短編

□秘密基地に背を向けて
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互いに忙しくて会えないと焦燥する。三井は遠征用のキャリーバッグを引いて、駅から水戸が住むアパートまでを歩いていた。歩道のコンクリートと小さな車輪が擦れては、がらがらと絡んだような音がする。耳障りなそれは、三井の焦燥を一層増長させた。
今は十月だった。三井が水戸と再会して、三ヶ月弱経っていた。この頃から三井の仕事は、本格的に始動する。九月後半からシーズンが開幕し、大概週の半ばから遠征に行くのだ。これが常になる。水戸とはここ二週間、いやそれ以上会っていなかった。時々電話を掛けて数分話したことはあったけれど、それ以上はない。まず第一、水戸の方からなかなか連絡を寄越さないのだ。彼は自分の時間に余裕が無ければメールはおろか電話など当然無い。それは昔から、三井もよく知っていた。だからこうして、もう埒があかないと、キャリーバッグをがらがら引いて歩いているのだった。連絡はしなかった。だってオレ合鍵持ってるし、三井はそう思った。だから別に勝手に行けばいいのだと、自分を納得させた。
水戸のアパートに着くと、彼の愛車は停まっていた。そこでも三井は焦燥する。というよりも苛立ちが大きかった。腕時計を見て時間を確認すると、午後八時半を回った所だった。たまにはお前から連絡しろ!三井は心の中で叫び、それからアパートの鉄階段を上る。無駄に足音が大きくなる。玄関の前でキャリーバッグから手を離し、キーケースを取り出した。この部屋の鍵を一度確認してから、鍵穴にそれを差し込む。簡単に開くドアに三井は、もっと早くこうすれば良かったと思った。
水戸ー、三井は玄関を開けてすぐに呼んだ。返答はなかった。玄関を閉めて鍵を閉めると、水戸の声の代わりに浴室から水音がする。シャワーを浴びていることはすぐに分かった。三井はスニーカーを脱ぎ、狭い台所を抜けて洋室にキャリーバッグを置いた。そしてまた台所に戻り、冷蔵庫の前で屈む。開けると唸るような音が聞こえ、三井は訳もなく冷蔵庫の中を覗き込んだ。この音がどこから鳴るのか、そんな的外れなことを考えた挙句、結論的には缶ビールを取り出して冷蔵庫を閉めた。早く風呂上がれ!と念を込めながらプルタブを開けると、浴室のドアが開く音がする。浴室に続くドアは開けっ放しだった。ビールを持ったまま立ち上がり、そこを覗き込むと風呂上がりで全裸の水戸と目が合った。
「うわっ!あんた何やってんの?!」
「ビール飲んでる」
「……はあ」
「とりあえず襲ってもいいですかね?」
「いや、ちょっと勘弁してください」
「何でだよ!」
「まだずぶ濡れだし、俺もビール飲みてえし」
ずぶ濡れを襲うのがいいんじゃん、三井が言うと水戸は溜息を吐いた。そして、アホか、と酷く呆れたように返答したのだった。どうせアホですよ、三井は舌打ちをして、缶ビールに口を付ける。浴室の開きっ放しのドアに凭れながら三井は、水戸がタオルで体を拭く様子を眺めていた。久々だよなあ、と考えながら上から下まで見下ろし、またビールに口を付ける。
「なあ」
「んー?何」
水戸は上半身だけ裸で、髪の毛をタオルで拭いている最中だった。だから何処と無く、返答が所在ない。聞いているのかいないのか、よく分からない。でも水戸は、そこに居た。相変わらずくたびれたスウェットを履いていて、変わらずその体に無駄はない。ここに居るんだ、三井は時々その現実を朧気に感じることがあった。今この瞬間が幻ではないのか、と。眺めながら、やっぱり有無を言わさず襲えば良かった、と思った。覚束ないからこそ余計に。
「いつ振りだっけ?」
「さあ。二、三週間くらいじゃない?覚えてねえよ」
「お前は寂しいとか会いたいとか、そういうのねえの?」
三井が言うと、水戸はタオルを頭に乗せたまま、三井を見た。それからまた呆れたように笑う。馬鹿にしてんのか、三井はそう思った。
「あるよ」
「え?」
「会いたかったよ」
眩暈がした。そして、こういうストレートな表現に弱いのだと今更知った。三井は固まったように体が動かず、はいはいどいて、と水戸から体を軽く押され、それでようやく足が動いた。目線だけで水戸を追うと、彼もまた屈み、冷蔵庫を開ける。缶ビールを取り出してプルタブを開け、それを座ったまま飲んでいた。ヤンキー座りが未だに、水戸にはよく似合う気がした。三井は今も尚上半身裸の水戸の肩に、自分も後ろに回って顎を乗せる。何だよ鬱陶しい、水戸はそう言った。けれど、その声にはとても鬱陶しさなど感じなかった。
