短編

□水深3ミリの海
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遥は求人から、「永瀬モーター」の名前を見付けた。小さな自動車整備工場が経理の仕事を募集しているとのことで、すぐに電話を掛けた。自動車、遥は接点を見付けた。間に合ってお願い、いつになく遥は焦っていた。油の匂い、車、経理、自分にはここしかなかった。ないのだ、絶対に。何度かコール音が鳴ると、男性の声がする。『はい、永瀬モーターです』低過ぎず高過ぎない、けれども愛想があるかと問われたら決してない、遥にとっては言葉に詰まる声だった。
『もしもし?』
「あ、お忙しい所申し訳ありません。わたし井上と言いますが、求人で経理を募集していると……」
そう言うと次は相手の方が黙った。間に合わなかった?もう決まっちゃった?遥は唾を飲んだ。
『すみません。今社長が外出中で、あと三十分ほどで戻るんですけど良かったら今日、面接に来られませんか?社長には自分から伝えておきますので』
遥の返事は勿論イエスだった。場所は分かるかと聞かれたので、そこも大丈夫だと答えた。藤沢駅から徒歩で十分程度だ。すぐに着替え、出掛ける支度をした。
永瀬モーターは、個人経営の割には大きな工事だと遥は感じた。扱う物が大きいからかもしれないけれど、大きめの整備工場が、遥にそう感じさせた。隣にはこじんまりした事務所、その隣には五台の車がずらりと並んでいて、それは従業員の駐車場と思われた。敷地内に足を踏み入れると、整備油の匂いが鼻を掠めた。ああこの匂い、懐かしくも少しだけ違う匂いを、遥は思い切り吸い込んだ。その時、一人の男性が整備工場から歩いて来る。手袋を外し、被っていた帽子を外して頭を掻いていた。
「面接の?」
「あ、はい。井上遥です。今日はよろしくお願い致します」
「水戸です。こちらどうぞ」
遥が頭を下げると、水戸だと自己紹介をした男性も会釈をした。黒く汚れた手と、香る油の匂いに、遥は郷愁を覚えた。すぐに背中を向けた彼を追って歩くと、彼は振り返る。
「助かりました」
「え?」
「面接希望の電話」
「そうなんですか?」
駄目かと思ったのだ、一瞬。あの沈黙で、最初遥はそう思っていた。
「前の人が急に辞めちゃって、でもなかなか代わりの人が来なかったから俺が代わりにやってたんすよ。経理って慣れねえから困ってて、もう今日から働いて欲しいくらい。だからありがとうございます」
彼が電話口で一度黙ったのはそういうことだったのだ。良かった、遥は胸を撫で下ろした。事務所に入ってすぐ見えるドアが個室で社長が居る場所なのか、彼はそこの前で立ち止まった。そして、個室をノックする。
「社長、来られましたよ。面接の方」
どうぞー、と間延びした声を聞いた後、彼はドアを開けた。よく見掛けるであろう仕事用のデスクには座らず、社長と呼ばれた男性は、ローテーブルにお茶菓子を準備していた所だった。
「そろそろかなあって思ってたんだよ。七里ガ浜だろ?良かった、めっちゃ可愛い!」
「はいはい社長、それセクハラね。もうほんと、粗相しない。ね、粗相しないでくださいよ」
俺の仕事が増える、彼は最後そう言った。そして「じゃあごゆっくり」と遥に会釈して、横をするりと通り抜ける。鼻だけでその匂いを追うと、同時に煙草の匂いも香る。振り返ると彼はもう居なくて、一瞬だけ遥は目を閉じた。電話口の愛想があるとは言い難い声、耳が出るくらいに切られた髪の毛、目に掛かるか掛からないか、特に癖のない前髪、汚れた掌、整備油の匂い、煙草の匂い、あの人は父じゃない。恋に落ちるってこういう感じなんだ、遥は閉じていた目を開け、そう思った。
