短編

□名の無い夜に
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三井は酷く憂鬱だった。
電車に揺られながら、窓の外をただ眺めている。夜の街を駆け抜けているスピード感のある箱は、順に景色を流していた。街灯やビルの灯りが次々と通り過ぎる中で、三井は景色の移る様を目だけで追っていた。段々と疲れて来ると目を閉じ、またしばらくすると開ける。アルコールを飲んだ割には、頭は冴えていた。今日は酔えなかった、と三井は思った。いや、途中までは酔っていた。打開策が欲しくて打ちのめされたくて、自分から要らないことまで喋ってしまった。話した相手が相手だったからか、容赦なく打ちのめされて一気に冴えた。アルコールなんて結局、気分的なものなのだと分かった。程良く気分がいい時には饒舌で、現実的なことを突き付けられると覚める。飲んだ所で問題は変わらないのだと一層知ることになる。
発端は、友人の菅田からの電話だった。彼からの電話は大概くだらない話から始まる。今回もそうで、内容はwebマガジンに三井が載っていた話だった。スーツが決まってましたね三井コーチ、と揶揄してくるので、うるせえな、と声を尖らせる。そして、お前は違うの?と聞くと、アルバルク東京からは自分も出る、と菅田は言った。一緒じゃねーかよ!と笑うと、彼も笑っていた。その日三井は川崎に居て、そろそろ職場を出ようかとした矢先に一本の電話だった。五分弱話した後に三井から、なあこの後飲まねえ?と声を掛けたのだった。菅田は特に驚いた様子も無く、いいよ、と声を出した。どこにする?と続けたので、横浜まで来れるかと聞いた。それにも彼は、いいよ、と返答した。特に時間を指定することなく、じゃあ後で、と通話を切った。オフシーズンに入ると、彼とは何度か会う。職種のことも分かっているし、何より付き合いが長い。相手も三井を誘いやすいのかもしれない。今は神奈川と東京という距離を、酷く近く感じる。学生の頃はあんなにも遠くに感じたのに。
菅田との約束を取り付けた三井は、水戸に連絡をした。きっと彼はまだ仕事中だろうから、メールにしておいた。菅田と飲んで帰る、と送信すると、三井が職場を出た頃に返信があった。俺も飲み会です。という簡素な文字が、受信メールボックスに収まっていた。三井はそれを見て、一つ息を吐いた。
三井は水戸に惚れている。それは変わらない。今も尚、あれに焦がれる気持ちは変わっていない。けれども何故か、ある日を境にあの部屋の玄関を開けることを躊躇するようになった。つい先日までは、あの場所は現実ときちんと同化していて生きる為に過ごす二人の居場所だと信じられていた。それなのに。最近特に感じるのだ。あそこはもしかしたら、世界から切り取られていて、世間からは離された場所なのではないかと。水戸の言葉に死んでもいいと返した瞬間から、三井の中であの部屋の意味は変わってしまった気がする。三井にとっての欲は生きる為の原動力だ。それなのに水戸に愛されることだけで、その欲が全て満たされてしまうのではないか。主導権を握っていたい筈なのに、全てを握られても許してしまう、それが怖かった。許してしまうのに、窮屈にも思った。息苦しい。時折、ちくりちくりと感じられた恐怖の正体はそれだった。あれが欲しい、あれだけが欲しい、手中に収まった上に水戸に全てを握られていても構わないと気付いてしまったら、例え窒息しそうでもいずれ平気になり、他の欲が全て無くなってしまうと思った。毒のような幸福だった。その上、もしも周りに知られてしまったら、築き上げてきた地位も名誉も無くなってしまうのかもしれない。それを考えると、あの幸福だった筈の場所が、酷く重苦しく感じた。あれを失うことになれば自分は死ななくとも生きた屍だ。そうなることは分かっていた。もしも捨てたらどうなるんだろう、三井は水戸から送られた業務連絡のような文字を読んで、かぶりを振った。
ある日から三井は水戸とあまり目を合わせられない日が続いた。会話はしていたけれど、特に身のないくだらない話ばかりだった。水戸の目が見れなかった。全てを見透かされてしまうからだ。だから無理矢理予定を入れて、夜もなるべく擦れ違うようにしていた。今日もそうだった。早く帰りたい筈なのに、帰りたくなかった。だから菅田から連絡が来た時に、幸運だと思った。
横浜の某居酒屋で飲むことにして、菅田と待ち合わせた。酷く蒸し暑い日で、早く店に入りたかった。涼しい場所に行ってしまいたい、飲んで忘れてしまいたい、そう思った。街灯には虫が群がっていて、それをぼんやりと眺めた。水戸は虫が苦手だ。以前部屋に人類の強敵であるゴキブリが現れた時、何を言うかと思えば「三井さん、ゴキブリ」だった。どういう意味かと首を傾げると、早く取ってくれということだった。あの水戸が!と散々笑うと奴はキレた。早くしろよ!と声を荒げた。三井は新聞紙を丸め、ゴキブリ目掛けて床を叩いた。すばしっこい強敵は一発では仕留められず、その都度彼はぎゃーぎゃーと騒いだ。あっちだって!だの、あんたどこ叩いてんだよ!だの、三井の後ろから大きな声を出した。あんなに楽しくゴキブリを退治したのは初めてだった。終わった後、水戸は念入りに床を掃除していた。痕跡を残さない為だった。お前は肝心なとこでビビりなんだよなあ、と揶揄するように言うと、うるせえな、と舌打ちされた。それも可笑しかった。ああ楽しいなあこんな日々がずっと続かねえかな、その日は本気でそんなことを考えた。街灯に群がる虫達を見上げながら、水戸もここに来たら、うわ気持ちわり、と声を出すだろうか、と考えた。口元が緩むのが分かった。それから眉を顰めて俯いた。歯を食い縛った。好きなんだ、そう思った。好きなんだ本当に。お前しか好きじゃない、お前だけが欲しい。でもそれだけで満たされてしまう自分が、酷く怖かった。
「浮かない顔してんなあ、三井コーチ」
その声に顔を上げると、菅田が目の前に立っていた。よう、と声を出すと、彼は踵を返した。もう店に行くのだと、そう思った。平日だけれど金曜日だからか店内は混んでいた。事前に予約しておいたから、すぐに席に案内される。冷えた店内は心地良くて、席に座ると思わず息を吐いた。生ビールを二杯頼み、すぐに運ばれたジョッキを合わせた。かちん、という硝子の音が耳に心地いい。すぐさま飲み込むと、酷く喉が渇いていたことを今更知った。最初はバスケの話をした。例のwebマガジンの話もした。今日はいつも以上に飲める気がして、何杯も飲んだ。度々店員を呼び、あれこれと注文する。菅田から、お前まだいくの?と聞かれるも、いいんだよ、と返すしか出来なかった。水戸は今頃、どこで飲んでいるのだろう、そんなことを考えた。帰りは街灯の下をきっと通る。でもそれはあまり見ないように、ひたすら前を見て駅から歩いて帰るに違いない。そんなことを考えていた。だって水戸は、虫が嫌いだから。それを知っているのはオレだけだろうか。まさかそんな筈はない。桜木も大楠も野間も高宮もきっと知っている。でも後ろに隠れてぎゃーぎゃー騒ぎ立てるのを知っているのはきっとオレだけだ。それだけじゃない。水戸の癖も抱き方もキスの仕方も背中の転々とあるほくろの位置も数も時々見せる憂いた瞳も髪を撫でる指先の優しさも、事細かく知っているのはオレだけ。あの言葉を聞いたことがあるのもオレだけだと、三井は絶対的な自信を持って言える。レモンサワーに口を付けながら、目を伏せた。
「浮かない顔してんなあ、三井コーチ」
これを聞いたのは二度目だった。
「何で呼ばれたのか分かった気がするけど、オレ前も言ったけどお前の全面的な味方じゃねえからな」
「分かってるよ。だから打ちのめしてくれよ」
「どうした、浮気でもしたかされたか」
「そんなんだったら全然いい」
三井は自分で言って驚いていた。伏せていた目を開けて、菅田を見る。何、と言われたけれど、三井はかぶりを振った。
「お前意外と大人ね」
「そんなんじゃねえよ」
レモンサワーに口を付けた。酸味と炭酸の爽快さが、今はやけに苦々しい。
「もしかしたらされてたかもしんねえ。でも分かんねえや。オレは居ないことも多いし」
でももう、どうでもいい。三井は最後、呟くように言った。酷い変わりようだと思った。少し前だったら、小さなことで浮気だと騒ぎ立てていた。それなのに。三井は気付いてしまったのだ。水戸が帰る場所は三井の元だと。それを嫌という程強く知った。その水戸が他所に行ってしまう時、それは三井が手を離した時だろう。良くも悪くも、水戸という人間は、人を惹き付ける。三井が捨ててしまえば、水戸は他所に行ってしまう。それだけは嫌だった。他所に行かれるくらいなら、摘み食い程度なら許してやる。だって水戸が帰る場所は自分だからだ。その自信が今は痛いほどあった。そうでなければ、水戸は三井に五文字の言葉を使わない筈だ。だったら、と思うのだ。軽くて生易しくていいから、と。
「浮気してたら、オレの罪悪感も帳消しになるかな」
「は?どういう意味?」
「もう最低だ」
そう言うと三井は、テーブルの上に突っ伏した。後から言った言葉は、前後左右がばらばらで、自分でも支離滅裂だと思った。




