短編

□寂しい唇
1ページ/1ページ


三井は脳が覚醒した時、鼻をひくひくと動かした。この匂いは知ってる、そう思った。それはとても安堵するもので三井を安らかにさせる香りなのだけれど、そう何度も嗅いだことがある訳ではなかった。稀にあるだけだ。それでも三井の嗅覚は、この匂いをよく覚えていた。何だっけ記憶と嗅覚が繋がってる、だっけ?ああもうよく分かんねえや。三井は頭の中だけで考えていて、口は開かない。まだ覚醒し切っていない脳味噌は、瞼すら開けさせてくれない。それでも通り過ぎて行く匂いに我慢出来なくなり、薄っすらと目を開ける。最初に目に入ったのは、水戸の部屋で使われているテーブルだ。その上には灰皿と煙草の箱、ライター。乗っかっている物を確認して、段々と三井は覚醒に近付いて来る。
そういえばそうだった。昨夜は職場の飲み会だったのだ。今週末つまり今日はサンダースは試合も休みで勿論遠征もない。だから急遽、チームの選手が発案し、そこからあれよあれよという間に様々な関係者に広がり、スタート時には結構な人数が居た。そこで三井は、飲んだのだ。今期のサンダースは調子いいね、ありがとうございます、まあ一杯、いただきます、を散々繰り返した。もっとも、飲んだ理由はそれだけではないのだけれど。その挙句、これだ。覚醒した三井は、酷い頭痛を患っていた。二日酔いじゃねえかよ、そう思った。
職場の飲み会が終了した後、三井が水戸に電話したことは覚えている。対応した水戸は、誰が聞いても明らかに面倒そうだったことも覚えている。三井はその日、水戸のアパートに泊まる予定はなかったことも然り。きちんと自宅に帰宅しようと思っていたのだ。けれども飲み会の場所が水戸のアパートに近いこともあり、否違う理由もあったのだけれど、という言い訳を振りかざして水戸に電話を掛けたのだ。水戸―?飲み会でさー泊めてー泊めろー、とこちらは酷く上機嫌に喋っていて、相手には勿論「は?うぜ……」と言われたような気がするようなしないような、とにかくその辺りが曖昧なのだけれど、予想するに言われたに違いない。そして、今こうして水戸のベッドに横たわっているということは、無事に泊まれたということだ。何度か瞬きして、それからもう一度匂いを確認した。今度は深呼吸するように、深く息を吸った。三井は確信する。味噌汁だ、そう思った。
ゆるゆると体を動かし、三井は緩慢な動きでそろりとベッドから起き上がる。ベッドの上で胡座を掻くと、頭痛を顕著に感じた。頭痛え、息をゆっくり吐いて額を押さえた。酷く不健全な痛みに被さるように、どこからともなく、味噌汁の健全な香りが漂っている。もっともそれは、当然台所からなのだけれど。洋室に水戸の姿はなく、彼は今台所に居るのだと思う。ベッドに胡座を掻いたまま、窓を見た。そこからは光が射している。酷くいい天気で、三井はこの二日酔いを嫌味に感じた。燦々と照る日差しは、きっと秋晴れの証拠だ。今日は土曜日で、水戸も仕事が休みなのだろう。だからこうしてのんびりと、味噌汁を作っているに違いない。三井は益々、この頭痛が恨めしく感じた。こんなに天気良くてしかも水戸もオレも休みなんて滅多にねえじゃん、俯いて深々と溜息を吐いた所で、この頭痛も引き摺るような気分の悪さも変わらないのに。
「起きた?」
その声に三井は、顔を上げた。台所から洋室に、水戸が顔を出している。そのまま黙ったままでいると、水戸はふっと息を吐くように、いかにも揶揄しているように笑った。
「ひっでえ顔。洗ってきな」
「……やだ。めんどくせえ」
そういえば、と思った。いつもめんどくせえと言うのは水戸の方だと。
「まあ好きにしなよ」
「喉乾いた」
「冷蔵庫にミネラルウォーターあるよ」
「取って」
「甘えんな。自業自得だろ?」
