短編

□薬指の存在理由
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九月の始め、初秋であるにもかかわらず、未だに暑さは残っていた。三井は今、サンダースの練習場所である某体育館に居る。午後二時からの練習で、今はひと段落ついた休憩中だった。この中は、酷く蒸していた。体育館だからだ。あち、三井はそう言ってクルーネックのTシャツの首元に触れた。選手達は各々水分補給をし、輪になって雑談をしている。三井は辺りを見渡した後、その中に入った。
彼等の会話は聞いていて面白い。バスケの話は勿論、高確率で猥談だからだ。三井はそれを、二十代前半なんてこんなもんだよなあ、と自分もさして変わらない年齢であるにも拘らず一歩引いた目線で思う。三井自身も、こういった話は嫌いではなかった。割と好きな方だった。というよりも、男なら少なからず興味はあるだろう。ただ、自分に話が振られると、いつも言葉を濁していた。くっだらねえ、と照れ隠しで吐き出すように言うと、八割方振った選手を全員で弄るのだけれど、稀に「ほんとは好きなんじゃないっすか?」と返って来る。嫌いな奴いんの?とは思うのだけれど、そこはヘッドコーチとしての威厳を通しておいている。威厳って何?と自分が好きな相手を想像して、自嘲したくなった。
水戸とはあれから、特に問題なく生活していた。三井は全てを吐き出してから、帰宅することも玄関を開けることにも恐怖を感じなくなった。切り取られた世界では無くなってしまった。水戸も別段変わりなく普段通りの生活を送っている。口調も態度も変わりなく、残業もするし休日出勤もする。これからまた、擦れ違いの生活が始まろうとしている。え、ちょっと待った。三井は思った。これでオレ遠征行ったりすんの?まずくねえ?さっと血の気が引く感覚を覚え、三井は輪の中から立ち上がり、短い距離を行ったり来たりする。腕を組みうろうろと、打開策はないかと練った。そうだよ摘み食い程度なら別にってまたされても厄介だしなっつーか摘み食いも無し無し無し!ぞっとして足が止まり、その辺りで選手の一人から声を掛けられる。何やってんすかコーチ、という軽く呆れたように言われた口調に、三井はヘッドコーチとしての威厳を思い出す。一つ咳払いをして、三井はもう一度選手達の輪に入った。胡座をかき、彼らの会話を聞いている。意外とここは、いい情報収集の場になるのだった。座った時に目に付いたのは、ポイントガードである山崎の首元だった。
「お前何それ」
「よくぞ聞いてくださいましたコーチ!誰も聞いてくんねえからさあ、今からオレ自分で言っちゃおうと思ってたんですよ」
「どうせ惚気だろうがよ」
こう言ったのは、絶妙な突っ込みを入れるキャプテンの野村だ。山崎の首には、チェーンが掛かっている。先には指輪がぶら下がっていて、これがペンダントトップではないことは明らかだった。どうせ惚気、野村の言葉が正論過ぎて笑えた。
「まあ聞けよ。彼女がさ、くれたんだよ。オレ達ってあれだろ?ファンに女の子多かったり、ファンサービスしたりするじゃん。心配だからって虫除けの代わり。プレイ中は着けられないからってチェーンまでくれたんだよ。愛されてるだろオレ」
「……おもっ!」
「重い言うな!愛だろうが愛!」
三井は彼等の普段通りの会話を聞きながら、それだ!と閃いた。愛だろうが重かろうがそんなことは三井にとってはどうでも良かった。虫除け、これだった。口を閉ざしている三井の横で、選手達は思い思いに話している。日本人特有の言い回しに未だに慣れていないアメリカ人のジョン(正式名称ではなく山崎が付けたあだ名である)は、こういう会話の時には必ず質問して来るのだ。彼はサンダースに入団した際、三井自身も面談に参加した。海外選手ならではのタトゥーに長身、強面の顔、そして短い髪。三井は最初圧倒された。思わず固唾を呑んだ。けれど彼は、想像していたアウトローな人物像とは掛け離れていてとても礼儀正しく、趣味は百均の毛糸でコースターを作ることだと少し照れた様子で、たどたどしく話してくれた時、三井は構わず大きな声で笑ってしまった。
「オモイ指輪なんてあるんデスカ?何キロデスカ?トレーニングするデスカ?」
彼は空気が読めない上に、やはり未だに日本語がたどたどしい。それを三井は毎回、酷く楽しそうに聞く。けれど今日は違う。虫除け、それが頭の中を往来している。
「あーもうデスカデスカうるせえ!指輪でトレーニング出来んのか?あ?これが何キロに見えんだ?オレは首のトレーニングでもすんのか?もう蕎麦屋連れて行かねえかんな!」
「ザキヤマさんゴメンナサイ!」
「山崎だよ!」
「あ、ヤマザキ、リング見せてクダサイ」
「おい、『さん』はどこ行った」
