短編

□水深3ミリの海
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井上遥が両親を失ったのは、大学一年の春だった。
東京の大学に通う為に神奈川を離れ、一人暮らしをしていた遥が訃報を聞いたのは、買ったばかりの携帯の留守番電話のメッセージからだった。その声は見知らぬ男性で、地方の警察官であることを名乗っていた。着信の時間はちょうど授業中で、だから出られなかったんだ、なんと的外れな。遥は覚束ない足元と血の気の引いた感覚に、そんなことしか考えられなかった。意味が分からない。そう思った。確かに両親は今日から、バスで旅行に出掛けると言っていた。先日母から聞いたばかりだった。が、そのバスが事故に遭うなど聞いてはいなかった。当たり前だった。けれども遥は、そんな理不尽なことを考えざるを得なかった。
その後のことは、常に淡々と進んだ。死亡確認作業から始まり、葬儀の手配、業者を交えながらの話し合いの中、まだ未成年で一人っ子だった遥は、父の古くからの友人を頼った。彼は司法書士だったからだ。彼は友人の死を悼む以前に愕然とした。急過ぎる死に、それを直視出来ない様子だった。ただ、遥があまりにも淡々としていたからか、彼は率先して事を進めてくれた。遥の父は、小さな工場を営んでいた。車の部品を作る工場だった。遥はその、油臭い匂いが嫌いだった。そして、いつも忙しく働く父と、それを常に献身的に支える母にも辟易していた。わたしはこんな男の人とは結婚しない、そう思っていた。働いて働いて、働いてばかりの父と遊んだ記憶も思い出もほぼなかった。言葉を交わしたのもいつだっただろうか。母を心配して遥は自宅に連絡をしたことはあれど、父と会話をしたことはあっただろうか。職人である父は、遥と言葉を交わすことは少なかった。大学に行く為に神奈川から離れる際、もしかしたら交わしたのかもしれない。それも今は思い出せない。
遥は大学を休み、自宅に戻っていた。遺品整理などやることが山ほどあったからだった。葬儀も終わり、後は保険金などの金銭的な問題が残った。司法書士である父の友人によると、父の亡き今、工場の経営は困難であることが分かった。遥自身もそう思っていた。遺品整理をしていた際、経理内容が記載された手書きのノートがあった。それは酷くずさんで、これではとても回らないと遥でさえ分かったからだ。詳しく聞くと、従業員も昔は大勢居た筈だったのに、今は五人しか居なかったそうだ。その五人も年老いていて、社長亡き今、今月末で退社するとのことだった。遥はその事実も、今になって知った。遥は両親の保険金で工場の残った支払い等を行い、従業員に給与と退職金を支払い、工場を売る手続きを始めた。諸々の手続きに追われながら、生活するには金が必要だと始めて知ったのだった。
大学に通うことは勿論、今までの学費、食事、寝る為の場所、その他全ては、金銭を元に成り立っている。即ち労働に対する対価が支払われていて、その上で自分の生活は出来上がっていたのだ。両親はそれをして遥をここまで育てて来た。それも目の当たりにした。どうしよう泣けない、泣けないなあ、遥はそう思った。築何十年にもなる自宅に戻り、食事をしていた食卓に突っ伏した。掛け時計はちくたくと大きな音を鳴らしていて、その規則的な秒針は酷く耳障りだった。この食卓で食事を摂る時、父はほぼ居なかった。遥が朝食を摂る時間帯には既に彼は隣の工場に居て、夕食を摂る時間帯にも働いていた。それでも週に一度程度は居ることもあった。その時の父は薄汚れていて、手は黒かった。油の匂いが充満して、「お父さん油臭い」と言うと、仏頂面を見せて「うるせえ、黙って飯を食え」と言った。その調子で喋るものだから、二人の会話は次第に減った。顔を合わせても遥は、父が声を掛けても答えなくなった。おはよう、おやすみ、ただいま、おかえり、それさえも言わなくなった。東京の大学に進学することを決めた時も、頭ごなしに「お前の目的は何だ。目的も目標もねえ奴に出す金はねえ」そう言った。目的ならあった。家を出ることだ。