短編

□盲目の白鷺
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個室の内側も外側も、酷く騒ついていた。週末の土曜日、彼等とよく利用する居酒屋は今日も混んでいる。店員達の声もさることながら様々な会話が、フィルターを纏って雑音のように飛び交っていた。こういう時、個室は便利だと水戸は思う。ただでさえ、彼等の話は内容がくだらない。適当に相槌を打ってぼんやりしていると、知らぬ間に別の話題に移っているから侮れない。今日も水戸は、米焼酎のロックを飲みながら、頬杖を付いている。そして彼等の話に相槌を打ったり、笑ったりしている。桜木は今日、東北地方に遠征らしい。三井はホームで試合があると今朝聞いた。三井との同居生活が始まってから、もう二週間が過ぎている。
「さとみちゃん可愛くねえ?」
「……って誰よ」
「ほれ、期待の新人」
「え、知らねえ。忠お前凄えね、チェックしてんの?」
「いや、職場の社長がよー、可愛いから見てみろって。DVD焼いてくれたんだよ」
「お前何しに仕事行ってんだよ!」
「そりゃお前、愛するバイクの為に決まってんだろ」
「嘘くせえー!」
そこで然程面白い訳でもなかろうに、水戸含めた全員が笑った。すると野間は、件の「さとみちゃん」について熱く語り始めた。「さとみちゃん」は、少女のような甘ったるい声なのに、見せる表情が酷く妖艶なのだそうだ。霞草のようにふんわりした花ではなく、派手で大きな胡蝶蘭のような女優らしい。それがもうまじで最高!あんな子に上に乗られたら云々、声が云々、虐めてやりたくなる云々、それをひたすら語っている。大楠は身を乗り出して聞いていて、高宮は焼き鳥を頬張りながら頷いている。水戸はというと、頬杖を付きながら、それはそれは、と煙草に火を点けた。
「オレにもそのDVD回せや」
「雄二はぜってえタイプだね、俺は確信してる」
「あ、洋平お前どうする?」
「俺?」
と、そこで全員の言葉が止まった。三人が顔を見合わせているのだ。俺はなあ借りてもいいけど後がめんどくせえんだよなあ、そんなことを考えながら、煙草に口を付ける。
先程までひたすら馬鹿笑いしていた彼等が、今は静かだった。ばつが悪そうで手持ち無沙汰に各々がアルコールに口を付け出す。
「俺はいいや」
水戸は吸い切った煙草を、灰皿に押し付けた。その時左隣で、強目にグラスを置く音がした。大楠だった。
「いや洋平!オレはAVくらい見てもいいと思う!」
「は?」
何やら大きな声を出し始めた大楠の方向に、水戸は顔を向けた。そこまでAV押しされるのなら見た方がいいの?と純粋な疑問を感じるほどだ。
「え、そう?」
「そうだよ。前も回し見してたじゃん。見りゃいいんだよ、だってお前さとみちゃんよ?見てえだろ、な?」
「ぶはは!雄二お前さとみちゃん見たことねえんだろ?」
「んなこたどうでもいいんだよ!」
「そうだな。ミッチーと一緒に見て、盛り上がるのも悪くねえよな」
「お前ほんとデリカシーゼロだな!盛り上がるって何がだよ!」
「何ってお前ー……」
「やっぱり言うな言うな黙ってろてめえ!てめえはさとみちゃんの良さでも語ってろ!」
「てめえから聞いたんだろうがよ!」
その遣り取りが可笑しくて、水戸は思わず笑ってしまう。彼等三人は水戸を見た。いやいやお前の話よ?何他人事みたいに笑ってんの、とでも言いたそうにしている。水戸は目を伏せて、グラスに口を付けた。
「やっぱやめとく」
「何を?」
「借りるの。後がめんどくせえし」
「あっ……そー」
そこで高宮が、店員を呼ぶ為にチャイムを鳴らした。大楠がそれを見た。何頼むの?彼が聞くと、高宮は、焼き鳥おかわり、と言うのだった。変わんねえなブタは!と野間が言うと、大して面白くもないのに皆が笑っていた。失礼します、と若くて愛想のない、まだ学生のような女性が、注文を聞きにやって来た。焼き鳥、枝豆、揚げ出し豆腐、ビール、日本酒、焼酎ロック、以上でお願いします。水戸が言うと、彼女はまた、少々お待ちください、と愛想悪く言って会釈した。
「もういいや、彼女の話しよ」
「お前よー、惚気たいだけっしょ」
「そうだよ?それの何が悪いんだよ。さとみちゃんの話よかよっぽど健全じゃねえ?」
「どっちでもいいわー。焼き鳥まだかね」
「さっき頼んだばっかだろうがブタ!」
すると大楠は、一つ咳払いをする。そして、急に真顔になる。あのさあ、と神妙に話し出したので、珍しく皆が沈黙した。
「オレの彼女、声がでけえんだよ」