三井はもう一度溜息を吐き、はいはい、とぼやくように小さく言ってから、ベッドから足を下ろした。動き出すとそれなりに、脳が活動的になる気がする。勿論、気がするだけで体が重いのは変わらない。三井は冷蔵庫を開け、ミネラルウォーターを取り出した。次はグラスを取ろうとすると、三井がいつも使っているものを、水戸から手渡される。その時不意に、味噌汁の香りが漂った。手渡されるいつものグラス、味噌汁の匂い、三井は脳が覚醒したあの瞬間、なぜ自分が安堵したのか、それがどこに続くのか、はっきりと理解出来た気がした。けれど今はまだ、二日酔いだからと分からない振りをしていようと決める。
「味噌汁、飲める?」
「うん、飲める」
手渡されたグラスにミネラルウォーターを注ぎ、三井は一気に飲み干した。もう一度注いで、また同じように飲み干した。そして、顔洗う、とぼそり呟くと水戸は、はいはい、と言った。水戸に背を向けた三井は、背後から食器の擦れる音を聞く。味噌汁を注ぐのだろうと思った。
三井が顔を洗って歯を磨き、幾らかすっきりして台所へ戻ると、水戸は居なかった。それでも味噌汁の香りは充満している気がして、また三井は鼻をふんふんと鳴らした。洋室に向かうと、水戸はテーブルに肘を付き、三井に背を向けて座っている。緩く舞う煙を見付け、煙草吸ってる、と淡々と思う。あの背中が何か、二日酔いで頭がぼんやりしているからか、特別に捉えどころがない気がして仕方なかった。何でだろう、三井にはそれが分からなかった。ただ、三井がいつも座る場所の前に、味噌汁が置いてあった。箸もあった。それだけは視覚的にも分かった。すると急に、胃袋も動き出した。三井もテーブルの前に座り、もう一度鼻で匂いを嗅いだ。これを認めたらもう、負けを認めるのと同じだ。
「どうした?」
「いや、いただきます」
「どうぞ」
ずず、と音を立てて汁を啜ると、自然と息が漏れた。はあー、と深く吐きながら言うと、水戸は笑った。
「あんた、どんだけ飲んだんだよ」
「忘れた」
「もうちょっと許容量とか考えな」
「だってさあ、まあ三井くん一杯、だの、まあまあもう一杯って延々と勧めてくんだって。オレだって断れんなら断りてーよ」
「あー、まあそりゃしょうがねえか」
「だろ?ほんと何かもう、あー……」
三井は天井を仰いだ。よく見掛ける平凡な蛍光灯、白い光、目がちかちかして瞬きする。三井は昨夜のことを思い出した。飲んだ理由はそれだけではなかったのだ。飲み会の途中、だらだらとした時間が続いたので座敷で行われていた会は席順など途中ばらばらになった。三井は上司と飲んでいた筈だったのだけれど、その上司が別の人間と飲み始めた頃、狙ったように女性社員がやって来た。三井さん、と声を掛けて来た彼女は綺麗で、普通に三井は「おっ」と思ったのだ。面食いな自分を目の当たりにしながら、彼女の話を聞いた。本当に聞く程度しかしなくて、なんて退屈なのだと感じた。転がる声が鬱陶しくて、頭の中で水戸の声を想像した。そんな自分にぎょっとして、無駄にアルコールを呷った。そして帰宅前、泊まるつもりなどないのに水戸に電話を掛け、結局押し掛けてベッドを占領して寝たのだった。
という経緯を経て、今この状態なのである。
「お母さんには連絡してんの?」
「は?ガキじゃねえんだからよ、してねえよ」
「そう」
水戸はそう言うと、目を伏せて笑った。彼はそうして、煙草に口を付けた。特に何も言うことなく、吐き出す息に、白い煙が混じるのを三井は見ていた。
「まあ、あんたがそれでいいならゆっくりしてたらいいよ」
「うん」
三井はまた味噌汁を啜った。豆腐と大根とわかめという定番と言えば定番のそれが、妙に染みた。三井はそう何度も、水戸の味噌汁を飲んだ訳ではなかった。高校生の頃に数回、再会してからも数回、何しろ再会してから頻繁に会っているということはないから、ほんの数回数える程度だ。それなのに脳は、きちんと覚えている。
「起きた時……」
「ん?」
水戸は灰皿に煙草を押し付け、三井を見た。三井は不意に、思うのだ。こいつの声以外にオレは反応しない、と。
「いや、味噌汁の匂いがした」
「作ってたからじゃねえ?」
「何で作ったの」
「さあ、何となく」
「あっそー……」