「なあー」
「今度は何」
「会いたかったなら連絡しろよー」
「俺も忙しくてさ、こんな時間に帰ったの久々なんだって」
「ふーん」
「それに二、三週間なんて大したことねえだろ?」
え?三井はそう言って、水戸の肩に乗せていた顎を外す。水戸は立ち上がると、ビールを持って洋室へ足を進めた。後ろから追い掛けた三井は、水戸の背中を見る。そこで不意に、あ、と思ったのだった。
「五年」
「え?」
「五年も会わなかったんだから、二、三週間なんて大した時間じゃねえよ。違う?」
水戸は背中を向けたまま、さらりと声を出した。いつもと同じように、淡々と抑揚のないその声と口調で、その逆に三井の憂いに寄せるような言葉を聞くと、時々視界がぼやける。視界というより脳が痺れるようにぼんやりと、思考回路が麻痺する。ああそうだった、とどこか遠くに馳せるのだ。そして、大した時間じゃなかった、と同意したくないのに流される。
水戸はビールをテーブルに置き、収納を開けてカラーボックスから何かを探している。きっとTシャツだと思う。勿体ない、そう思った。三井はその背中を眺めながら、あれが今隠れてしまうのは酷く勿体ない気がした。だからまた近寄り、三井は後ろから水戸を抱き締めた。彼が驚いたのかどうかは知らない。ただ振り向いた。三井は水戸の顔が好きだった。すっきりとした目元や少し薄い唇が好きで、それを見ていたかったから目を閉じてしまうのが惜しかった。
「やっぱり今襲うことにした」
「まだ髪乾かしてないんだけど」
「オレと今からすることと、お前が髪乾かすことなんて、比べる対象にすらならねえだろ?」
「はは、そうだね」
目を閉じることも勿体なかったけれど、キスをされるから目を閉じた。何故なら目を閉じると、感覚が研ぎ澄まされて過敏になるからだ。それでも勿体無くて目を開けると、すぐ側に水戸の顔が見えた。目線を下げると、またそこでも、あ、と思った。背中、脇腹の辺り、腹筋にも、同じようなケロイド状の小さな傷痕が残っている。三井はそれを、今頃知った。何度も体を合わせているのに、些細なそれは今まで目に映らなかった。この痕が目に入るようになったのは、五年という歳月があればこそなのかもしれない、三井は何気なくそう思った。離れていたから、会わなかったから、会えなかったから、だからこんなにもこうして焦がれる。進んで行く行為と、三井の体をなぞる指先に、三井は慣れている筈なのに早々と射精してしまう。それを満足そうに上から眺めている水戸を見て、また視界がぼやけそうになる。勿体ない、同じことばかり考えている。
挿入されて動かされていると、また登り詰めそうになる。三井の手は、彼を抱き締めるではなく水戸の脇腹辺りを触れた。そこから順に傷痕を撫でた。今度こそ驚いたのか、水戸は一瞬体を引く。擽ったかったのかもしれない。こういう瞬間が子供のようで、三井は自分が追い詰められている筈なのに、笑ってしまうのだった。
「何だよ急に」
「小さい傷痕、あるんだな。知らなかった」
そこでも水戸は、何故か子供のようにばつの悪そうな表情を見せる。抱き締めたい、何故だかそう思った。
「いつ付いたの?」
「さあ、中学の頃じゃない?覚えてねえよ」
「喧嘩っ早い中学生だったんだろ?」
「そうだったかもね」
水戸は昔話を嫌う。自分からは話さない。三井も未だに、踏め込めないでいる。飲み込む。その先を聞いていいものかどうか、躊躇う。それを聞けるようになった時にも、水戸の側に居るのが自分であればいいと思った。彼の秘密基地に入るのは自分だけであればいいと、三井は思う。
「あんたも残ってる。過去の栄光」
揶揄するように笑いながら水戸は言って、三井の顎の傷痕を舐めた。くそ、と彼を見上げると同時に抉るように突かれ、自然と上擦った声が出る。それを塞ぐように、何度も何度も水戸は口付けた。触れて噛んだかと思えば、舌を差し込んで歯をなぞる。
「そういえば、差し歯だったっけ?」
「うるっせえよ!」
「はは、あんまり歯並びいいからさ」
笑うと少しだけ幼く見える水戸を見上げて悪態を吐きながら三井は、もう少し大人になったら、と思った。今はまだ秘密基地に乗り込む勇気はないから。
だからまだ、もう少しだけ背を向けて。





終わり



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