短編

□名の無い夜に
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大体スキャンダルって何だよ、三井は一つ舌打ちをして、玄関のドアを開けた。開けた瞬間、三井の好きな香りが漂っているのが分かった。唐揚げだ。大体スキャンダルって何だよ、もう一度思った。別に外でいちゃついてる訳じゃないしバレる訳ねえだろ、と考えた直後、足が止まる。そんなこと今まで一度も、一度足りとも考えたことがなかったからだ。今はSNSも普及してるし、そう言った広報の女子社員の言葉が頭を過ぎる。馬鹿馬鹿しい、三井は息を吐いて、リビングに続くドアを開けた。
「おかえり」
「ただいま」
にこりと笑う水戸を見ると、やはり三井の胸は逸る。真昼の月、何気なくそれを思い出した。
「唐揚げだろ」
「安かったからね」
「タイムセール!」
「はは、そう」
冷蔵庫を開け、ビールを取り出した。手ぇ洗いなよ、水戸が抑揚なく言うので、分かってるって、と返してプルタブを開けた。一口飲んでからようやく、三井はキッチンで手を洗った。
「東京で」
「え?」
過剰反応してしまった。三井は思わず、唾を飲んだ。
「いや、東京で仕事だったりするんだなって。そんだけだけど」
「ああ、うん。女性誌のwebマガジンのさ、掲載する記事の確認と打ち合わせっつーか。オレ居なくても良かったんじゃねーかって思うんだけど」
「そりゃあんた、ヘッドコーチだからだろ?」
「いやまあ、そうなんだけどさ。サボっても良かったな。お前とタイムセール行けば良かった」
「何言ってんの社会人」
水戸はそう言うと、三井の頭を二度ほど撫でた。ぽんぽんと宥めるようなそれは益々、三井を駄目にしてしまうのではないかと思う。昔から気付いていて、でも目を瞑っていたけれど、最近それが開きそうな気がするのだ。オレを駄目にする、そう思う。
食卓に並べられた唐揚げは、まだ湯気が立っていた。帰宅する前に連絡をしたから、それを計算して揚げたのだと思う。当たり前じゃない日常が、当たり前になる瞬間だった。この湯気を見て、炊きたての飯を装って、そこで甘えると、自分で入れろ、と一喝される。当たり前になる瞬間に三井は、喉が詰まりそうになる。三井がいつも座る場所に座ると、水戸はその前に座る。場所はもう決まっていて、覆されることはなかった。最近の水戸は、三井のことをよく聞くようになった。今日はどんな仕事した?どうだった?それは毎日じゃない。時々だ。それでも以前よりは聞かれるから、三井の中では「よく」に分類されるようになった。それを三井は、嬉しくも思ったし、擽ったくも思った。名前の無い夜に、名前が付いていくような気がした。何気なく窓の外を見ると、大きなそこからは月が見えた。半分だった。半分欠けた月が、朧気に見える。
その日はやけにアルコールが進んだ。ダイニングテーブルで食事をしたまま、随分飲んだ。その内水戸が唐揚げを片付けて、茶碗も取り皿も片付けた。代わりに冷蔵庫から、以前三井が買ったチーズを取り出して前に並べた。それを摘みながら三井は、飲むものがビールからワインに変わり、水戸はビールから日本酒に変わった。三井はまた、今日の仕事の話をして、それから昨日の仕事の話をした。脈絡も無い話を延々と繰り返しながら、うん、うん、と言う水戸の声を聞いた。心地良いそれを、ずっと聞いていたかった。
「そろそろやめな」
「なあ」
「ん?」
三井はその頃、テーブルに突っ伏していた。頬に当たるテーブルの木の感触が、冷たくて心地良い。
「なあって」
「だから何」
「好きなんだ」
今更何を、そう思った。酔っているから、頭が回らないから、幾つも言い訳を並べて、自分の収拾のつかない思考の答えを探した。でも、幾ら探しても見付からなかった。水戸は黙っていた。今更何を、同じことを考えているのかもしれない。
「なあ、好きなんだって」
「そう」
「聞いてんのかよ」
「聞いてるよ。酔っ払いだとは思ってるけど」
三井はまた、真昼の月を思い出した。水戸が三井を一度忘れて、思い出したあの日、あの窓からは真昼の月が見えた。互いに強く抱き締め合って、三井は水戸の、ぼそりと呟いた五文字の言葉を聞いた。三井はその言葉と声に、死んでもいいと答えた。本心だった。あの後もしも、今から一緒に何処かから飛び降りて死のう、と言われても、今から首を絞めるから死んで欲しい俺も後から追い掛けるから、と言われても、三井は喜んで受け入れた。きっとそれを、この上ない幸福だと受け入れて、何の悔いなく死ねただろう。
三井は自分を、俗物だと思っていた。例えつまらなくとも、それを認めていた。今も尚、その考えは変わらない。地位も欲しいし名誉も欲しい。それが手に入るなら何だってする。だからこそ、この職に就くことを決めた。その自分が、それを投げ打ってでも欲しいものがあるだなんて知らなかった。この人になら、人生を握られたって構わない。そこに恐怖が付き纏っても、他所に行かれるよりずっといい。
三井の髪の毛に、皮膚の感触が当たる。水戸の手で、指先だった。これがいい。これだけがいい。
「えーっと、この場合、俺も好きだよって返した方がいいの?酔っ払いの相手なんて適当にしときゃいいと思ってたから分かんねえよ」
「とりあえずは正解にしといてやる」
「もうほんと、やめときな。風呂溜めて来るから」
水戸の指先が三井から逃げた。それを感覚だけで追って、立ち上がる音と足音を聞く。
死んでもいい、名の無い夜に名前を付けたくなった時に三井は、半分になった月を見た。





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