を洗い、パンを焼いた。作ってあったベーコンエッグが乗せてある皿に、焼いたパンを被せるように適当に置く。コーヒーを持って、ダイニングテーブルに置いた。リビングの大きな窓に掛かるカーテンは既に開いていて、今朝水戸が開けたのだと思った。寝室から見えた空と同じグレーが広がっていて、水戸もこれを見たのかな、などと考えた。コーヒーを飲むと、その苦味が広がった。いつの頃からか、牛乳をひたひたになるまで入れなくなった。高校時代、コーヒーの苦さがどうしても馴染まなくて、けれどコーヒーは飲みたくて、水戸が昔住んでいた市営アパートで飲んだインスタントコーヒーには牛乳をぎりぎりまで注いだ。あの頃確か、水戸はきちんと三井用に牛乳を用意していた。今、苦味のあるコーヒーを美味いと感じながら、終わらない放課後のような日々はとっくに終わり、過ぎ去った後なのだと知る。
パンを齧ると、塩気が効いていて美味かった。鎌倉で買った食パンだった。焼くと外側がかりかりしていて齧ると音がする。枚数が減っていたから、水戸も同じものを食べたのだと思う。同じベーコンエッグと同じパン、同じコーヒーを飲んで、彼はこの部屋を出ている。水戸と会話をしない朝食は酷く味気なかった。例え、ああ、と、うん、しか言われなくても、何故だか今、物凄く味がない。美味いと舌は感じている筈なのに、窓の外に映る空の色のようにぼんやりしている。埃が舞っているように霞んでいて、靄が晴れない。
食事を終えると、ローテーブルに光っている小さな置物が見えた。ぽつりと残っているそれをずっと素通りしていたのか三井は、ようやく気付いた。近寄ってそれを手に取ると、小さな円を描いた飾りっ気のまるでないシルバーの指輪が、あまりにひんやりとして無機質で驚く。温度がないのは当たり前なのに、何故だか酷く冷たく感じる。三井が虫除けと言って渡したそれを、水戸がただ単に着け忘れていたのか、それとも敢えて着けなかったのか、三井には分からなかった。指で軽く引っ掻いてからなぞっても、水戸の体温はそこには無い。透かして見ても当然無い。滑らかではないその指輪は、軽く凹凸のあるものだった。もう一度なぞるけれど、変化は勿論無い。置き忘れられた指輪は声も上げずに待っているのか。触れていられなくなり、三井はそれをテーブルの上に置いた。
永瀬モーターでの飲み会に参加した日の翌日、水戸はつい数時間前のことなどなかったかのように三井に接した。飲み過ぎた上に行為に及んだからか、三井は身体中が怠かった。起き上がるのも億劫で、でもその日はゲームは無くとも午前中から練習があった。だから仕方なく起きた。するとやはり水戸の姿は無くて、リビングに居た。別段変わりないその姿に、三井はどきりとしたことを覚えている。彼はいつもと同じように朝食を作っていて、三井が寝室から出ると顔を上げた。寝起き、という表情ではなくて、変わらない水戸だった。おはよう、と言われたので、三井も同じように返した。
「メシ、食うだろ?」
「……うん」
変わらない、と感じたのは一瞬だけで、何か見えない膜がある。触ろうにもふやけていて、掴んだとしても伸びて破れないような、柔らかいのにとても強度の高い透明の膜。それが水戸と三井の間に出来ていた気がする。かといって、何をどう言って解決していいものか分からなかった。その時、水戸が笑った。目元を緩め、少しだけ首を傾げる。
「三井さん?顔洗ってきな」
「ああ、うん」
三井さん、その言葉に三井は、喉が詰まった。水戸は三井を「あんた」もしくは「三井さん」と呼ぶ。この時急に、「三井さん」が無くなったらどうしよう、と思ったのだった。
この日の朝、三井は饒舌だった。今日はゲームは無くて、と言うと水戸は、知ってる、と目を伏せて笑っていた。知ってんの?と聞くと、それくらい分かる、と表情を変えることなく言った。それくらいって?と勝手に出ていた言葉に、水戸はようやく顔を上げた。
「サンダースがいつゲームがあるか、それくらいは俺でも分かる」
この言葉を聞いた時初めて、三井はきっと初めて後悔したのだ。水戸を捨てようと一時でも考えた自分を悔いた。三井さん、と呼ぶ声が無くなったらどうしよう、オレが捨てようとしたから水戸が消えたらどうしよう、三井はこの時、そう思った。
テーブルに置いてある指輪をもう一度確認するように上から眺め、つい何日か前の出来事を思い出した。じっと見つめていても当たり前に動きもしないそれは、立ち尽くすように息を潜めている。三井はまた、窓の外に目をやった。
グレーの空は消えない。何の賞賛もない拍手のような雨音は、ずっと消えなかった。




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