「……は?」
「くっだらねえ」
「はは!まあ聞いてやれよ、マジなんだろこいつ」
「さすが洋平。元祖師匠」
「いやもうほんとやめようぜ、雄二の妄想もしくは幻想か幻聴だから」
「違えんだって!こんなの初めてって言われたんだって!」
そこで全員、また止まる。は?と。すると大楠は語るのだった。私今までお淑やかだねって言われてて夢中になってたのかなって、彼女はそう言ったんだそうだ。それを恍惚とした表情で喋る大楠に、水戸含めた全員が笑う。
「雄二、良かったなお前。すんばらしい彼女に出会えて」
「貴重な存在だな、大事にしろよ?」
大楠を抜かした全員で、声がでかい彼女で良かった、これからお前を師匠って呼ぶよ、いやむしろ最初から大楠が師匠だったんじゃねえの?そんなことを喋っては笑い、彼の怒りが頂点に達しかけた頃、個室のドアが開いた。そこで全員の声が止む。失礼しまーす、また愛想の無い口調が小さく聞こえた。店員の彼女は、注文された料理を順に置き、アルコール類を配って行く。ビールでーす、焼酎のロックでーす、日本酒でーす、全てを配り終え、立ち上がる間際。一際低く、女性の溜息が聞こえる。
「演技に決まってんでしょ」
淡々と言った直後彼女は立ち上がり、失礼しましたー、と、また愛想無く去った。一番最初に吹き出したのは水戸だった。
「はは、だってよ」
「え、そーなの?」
「さあ、知らねえけど。聞いてみたら?演技なの?って。はは!あのねーちゃんおもしれ」
「聞けるかよ!」
「だよなあ、はは!もう最高」
「師匠!ちょっとそこんとこ詳しく!演技なの?まじで?!」
「いやだから、師匠はお前だろ?」
「ふざけんなよ!」
結局その後、店を出るまで演技なのかそうじゃないのか、その議論を繰り返したのだった。水戸はその日、酷く飲んだ。よく喋ったし、よく笑った。その時何故か、学生時代が脳裏を過った。
その店を出た後、別れ際に野間が声を出した。そういやお前逆方向か、そう言った。水戸はようやく自分が、引っ越してしまったのだと目の当たりにした気がしたのだ。以前ならきっと、二次会だの理由を付けて水戸のアパートに泊まっていただろうし、もしかしたら明け方まで飲み明かしていたかもしれない。でも今は違う。帰り道も違うし、帰る場所も違う。学生時代や安アパートに住んでいた時間などとっくに終わっていて、全員が働いていて堂々と居酒屋で飲める年齢になった。じゃあまた、そう言って水戸だけが逆方向に歩いた。電車には乗らず、酔いを醒ますように歩いていた。三月も終わりに差し掛かり、あと数日で四月になる。春が来て、数ヶ月経てばまた夏が来るのだ。こういう時に水戸はいつも思う。時間だけは平等だ、と。
しばらく歩いて、引っ越したばかりのマンションに着いた。珍しく足元が少しだけ覚束ない。酔ったかな、そうは思ったけれど、頭は妙に冴えていた。あの人まだ起きてんのかな、何気にそんなことを考えた自分に、水戸はまた帰る場所が変わってしまったことを実感してしまう。エレベーターに乗り、二階の角部屋に辿り着き、鍵穴に鍵を差し込む。がちゃりと自然と開くドアに、一瞬手が止まった。そうだよなあ、と思ったのだった。玄関を開けると、廊下もリビングも灯りが点いていた。単に消していないだけか、でもそれとは違う気がした。他人が起きている気配がする。こういう時、変に嗅覚が働く自分が嫌になる。リビングに近付くに連れ、人の気配が濃くなった。起きてる、ただそう思った。
「おかえり」
その言葉は、水戸を躊躇わせる。未だにそれは消えなかった。おかえりと言えばただいまだろ、彼はさして問題もないように、その単純な言葉を言ってのけるのだ。水戸が口を開いても上手く空気さえ吐き出せない言葉を。
「おかえりっつってんじゃん。聞こえてんの?それとも酔ってる?」
水戸はその時、ソファに座る怪訝そうな三井の表情を見て、川に浮かぶ白鷺を思い出した。まだ中学生の頃、川辺りを五人で歩いていた時のことだった。真っ白で美しい羽を持った鳥が、川にぽつりと立っていたのを不意に思い出した。桜木がそこで、綺麗だな白鳥、と言ったのだ。水戸は確か、違うよ白鷺、そう彼に返した気がする。綺麗だなー、続ける桜木を見上げ、水戸は笑った。白鳥でもシラサギでも羽根があるし飛べるだろ?どこでも行ける。すっげえ!桜木はそう言うと、歩きながら川の方に手を伸ばした。数年後、彼が高く跳ぶことも、水戸はその時知らなかった。親友達もそうだ。そんなこと誰も知らなかった。だから呑気に、ラジコンで飛行機飛ばすか!などと言いながら、気楽に歩いた。それを今急に、思い出した。