が、その数ヶ月後、その恋は見事に砕け散る。遥は水戸に、三度は断られていた。一度目は、好きな人が居ます。二度目は体ごとぶつけたのにもかかわらず、もう本当に終わりにして。三度目は諦められないと言ったものの、ごめん。謝罪で片付けられたのだ。謝るって何?と思ったのだ。狡い、と。謝るくらいなら、あんたが嫌いだとはっきり告げてくれたら良かったのだ。それをあの男は、あんたの方が幸せになれると分かっているけれど違う、そのように言ったのだった。馬鹿にしてる、遥は自宅のベランダに縋り、缶ビールに口を付けた。慰謝料代わりに貰ったこのマンションに住み始めて、もう一年以上になる。住み慣れて生活にも慣れて、それなのにあの男は、遥の手には負えなかった。終いに彼は、指輪を持っていたのだ。指に嵌めてはいなかった。けれどチェーンに着けて、大切に職場に持って来ていたのだ。知ったきっかけは永瀬モーターで昼休憩の時間に、同僚の藤田がアイスを食べたいと言ったことだった。九月に入ったにもかかわらず、その日は暑い日だった。だから水戸が、「そこのコンビニでみんなの分買って来て。俺アイスコーヒー」と言って作業着のポケットから財布を取り出したのだ。「おー水戸さん太っ腹!ゴチっす!」と言った直後、藤田は「何か落ちましたよ?」と床を見た。すると彼は、大きな声で「指輪!」と言ったのだ。遥はぎょっとした。頭を鈍器で殴られたような衝撃が走った。その後は騒ぎになり、彼女だとか会わせろだとか、周囲だけで盛り上がっていた。
「かっこいいですね。似合いそう」
遥は水戸を見据え、そう言った。
「……どうも」
彼は遥から目を逸らし、一言言うだけだった。ごめん、の後の水戸は徹底していた。極力目を合わせようとはしないし、必要最低限の会話しかしない。諦めろってことでしょ?分かってるよ、遥は缶ビールを呷った。夜だからベランダから見えるのは、黒い海だった。街灯でかろうじて海だと分かる程度で、潮の香りも感じなかった。視覚的な感覚なのか夜だからか、それは分からない。
後日、永瀬モーターの社員全員で飲み会があった。社長の永瀬が、「洋平に彼女が出来た!紹介しろ!飲み会だ飲み会」と騒ぎ立てたからだった。当の本人は、「そういうんじゃなくて」と「来ねえと思います」を繰り返していたのだけれど、結局彼の執拗な熱意に負けた。しかし当日水戸が連れて来たのは男だった。各メディアでは何度も見ていて、一度だけ会ったことのある、神奈川では有名な男性だった。もっとも会ったとはいえ、彼が永瀬モーターに訪れたほんの数十分の話なのだけれど。名前は三井寿だ。神奈川のプロバスケチーム、サンダースのヘッドコーチをしている。顔もスタイルもいい、メディアには重宝されそうな存在だと遥は思っていた。事実神奈川では有名で、名前も知られている。その彼は、水戸と同居中なのだそうだ。何やら湘北高校の先輩後輩で、引っ越す時期がたまたま重なったからルームシェアしようといいう話になったらしい。利害が一致したのだと。しかしこれは、水戸本人から聞いた訳ではなかった。藤田が昼休憩時に話していたことだった。
「例の人は来られないんで、まあ、代打です。代わりに行くって聞かねえからこの人」
「どうも、三井です」
飲み会が始まった頃、水戸が少し遅れて連れて来たのは三井だった。永瀬モーターで飲み会をする度に毎回使う居酒屋では、座敷を予約していた。皆既に飲み始めていて、そこに三井が現れた時は驚いた。水戸が連れて来るのは女性だとばかり思っていたからだ。それでも彼等も遥も、三井を歓迎した。永瀬など、「三井コーチ!どうぞどうぞ空いてる場所に!ほらぽち、ちょっと開けろ」と既にテンションが高い。彼は愛想よく笑っているけれど、連れて来た隣の水戸は酷く不機嫌な様子だった。というより、面倒そうにしていた。二人は各自、空いている離れた場所に座った。水戸は藤田の隣で、三井は遥の隣に座った。どうも、と会釈すると、彼はじっと遥を見た。何か?と言うと、いや何でも、と目を伏せて緩く笑う。遥はその時、何か違和感を感じた。何だろうこの感じ、遥は軽く首を傾げ、そう思った。少しすると店員がやって来て、遅れて来た二人の注文を取る。
「生二つください。あんた麒麟だろ?」
「うん、そう」
「一つは麒麟でお願いします」
言われた店員は会釈して、少々お待ちください、とお決まりの台詞を言って、座敷の襖を閉めた。
「へえ、やっぱり分かるんだな、酒の趣味とか」
永瀬が水戸に聞いた。感心した様子だった。