それでも山崎は、少しだけ嬉しそうに首元に掛かっている指輪を掴む。それを近付いたジョンに見せた。
「Oh!スバラシイ!キレイですネ!これが俗に言うイミテーションの輝きデスカ?」
「やかましいわ微妙な日本語使ってんじゃねえ!コーチこいつどうにかしてくださいよ!褒められてんのかバカにされてんのか分かんねえよ!」
「山崎」
「はい」
「それどこの?」
「はい?」





三井は今、電車の中だった。手には仕事用の鞄と、小さな紙バッグを持っている。三井は早速、例の虫除けを買って帰った。山崎が首からぶら下げていた物は、手頃なファッションリングのように見えた。プラチナではなくシルバーで、堅苦しくなくカジュアルなタイプの物に。気取ることなく着けられそうな代物で、そこが気に入ったのだ。だから聞いた。ダチがさあそういうの欲しいって言ってたんだよ、こういう嘘は三井の得意分野だ。フェイクと同じようなものだと思う。彼は言った。どこだったかな地元のセレクトショップだと思いますけど、ちょうどこういうのも売ってて。ということだった。三井は頭の中で、自分が時々行くセレクトショップを思い出した。そこに、一から十まで一人の職人が手作りしているというファッションリングを置いているのだ。以前行った時に確か、最近新作が入荷したからどうですか?と声を掛けられた。けれど三井は、自分は仕事柄指輪は無理だと断った。それでも眺めていると、かっこいいな、とは思ったものだった。
ということで、仕事帰りにその店に向かった。いらっしゃいませ、と見慣れた顔に会釈して、少しだけ会話をして、すぐに指輪が置いてある場所に向かった。様々な形が並べられている中で、三井は簡単に選んだ。これかっこいい、そう思ったからだった。艶がなく凹凸があり、多少傷が付いても大丈夫そうだった。ボリュームもあって、普段使いにも良さそうだ。三井はとりあえず、自分の中指に嵌めてみた。多少余る。確か水戸の指は、節が大きい。自分の掌と重ねてみたことはないけれど、このサイズならどこかの指に嵌りそうだ。即決してそれとチェーンを購入して、その場を後にした。
電車に揺られながら、自分でも水戸の体で知らない部分があるのだと思った。全てを見ているつもりでもそうではなくて、まだ他にも知らないことはあるのだと知った。指輪を買った理由は単純なものだった。虫除けだ。水戸の摘み食いの相手は知っていたし、分かっていた。敢えて聞かないだけだった。本人が「その辺歩いてた人だったかも」と言うなら、それで通す気だ。奴はそういう人間だ。それについて言及する気はないけれど、また摘み食いされても困る。水戸の「浮気」に対する理論は聞いた。気持ちがないなら自慰と同じ。つまりはそうだ。自慰行為。三井は同じ男として、気持ちは分からないでもなかった。どうせあいつオレに惚れてるし。それが三井の最大の強みで、それだけが三井を支えていた。ただ重ねて、また同じことをされても困る。その為に買った。加えて言うなら、指に嵌めなくてもいい。どの指に嵌らなくてもいい。ただ、その存在が水戸の枷になればそれで良かった。
自宅の玄関を開けると、相変わらず靴は揃えられていた。もう帰宅しているようだ。平日の午後八時半。こんなものだと、三井は思った。今日のメシ何かな、と考えた時点で、生活が戻った、と足が止まった。そして、あの時はぎりぎりの淵に立っていたのだと意味を持って実感した。室内は少しだけ蒸していた。それでも夏よりはずっと涼しい。季節が変わっちまった、三井はそう思った。リビングのドアを開けると、涼しい風が入って来る。
「ただいま」
「おかえり」
「エアコン点けてねえんだ。外の風?」
「そう。涼しくなったよな」
そうだな、三井はそう返し、まずはソファの横に荷物を置いた。それから水戸が居るキッチンに入り、彼も飲んでいるビールを飲もうと冷蔵庫を開ける。水戸は、ちょっとごめん、と言うと冷蔵庫から食材を取り出した。見下ろした先に見えるのは水戸の後頭部と斜め上から見える横顔で、この角度も何度も見ている筈なのに、微妙に違うように見えた。自分の気持ちの変化だろうか、と考えながらビールのプルタブを開けた。そのままごくりと飲み込むと、炭酸が喉に染みる。夏より美味くない、三井は気温の差異をこんな小さなことで感じた。
今日のメニューは鶏肉を塩胡椒で焼いたものだった。一緒に野菜も焼いていて、あとは残り物の野菜炒めやらおひたしやらを食べた。水戸は手早く作り手早く食べ、ごちそうさま、と言ってダイニングチェアから立ち上がった。それからさっさとベランダへ向かう。三井はその後ろ姿を見遣り、またこの生活が戻って来たのだと実感した。食事の間、特に水戸と会話をした訳ではなかった。それ以前に、水戸の食事は早いのだ。人が黙々とそれに向かっている間、三分の一を食べ終えた時点で彼は既に終わっている。話す時間も何もない。だから三井は、例の物を風呂上がりに渡そうと決めた。