「おーい、酔ってんだろ水戸ー」
水戸は彼が座っているソファに近付き、隣に座る。そのまま手を伸ばし、三井を抱き締めた。
「ただいま。遅くなってごめん」
何故謝ったのか、水戸にも分からなかった。ただその時三井に、手を伸ばしたくなったことは確かだ。それしか今の水戸には、アルコールが頭に充満している自分には、分からなかった。
「どうした、何で謝る」
「いや、何となく」
水戸は三井から手を離し、体を少しだけずらして座り直した。それから一つ息を吐き、目を伏せて少しだけ笑う。
「楽しかった?」
「そうだね、あいつらバカだから」
「なあ」
「ん?」
「お前らって普段、どんな話すんの?」
何度か瞬きした水戸は、どんな話、と考えた。そして、どんな話って言われてもなあ、と首を捻った。
「どんな話ってくだんねえ話だよ」
「くだんねえってどんな?」
「あー、だからー、さとみちゃんとか。あんた知ってる?さとみちゃん」
「はあ?!はあ?!はああ?!」
「え、何」
「てめえこら、さとみちゃんって誰だてめえ、浮気したんだろこら。それを何が知ってるだの何だのてめえいい度胸してんなぶっ飛ばすぞこら」
三井さんてめえとこら何度言うの、水戸はそう思ったけれど彼は結構な迫力で迫って来ていたので言わなかった。面倒だったからだ。ここで水戸が反論すればろくなことにならない。
「いや、じゃなくて。忠が今ハマってるAV女優のさとみちゃん。検索してみ?多分出てくっから」
「おいこら」
「口悪いなあ、さっきから」
「てめえ見たんじゃねえだろうな?」
「普通の居酒屋でどうやって見んだよ。無理だろ」
「ああ、そっか」
「はは。あんたもほんと、面白い人だよな」
「水戸ー」
三井は水戸を呼ぶと、今度は彼の方が水戸に手を伸ばした。ぎゅうっと力を込めた後、緩める。緩慢な動きをした後、三井は体を離して水戸に口付けた。ちゅ、と小さな音がして、水戸はまた、あの白鷺を思い出す。何度も繰り返されるキスに水戸は、堪え切れずに三井が着ているカットソーの中に掌を忍ばせた。ぴくりと動く体に、息を漏らすように笑った。
「お前は」
「ん?」
「お前はオレ以外見るな」
ぎょっとして思わず、水戸は手を止める。掌には未だに、三井の乾いた肌の感触が張り付いていて、水戸が今感じていることと直接的な触覚に相違があって少しだけ戸惑った。
「熱烈だよね、ほんと」
「見るな。分かったな?」
水戸は三井の頭を撫でた。それから頬を撫でた。両手で両頬を撫で、今度は水戸の方から三井に口付けた。止めていた手の動きを再開して、その乾いた肌の感触を触覚だけでなくキスをやめて鼻を三井の首元に近付け、嗅覚でも堪能する。そうして、伝わる息遣いを耳で聞いてから唇でも撫でて吸った。自然と上がる三井の声を聞いて、思わず笑った。演技に決まってんでしょ、それを思い出したからだ。
「演技?じゃねえか」
「は?何の話?」
「あんた声でけえからさ、演技かなって」
「ふざけんなよてめえ」
「はは、ごめんね」
水戸が揶揄するように言うと、三井は水戸の首を噛んだ。肩を噛んだ。いてえよ、そう言うと三井は、鼻で笑う。彼の顔を見て、体を撫で、水戸はまた白鷺を思い出すのだ。白くて美しい、けれども白鳥ではない白鷺を。
「その目がオレのものになんねえかな」
「またほんと、熱烈だね」
「茶化すなよ」
「俺はあんたしか見てねえよ。言わなかったっけ?」
三井は少し俯いて、言ったかも、と酷く小さく呟いた。それを聞いて、水戸も目を伏せて薄く笑う。欲しいと言われたら俺は、目だろうが腕だろうが足だろうが内臓だろうが、欲しいのなら何でもやれる。普通の幸せが欲しい、そう言われたなら躊躇なく手離せる。でもあんたは俺の目を抉ることは望んじゃいないだろ?今はまだ普通の幸せをくださいなんて言わないだろ?身軽で何もない自分は、彼に、三井に、何が出来るのだろう。水戸は彼と生活し始めて、殊更にそう思うようになった。何でもあげる。何もない俺がやれるものなら何でも。でも多分、羽根だけはあげられない。
「ごめんね」
「何がだよ」
「さとみちゃん、DVD貸してやるって言われた時にちょっと迷っちゃった」
「ふざっけんなよてめえ!」
「はは!冗談だよ」
まだ遠くに飛んで行かれたら困る。水戸はもう一度三井を強く抱き締めながら、そう思った。





終わり



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