「目的は家を出ることよ!」遥がそれを伝えた時、父は口を噤んだ。怒鳴られることを想定していた。けれども彼は「勝手にしろ」と言うだけだった。母はそんな父と遥の間に立ち、その度に同じ言葉を繰り返した。「あれでお父さん、あんたのこと一生懸命考えてるのよ?一人娘だし、可愛いんだから。あんな言い方しないの」そう言った。そんなの嘘だ、言われる度に遥は思っていた。母は父の、何がいいんだろう。どこが好きなんだろう。あんな自分勝手で油臭い男の何が。それを思い出した。泣けない、泣けないよお父さん、不意に父の油の匂いが、遥を横切った気がした。
大学などこのまま通える筈もなく、遥は退学することを決めた。働かないと。そう思った。生活するには金が必要で、労働の対価は金だからだ。一度東京に戻ることを決めた時、電車から海が見えた。あ、と思った。一度乗った電車を発車する直前に降り、発車の音を背に遥は走った。防波堤から降りられる場所を探し、階段を見付けて浜に降りる。春独特の陽射しを浴び、一定の波の音を聞いた。酷く晴れた日で、海が青かった。サーフィンをする波乗り達が、点々と見える。どうして海は青いの?海が青いのは空の色を反射してるからだ、曇りの日は海がグレーに見えるんだぞ。遥の疑問に答えた父の言葉だった。思い出、ちゃんとあった。遥は青い海を眺めながら思った。小学生の頃、毎年両親と海に来た。かき氷や、焼きそば、海の家の食べ物をお腹いっぱいに食べて、青のり付いてるお父さん、と笑っていた。思い出、ちゃんとある。そうだった。一生懸命だった。油の匂いがするのは働いているからで、車の小さな部品を懸命に作っていたからだ。
「体に気を付けろよ」
父は遥が家を出る時、一言言った。それだけ言って、背中を向けてあの人はまた仕事に戻った。遥は父に何も言わなくて、結局いつ自分が父に言葉を向けたのかは思い出せない。ごめんなさいお父さん、ちゃんとお礼も言えなかった、謝ることも。遥はその場で蹲り、両親が居なくなってから初めて泣いた。



それからの遥は、ただ稼ぐ為だけに東京でホステスをした。男性や、時々来る女性の話を聞くことは意外にも自分の為になった。なかなか奥の深い仕事で、様々な思考の人達と会話をすることは賢くなる為の一歩だと思った。学力と財力は遥の中で同列で並べられていた。無ければ困るしあれば困らない。日中は経理のことを学び、夜は働いた。もう無くなってしまった実家と工場は、経理がずさんだったからだ。それで遥は、経理を学ぼうと決めた。いずれ夜の仕事も辞め、日中働けたらいいと思っていた。それでもなかなか辞められなかったのは、遥が指名率が高かったからだ。仕方なく続けていると、某会社の取締役である初老の男性から、縁談を持ち掛けられた。「相手は息子なんだけど、どうかな?息子は甘ったれでね、君みたいな賢い娘さんが貰ってくれたら嬉しいなあ。どうかな、七海ちゃん」七海というのは遥の源氏名だった。海が付く名前がいいです、と言うと、七海はどう?とママに言われたのだ。この店は上品な店だった。気品ある場所だった。訪れる男性客も皆、マナーがあった。触るなんて以ての外で、一度でもマナーを破った男性は出入り禁止なのだ。ママもとても上品な女性だった。いつも桶出絞りや京刺繍の上品で高価な和服を着て、髪をシニヨンに纏め、真っ赤な口紅を付けていた。洗い立てのハンカチからふわりと香る香水のような、清潔で、それでいて花の微かな匂いのする女性だった。女性としての嗜みは全て、彼女から教わった。「七海は賢くて綺麗だから、きっとたくさん指名されるわ」そう言ってくれたのだった。縁談のことを彼女に相談すると、「素敵じゃない」と言った。「七海はいつも、どこか寂しそうだからね。きっとお嫁に行くのもいいわ」ママはそう言ったのだけれど、遥からしたら、ママの方が寂しそうに見える。忘れられない恋でもしたのかな、そう思った。わたしもそんな恋がしたいな、その時遥は、紹介される男性がその相手だったらいいと思ったのだった。
