短編

□愛されたい明日
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それから約二時間後、二人はマンションに帰宅した。あー飲んだ、三井は首をぐるりと回して言う。水戸は言葉を発することなく、まずは指輪を外して、ダイニングテーブルに置いた。慣れねえなあ、自然と出ていた舌打ちに、自分自身ぎょっとする。抑えるように、水戸は煙草を一本取り出して咥えた。
「なあ」
「何」
「やろうぜ」
「あ?」
無意識に低くなった声に、水戸は胸中で唖然とする。けれどもそれは、ほんの些細な感情でしかなかった。咥えていた煙草を唇から外し、水戸は三井を睨んだ。
「そういう気分じゃねえよ。飲んでるし、あんた明日も仕事だろ?」
「何?絆されちゃった?お前マザコンだもんな」
一瞬、この人は何を言っているのかと水戸は目を開いた。
「あんた何が言いたいんだよ」
「何って言葉のまんまだろ」
笑って、けれども目の奥は笑っていない。三井が水戸に、遥を送ってやれと言った後、近付いて水戸に告げたのはこれだった。「お前、絆されんなよ?」その時も三井は、不敵に笑っていた。あの時の感情が沸々と蘇る。
「あんた、性格悪いよなあ」
「知ってるよ。でもお前、そういうオレが好きなんだろ?狡くて、計算高くて」
欲しいものは何をしても手に入れる。最後三井は目を伏せてそう言った。
「そうだよ」
「ほらみろ。オレもお前好きだもん。誰にも渡したくねえの」
じゃあ何で捨てようとしたの?水戸は一瞬だけそう思った。言えない代わりに三井を見据えた。笑っているようで笑っていない。目の奥に、宿る何かが見える。
「大した女じゃなかったな。寂しさを武器にしてるただの女じゃん」
「怒ってんの?」
「当たり前だろ、腹わた煮え繰り返ってるよ」
水戸は息を吐いた。指に挟んでいた煙草を、箱に戻す。
「話すまでは別に、摘み食い程度ならいいやって思ってた。でもさあ、あいつ傷の舐め合いみたいなこと言うんだよ。ふざけんなよ、バッカじゃねえの?」
三井の声が段々と荒ぐ。語気が強くなる。水戸の背筋が騒ついた。何に対して?何で。そう思った。分からなかった。自分自身の感情には酷く疎い。また右手が疼いた。それを治めようと、また右手を握る。開く。治らない。背筋が騒つく。三井の目に、激情が見えた。それは、ついさっきまでは奥にあった何かだった。急激に前面に押し出されていく。怒りだ。
「お前はもっと、ぎりぎりの淵で喧嘩するような行為に興奮すんだよ。舐め合いなんて生っちょろい方に行くわけねえだろ、なあ?」
「そうだね」
そう言った直後、水戸は煙草の箱を床に叩き付けた。三井の体が一瞬揺れる。びくりと動いたその体に近付くと、彼は床を擦るように後退った。
「寝ろ」
「え?」
「やりてえんならやってやるよ。でも殴りたくねえから寝ろ」
三井は何も言わなかった。ただ、水戸が近付くごとに後ろに下がる。けれどもその目には、未だに波が見える。飲まれる、そう感じて唾を飲み込んだ。ぎりぎりの淵で喧嘩するような行為に興奮すんだよ、三井の言葉が過った。そうだよ、今すっげえ興奮してる。右手の疼きはそのせいだ。こいつをめちゃくちゃに犯してもう二度と捨てるなんて言わせないようにしてやると、愚かで汚らしいことを考えていた。そもそも、捨てる捨てないなんて本人の意思次第だ。現実を生きる三井に、その浅ましさは通用しない。
後退る三井は、壁にぶち当たった。もう下がれない。水戸は三井の髪を掴み、顔を寄せて口付けた。舌を差し込んで弱い箇所を擽った。三井は水戸の手首を掴み、髪の毛から離そうとする。彼はか弱くない。それでも水戸にとっては、非力に思えた。力の使い方が違う、そう思った。その時、唇がちくりと痛んだ。噛まれた、気付いた時には三井は水戸の体を強く押し、息を荒げている。
「ぶっ殺してやる!」
「やってみろよ」
水戸はまた、三井を壁に押し付けた。両手首を掴み、それを叩き付けた。いってえな!三井はそう言った。知らねえよ黙ってろ、睨み付けて言うと、三井は水戸の首を噛んだ。やっぱりあんたが犬だろ、水戸はそう思った。それでも水戸は、これ以上三井に乱暴な行為をすることは躊躇われた。手首を離すと、次は平手が飛んで来る。躱すことはなく、それを正面から受けた。左頬が一瞬痺れたけれど、すぐに無くなる。もう一度口付け、優しく口内を犯した。ずるずると落ちる三井の体に被さり、首筋を舐めて噛んだ。ぶっ殺す、彼はまた同じように言った。水戸はもう、何も答えなかった。俺だってあんたを殺してやりたい、本当はそう思っていた。今すぐ首を絞めて、その体を抱いて、突っ込んで犯して、そうしてとどめを刺してやりたい。そうしたらもう、あんたは捨てるなんて言わない。二度と言わない。三井はもう、分かっている筈だ。この人はただ勝負してるだけだ、水戸はそう思った。浮気の証拠を見付けて、勝てる試合に挑んでるだけだ、と。しかも彼は、絶対に勝てると信じている。狡い、水戸は三井の体を抱きながら、そう思った。
「俺いつか、あんたのこと殺しちゃうんじゃねえかな」
「ん?」
事後に三井は、体が痛えからベッドに連れてけ、と言った。そこに連れて行き、水戸も横になった。なかなか眠れなくて、枕の上に肘と顎を乗せてしばらくそうしていた。彼が目を閉じたのを確認してから呟いた言葉に、三井は反応したのだ。驚いてそちらを見ると、彼は薄目を開けていた。
「オレ、お前のそういうとこ、好き」
「は?頭おかしいんじゃねえの?」
「だってそんなんオレだけだろ?だから、好き。ついでに言うと頭おかしいのなんてお互い様だからな」
「くっだらねえ」
吐き出すように言った言葉に、三井は笑った。
「つーか俺ってマザコンなの?すっげえ嫌なんだけど」
「知らなかった方がびっくりだよ」
「あの母親、苦手なんだって」
「……へえ」
「何だよ」
「別に。明日も指輪着けろよ」
「めんどくせ」
溜息を吐いてから三井を見ると、彼は目を閉じていた。寝た?と、しばらくそれを眺めていると、微かに規則的な寝息が聞こえる。それを確認してから、水戸は三井に手を伸ばした。頬を撫で、そして髪を梳いた。穏やかで安堵した様子の寝顔を見ながら、水戸は思う。普通に愛して愛されたいだけなのに、と。この人を前にすると、水戸はいつも感情を揺さぶられる。三井を好きだという唯一無二の感情が、酷く醜くて卑しくて、薄汚れた欲そのものに変わる。ただ正当に愛して、相手に愛されて、それだけなのに。俺はそれが欲しい。
それだけなのに、その明日はきっと果てしなく遠い。





終わり


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