横浜から電車で一時間近く揺られ、自宅マンションに戻った頃には、もう水戸は帰宅していた。腕時計で時間を確認すると、まだ日越えはしていなかった。スニーカーが揃えられて、玄関に並んでいる。この一歩を踏み出す瞬間、三井は酷く緊張する。だから最近はいつも、深呼吸していた。それから靴を脱いで廊下を歩く。こんなこと昔はなかった。とにかく早く帰りたくて、水戸との居場所に早く居たくて、帰宅することが楽しみで仕方なかったのに。
廊下を通ると、シャワーの音がした。水戸が浴びている。何となく安堵して、息を吐いた。リビングのドアを開けると、冷えた空気が体を抜けた。いつ帰ったんだろう、何の気なしに辺りを見渡してみるけれど、当然分かるはずもない。それ以前に、何故自分は見渡したのか、それも分からなかった。この部屋は、全てが三井の趣味だった。三井が選んだ部屋で、三井が選んだ家具だった。ダイニングテーブルのセットもローテーブルもソファも、二人が眠るベッドも。キッチンに体を委ね、少しだけふらついた頭を馴染ませる。それから冷蔵庫を開け、ミネラルウォーターを取り出した。グラスに注ぎ、それを飲み干した。いつの間にか、追い掛けるだけじゃなくなってしまった。三井は不意に、そんなことを考えた。好きだと言えば返事があるし、手を伸ばせばそこに居る。もう一度ミネラルウォーターを注いだ。また飲み干して、喉を潤した。三井は目を閉じて、菅田との会話を思い出した。

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