三井は箸で、柔らかく煮てある大根を食べた。豆腐とワカメを食べた。美味い、と小さく言うと、水戸は一言、どうも、と返した。
三井は水戸の作った味噌汁を何度も繰り返し食べた訳ではなかった。ついさっきも考えていた通り、数回だ。両手で足りる程度かもしれない。高校生の頃に数回、大学の頃はあったかどうかもよく思い出せない。料理を教えてもらったことはあれど、水戸が味噌汁を作ったかどうかは覚えていなかった。再会してからも、水戸のアパートに泊まった時、たまたま朝食に味噌汁があれば、という程度だった。それでも三井の脳は、嗅覚がその匂いを感じ取った直後、一つの感情を抱かせた。分からない振りをしていたのだけれど、一口二口、柔らかく煮てある大根、豆腐とワカメ、全てを咀嚼して喉を通った直後に分からない振りすら難しいことなのだと気付いた。
女子社員と話した三井は、彼女を綺麗だと感じながらも水戸を思い出した。ぎょっとしたのは、味噌汁を飲んだ後の気持ちに通ずる。
「洋平」
「……あ?な、何?」
不意に名前を呼びたくなり、三井はそれを呼んだ。すると彼は、酷く驚いたようで、もう一本吸おうとしていたのか煙草を指で挟んでいたのだけれど、それをぽろりと落とす。紙の軽い音が、テーブルの木と擦れた。
「あれ?お前照れてんじゃねーの?」
「じゃなくて、何?」
「ようへー、よーへー」
「だから何だよ鬱陶しいな」
「やっぱ照れてんじゃん」
「アホか。慣れてねえだけだっつーの」
だから何、水戸はそう言った。三井はただ、呼びたくなった、とだけ言った。あっそ、水戸は抑揚なく言って、落ちた煙草を指で拾い上げて口に咥える。ライターの音が聞こえた直後、また白い煙がゆるりと舞った。こいつは自分の名前が洋平だっていう自覚がない気がする、三井は何となくそう思った。何故今急に、そんなことを考えるかは分からなかった。頭は未だにぼんやりとしていて、仄かに痛い。じわりとした痛みと、身体中に怠さが襲っている。支離滅裂で前後が分からないことをひたすら考え、洋平、と何となく呼んだ。だってこいつ、自覚ねえし。言い訳染みたことを考えながら、味噌汁を飲み干した。
「ごちそうさまでした」
「お粗末様」
「なあ、寝ていい?」
「どうぞご自由に」
「お前も寝ていいよ」
「は?」
「甘えさせてやるから」
「はは、何それ」
目を細めて笑った水戸は煙草に口を付けた。三井はそれを眺めた後、怠惰な体に任せて、そのままベッドに凭れる。白い煙を眺めていると、その内それが消える。水戸が灰皿に、煙草を押し付けたのが分かる。目を閉じてしばらくそのままでいると、肩に重みが掛かった。目を開けるとそこに、水戸の頭がある。
「俺も寝る」
「うん」
「名前で呼ばれんの、慣れねえんだよ。ほんとに」
「あいつらは普通に呼んでんじゃん」
「それはまあー……、昔っからだろ」
「ずるー!」
幾つだよ、水戸はそう言って笑った。それから一つ息を吐いて、三井の方を見ることなく口を開いた。どこを見ているのか、三井は未だにぼんやりとしていて、よく分からない。
「だってあんた、ダチじゃねえだろ」
「……それならまあ、許してやるか」
柔く笑う水戸を見ながら、彼なら幾らでも嘘を吐けるのに、と思うのだ。この唇なら簡単に、騙すという観念などなくその言葉を貫き通せるのに、と。三井が水戸と再会して、まだ好きなんだ、三井はそう言った。彼はそれに、意味がない、と言ったのだ。それを貫き通すことも出来ただろうに彼は、三井と居ることを選んだ。何でどうして?何でそれを選んだの?聞いた所でこの唇ははぐらかすだけだから、もういっそ味噌汁の匂いを反芻することに決めた。
綺麗な女性でも転がるような声でもない。三井は水戸の声が良かった。その匂いが良かった。だからぎょっとしたのだ。
脳が覚えているのはこれが、例え負けを認めたとしても、オレにとっての幸せの象徴ってこと。





終わり



[戻る]
[TOPへ]

[しおり]






カスタマイズ