「まあ、それなりに。付き合い長いんで」
「お前三井コーチの話全然しねーからよー、普通に仲いいんじゃん」
「そりゃ悪くはねえっすよ、とりあえず一緒に暮らしてんだから」
「はは、そりゃそうか」
遥はそう言う水戸を見て、少しだけ驚いていた。驚く、というよりもあまりに彼が普通で、息を飲んだ。付き合い長いんで、一緒に暮らしてんだから、彼からそういう言葉が自然と出て来ることが、遥にとっては不自然だった。遥の中での水戸は、掴めない人でぼんやりしていて消えそうな、寂しい人なのだと、そんな風に思っていたからだ。今まで透けて来なかった生活の一部を垣間見れた気がして、それは少しだけ遥を動揺させる。その時、隣から視線を感じた。三井だった。また違和感、遥は思った。
「何ですか?あ、食べ物取りましょうか?」
「いえ、自分で」
辺りは騒ついていた。永瀬は安井や佐藤と話していたし、水戸は藤田や神田と話している。その中で、隣に居るからか三井の声だけが妙にクリアに聞こえた。彼は唐揚げを取った。それを口に入れ、ビールを飲んだ。
「あの、水戸さんにはいつもお世話になってるんです。仕事、出来るから」
「へえ」
遥は少なからず動揺していた。何故だろう。男性など話し慣れているし扱いの仕方も分かっている、それなのに。彼は違った。こんな風に意識を持って、意図的な違和感を向けられたのは初めてだった。
三井は頬杖を付き、胡座を掻いて遥を見据えている。そこにある違和感の名前を遥は、ようやく知った。
「ねえ」
「はい」
「あなたがあれに入れ込む理由は何ですか?」
「水戸さんから何か聞いたんですか?」
「いや何も。でもそれくらい分かります。付き合いも長いしね」
付き合いも長いしね、遥は口元を緩めた。この人も同じようにその言葉を使うんだ、と思ったからだ。世間での三井の評価は高い。誰が見ても格好良く、愛想も良く、対応もいい。にこにこと笑ってファンサービスをし、選手達には厳しくも愛情を持って指導する。それを遥は、地元のニュースやフリーペーパーで見た。遥に対しても、敬語過ぎず、かと言って砕け過ぎない口調で、どちらかと言えば好感が持てる人だ。口調だけを取れば。そう、口調だけ。この人は誰?ただの男じゃないの。
「ただ気になるじゃん。あなたみたいな綺麗なお姉さんが、あの男に入れ込む理由っていうの?同居してる先輩としてはね、奴の幸せを思ってるんですよ」
「優しいんですね」
「さあ、どうかな」
三井は目を細めて笑った。そしてまた、ビールを飲んだ。水戸が、あんた麒麟だろ?と注文したそれを。優しいなんてわたしが思っていないってこの人知ってる、三井の表情に、遥は疑問を抱いた。その真意を未だに測りかねている。先輩だから本当に心配してる?わたしがバツイチだから?いや違うのか、遥には分からなかった。
あの人に入れ込む理由。三度も振られているのに未だに思い続ける理由。声が好き、目が好き、敬語が無くなると放り投げるような口調が好き、わたしに優しくしない容赦しない所が好き、誰も見ていない何も聞いていない、そういう瞬間が好き。
「寂しそうな所、好きです。夜明けの海、みたいな所」
「はっ、そういう。なるほどね」
「え?」
「傷の舐め合い程度で捕まえられるほど甘くないですよ、あいつは。先輩からのアドバイスです」
まあ、頑張って。三井は最後そう言って、また唐揚げを食べ始めた。食べますか?と聞かれたので頷くと、レモン掛ける派ですか?オレは掛ける派、彼はそう言った。わたしもです、と遥が言うと、三井はにこりと笑った。営業スマイル、遥はそう思った。その後は雑談をしたり、三井は永瀬とも話していた。彼は楽しそうに笑っていて、よく喋る人だとも思った。そこに藤田が参加し、バスケの話もし出した。三井はその中に溶け込んで、最初にあった違和感も消えた。この飲み会の間中、三井が水戸と話したのは最初の注文の時だけだった。また妙な違和感が遥の側を通り抜ける。これの理由だけは、最後まで分からなかった。

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