結婚した後に住んだ場所は綺麗なマンションだった。家具も全て、高級品が揃っていた。考えられない生活だった。しかし現実は上手く行かず、結婚した男性は酷くだらしのない男だった。結婚したら経済的にも楽になれて、遥が日中働くことも可能かと、そんなことも夢見ていた。それは叶わず、日中は家事をこなし、夫の帰宅を待った。彼は遥が外へ出ることを嫌い、働くことを許さなかった。その割に夫は、遊び呆けた。金銭感覚も酷いもので、使う額に驚愕した。そしてたくさんの女性の影があった。彼は貢いだ。女性達に財産を使った。浮気は構わなかった。女遊びは別に構わない。ただ、金銭というものは湯水のように湧き出るものではなく、労働に対する対価だ。それを感覚的に使い、バレるように女遊びをする彼の不甲斐なさと不用意な甘さに辟易した。一応問い詰めると、束縛が嫌なのだそうだ。遥は縛り付けることなどしなかった。自由にさせていた。結婚、ということ自体が束縛なのだそうだ。頭が悪過ぎる、そう感じた時点で、愛情は無くなった。もっとも、最初から愛があったかと言われたら分からない。いや、無かったのだ、初めから。愛しているのなら、頭が悪かろうが何だろうが許せたのではないかと。遥はママのような、忘れられない恋がしたかった。母が父を思っていたように。
その後しばらくして、遥は離婚した。「すまなかった。息子が、本当に」義父は、自分の会社の役員室に遥を呼び出し、頭を深々と下げてそう言った。遥は酷く冷静だった。謝罪って何だろう、そう思ったのだ。ここで遥が許したとしてもきっと、元夫は変わらないのだ。そこに謝罪の意味はあるのか。無いに等しい。すまなかった、義父はまた声を出した。遥が何も言わないからか、彼は絞り出すように、頭を下げたまま、謝罪を続ける。この人はあの遊び呆けていた男とは違う。遥は言った。もう最後だから、と。「あなたの会社をあの馬鹿に譲ることだけはやめておいた方がいい、せっかく大きくしたのに損をするのは目に見えてる」彼は下げていた頭を上げ、淡々と言葉を発する遥を見て口を開け、大きく笑った。それを見据えていても遥は、口元を緩ませることはしなかった。「必要な物はないかい?構わず言ってくれて構わない。慰謝料の代わりだ」優しい人だと遥は思った。けれども、その無駄な優しさが仇になった。それはきっと、あの息子にとって優しさとは言わない。いや、見放しているだけか。遥はそこでようやく、口元を緩ませた。生きて行くには住む場所が必要だ。仕事が必要だ。知識と学力と、金が必要だった。実家はもう無かった。工場と一緒に、売ってしまったからだ。古びた家屋と工場は、二足三文にしかならなかった。遥には、家が無かった。
「家をください。わたしにはもう、帰る場所がありません。神奈川で海の見える、どこでもいいし何でもいいから海が見える場所に、家をください」
「高くついたね」
「わたしは今、家一軒と会社の損益の話をしてるんです」
「私は君の、そういう所に惚れたんだ」
「ありがとうございます。お世話になりました」
その後遥は、神奈川へ戻った。元義父は遥との約束を守り、鎌倉市七里ガ浜にあるワンルームマンションを遥の名義で一括で購入した。綺麗にリノベーションされたそこは、古びた箇所も上手く残した居心地のいい場所だった。仕切りのないだだっ広いワンルームは、陽当たりも風通しも良かった。少ない荷物を降ろし、まずはベランダに出る。すっと通る風からは、潮の香りがした。海が見えた。今日も波乗り達は転々と居るようだ。父と母と過ごした思い出の海だった。お父さんお母さんただいま、呟くように言って、しばらくの間ベランダの柵に肘を掛け、潮の香りを嗅いだ。目を閉じると、未だに昨日のことのように思い出す。学生時代は鬱陶しくて堪らなかった懐かしい日々を。小学生の頃、毎年楽しみにしていた海水浴。海の家、かき氷、焼きそば、青のり、お父さん、お母さん、遥はやっぱりここがいい。春になったばかりの頃、また神奈川へ戻った遥は、次に働く場所は油の匂いがする場所にしよう、そう思った。




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