ベランダから戻って来た水戸は、「風呂溜めといて」と言った。「オレ?」と言うと溜息を吐かれた。「浸かるのあんたでしょうよ。俺ほとんど浸からねえんだから」そう続けられ、渋々浴槽を洗って湯を張った。一応ぶつぶつと文句は言ったものの、この雰囲気を悪くないとも思っていた。互いに風呂から上がると、一杯飲むことが多かった。今日もそうで、水戸は風呂上がりにビールを開けた。三井は先に上がっていて、既に飲んでいる。足元には、今日買った指輪が入っている紙バッグを置いていた。勿論水戸は、気付いていない。
「おい」
「はい」
あち、水戸は続けてそう言って、缶ビールを呷った。風呂上がりは暑いからと、三井はエアコンを点けていた。水戸の髪の毛辺りに、それは当たっているだろう。
「これやる」
三井は足元に置いていたものを水戸に差し出した。彼は首を傾げ、紙バッグから小さな箱を取り出した。円形のそれを眺め、水戸は眉を顰める。
「何これ。嫌な予感しかしねえんだけど」
ざまあみろ!三井はそう思った。開けろ、と言うと、彼は酷く嫌そうにそれを開けた。そして中身を見て確認すると、次は溜息を吐いた。
「あのー……、これは一体」
「お前の目は節穴か何かか?見たら分かるだろ、指輪だよ指輪」
「いや、うん、それは分かってるんだけど、俺にこれをどうしろと」
「はあ?そんなことも分かんねえのか、着けるんだよ当たり前だろうが」
また水戸は、溜息を吐いた。しかも今度はかなり深い。
「あのね三井さん、俺の仕事知ってるよな?整備士なんだよ、着けらんねえじゃん。ね?普通に考えて」
「分かってるよそれくらい」
「うん、良かった。じゃあこれはありがとう。大事にしまっておきます。はい、この話終わり」
「ちょっと待ったあああーー!!」
「待てるか!」
箱を閉じて紙バッグに戻そうとしている水戸の手を掴み、もう一度三井は箱を開けた。そして指輪を取り出し、水戸の指に嵌めようとする。その強引な三井の肩を押し、水戸は「着けらんねえって!」と同じことを言うのだった。それが通用するなら最初から、三井はこんなものを買って来ない。
「そう思ってこれも買って来たんだよ」
三井は奥の手をすっかり忘れていたのだ。水戸は着けない。そんなことは最初から知っていた。だからチェーンも買って来ていたのだ。山崎ありがとう、三井は心の中で言った。
「万能チェーン!」
「え、何その下手くそな物真似」
「うるせえな。いいか、仕事中はこれに通して首からぶら下げとけ。分かったな」
「あのさあ、俺アクセサリーとか着けねえし、悪いんだけど邪魔になるっつーか」
「あ!お前そんなこと言っていいんですか!浮気したくせに!」
そう言うと水戸は、あんぐりと口を開ける。きっと、自分のことは棚に上げてこの人は何を言ってるんだと、それを言いたいのだろう。けれどそれを言わせないのが三井で、言わないのが水戸だった。水戸が言わないことを、三井はよく知っていた。
「いいか、これは虫除けだ」
「はあ」
「ずーっと見てるからな。覚えとけ」
「誰の入れ知恵?」
「ああ、チームの奴。山崎」
「山崎ってあの、ポイントガードの人?」
「そうそう」
よく知ってんな、と続けると水戸は、どうも、と言った。
「山崎さんね、俺あの選手好きなんだけどなあ。勘弁して欲しいんだけど。どうせあれだろ、前にSMまがいのって言ってたのもその人じゃねえの?」
「おーおー正解!さすが!」
「あんた単純なんだからさ、いちいち間に受けんなよ」
かちんと来て口を尖らせると、水戸は笑った。そして箱から指輪を取り出し、指に嵌めて行く。人差し指から順に試し、中指で綺麗に嵌って収まってしまう。薬指は試すこともなく。その手を水戸は見て、三井も見て、目線を軽く動かすと、試さなかった薬指がどこか置いてきぼりになったように寂しかった。
「悪くねえのかな、いや分かんねえなあ。着ける努力はしてみるけど」
あんまり期待すんなよ?水戸は低く言った。抑揚なく、目を伏せて、緩く笑う。三井が好きな表情で、好きな声でもあった。嵌る指なんてどこでも良かった。それでも、それでももしも。もしもたまたま買って来た指輪が薬指に嵌ったのなら運命かな、なんて考えなくもなかった。その浅はかな可能性は呆気なく閉ざされてしまったけれど。
「好きだよ」
「さっきのは言い訳っぽくなかったな」
「言ってろよバーッカ!」
その指の存在理由を知るのはいつだろうか。知りたくもない、三井は水戸に嵌る指輪を見て、そう思った。





終わり



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