短編

□ブルームーン
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三井は退屈していた。元々デスクワークは苦手な分野であったから、パソコンに向き合う作業は酷く暇だ。実際は暇でもなければ退屈でもない。仕事をすればいいだけの話なのだけれど、特にシーズンも終わってしまった今となっては予定に組まれていた各種イベントに参加する以外は、その苦手分野に取り組まなくてはならない。選手達の来期に向けた練習メニューの作成は既に終わっていて、残りは前期の反省点も交えた来期の会議用の資料製作だけになっていた。それが厄介なのだった。時間はある。あるからこそ余計にやる気が起きない。要はもう、気分が乗らなかった。いっそのこともう帰るかもしくは、気晴らしにバスケをする為に誰か暇そうな選手を呼び出すか、その二者択一に迫られる。水戸はどうせまだ帰宅しないだろうし、もしも三井が暇潰しをネタに水戸に電話でもしたらどうだ。一蹴されるか無視に違いない。暇だった。酷く暇なのだった。暇だから座っているスツールで回ってみた。それでも暇だった。もっとも、資料製作の続きをやれと言われたらそれまでなのだけれど。帰ろ、そう思って席を立とうと決めた直後、携帯が鳴った。着信相手は水戸だった。
様子がおかしいというよりも覚束ない様子の水戸の電話を切って永瀬モーターに向かうと、退屈だと思っていた三十分前が一掃される。おいちょっと待て、そう思った。事の顛末を全て聞いて飲み込んで返答してみたものの、本当は飲み込むことが出来ないほど大きな事案だった。退屈の方がよほど良かった。そう思いながら三井は、最後永瀬モーターの社長である永瀬に頼まれたサインを書いた。「永瀬さんへって書いてください!」と必死な様子だったので、正直悪い気はしなかった。水戸の記憶がないなんて、あれば自慢してやるのに。三井はそんなことを考えながら、心の中で思い切り舌打ちをした。
水戸の車の助手席に乗り、マンションまでの道を案内しながら三井は、本当にこいつはオレのことだけ忘れちまったのか、つーか一番忘れないのオレだろ、そう思っていた。考えれば考えるほど苛ついた。無性に焦燥した。その中で、水戸の言う「ごめん」を聞いた。謝られても困る。許す許さないの問題でもなく、水戸のせいでもない。余計に焦ってどうしたらいいか分からず、咄嗟に出ていた言葉は「お前はオレに惚れてる」だった。すると彼は、驚かなかった。むしろ何の迷いも疑いもなく、あっさりと受け入れているようだった。その時急に悪戯心が湧き上がる。オレを忘れた水戸を困らせてやろうと。だからあることないことを吹き込んで、三井を知らない水戸を納得させた。砂糖菓子みたいに優しくてオレにしか興味のない水戸にしてやる、そう思ったのだった。どうせすぐに戻るんだろ?だったら遊んだって構わないじゃないか。退屈だったんだちょうど良かった。心無いことを考えている三井を知りもしない水戸は、運転しながら笑っていた。
自宅マンションに着くと、水戸はぎょっとしたようにマンションを見上げた。言いたいことは分かってるよ、三井は言わず、水戸を連れて歩いた。エレベーターに乗り、二階な、と言った。水戸は黙っていた。すぐに着いたそこを降りて、また歩き出す。後ろを見遣ると、水戸は後ろから黙って付いて歩いて来ていた。
「角部屋ね」
「そう。あ、お前鍵出してみ?」
三井が言うと、水戸はキーケースを取り出した。
「そういや俺、いつの間にこのキーケースに変えたんだろ」
「はは、オレがやったんだよそれ。大事にしろよな」
「ああそうなんだ」
ありがとう。水戸は軽く目を伏せて笑ってそう言った。三井はどこかむず痒くなる。けれどもどこが痒いのか分からなくて、シャツから伸びていた二の腕を軽く掻いた。
「鍵これな」
「分かった」
キーケースに付いている鍵を一つ指差し、水戸に教えた。すると彼は、鍵穴にそれを差し込む。ドアを開けると、むわりとした空気が体を抜ける。夏の空気だと、三井は思った。玄関で互いに靴を脱ぎ、短い廊下を歩いた。水戸はやはり、後方を歩いている。リビングのドアを開けると、室内も同じように生温い空気が淀んでいた。あち、三井は独言ると、換気をすることなく、エアコンのスイッチを入れた。ああそうだ、三井は気付いた。
「おかえり」
「え?」
「おかえりと言ったらただいまだろ?」
三井が言うと、水戸は一瞬止まったように見えた。それから少しだけ躊躇ったように「ただいま」と言ったのだった。三井はその、水戸の少なからず躊躇した表情に懐かしさを覚える。暮らし始めた頃水戸は、いただきますとごちそうさまは言えど、簡単な挨拶でさえ他人が居なければ使い得ない言葉は酷く不慣れだった。それを三井は、思い出した。
「あんたは、換気しないままエアコンのスイッチ入れんだね」
「それなあ、お前にもしょっちゅう注意されてた」
「はは、そうなんだ。つーかさ、ここまじで俺ん家なの?モデルルームだろこれ」
「まあそれも、同じこと言ってたな」
「どこだよここは」
「お前が言ったんだぞ?三井さんはセンスがいいから全部任せるって」
思いっ切り嘘だ。本当は散々文句を言われた。住む場所にしても家具に至っては水戸が言った、使っている物を使うという言葉を押し切って買った。だけれど、今の水戸はそんなこと知らない。
「まだ四時か」
三井は腕時計を見た。今日は仕事だったから、仕事用の腕時計だった。今の水戸は、三井にあの腕時計をプレゼントしたことを覚えていない。忘れている。急に針が刺さったように、ちくりと痛んだ。
「ビールでも飲むか」
「え?」
三井は俯いていた顔を上げた。水戸は冷蔵庫を開けていた。
「もう出掛けないだろ?なら飲もうよ。この時間からビールって最高じゃねえ?」
「飲む!」
キッチンに近寄った三井は、差し出された缶ビールを受け取った。プルタブを開けて互いに飲んだ。水戸はビールを呷ると、今度は確認するようにキッチンの収納を開ける。何やってんの?そう聞くと、どっかにつまみがねえかなって、水戸は各箇所を漁りながら、そう返した。本当に忘れたんだ、三井は今更のように衝撃を受けた。身体中が急に硬くなった気がして、数秒ほど身動きが出来ない。未だに収納を開けている水戸は、ようやくスナック菓子を見付けて取り出す。どうぞ、と手渡されて三井の体が動き出した。何処と無く手持ち無沙汰で、すぐにその袋を開けた。スナック菓子の袋独特の、乾いた音が響く。
「夜は何食いたい?」
「え?」
三井の頭は未だに動いていないのか、水戸の言葉に上手く返事が出来なかった。
「あんたが言ったんだろ?晩飯はあんたのリクエスト聞いてんだって」
「ああ、そうだった」
嘘だった。これも嘘だった。食事は大概水戸が作っていたけれど、別に三井のリクエストを聞いて朝晩作っていた訳じゃない。夕食は特に、冷蔵庫にある物で水戸は支度していた。三井はほとんど、何もしなかった。それに対し水戸は、文句を言うことはあれど、食事の支度をやめることはしなかった。何やってんだろオレ、三井は不意にそう思った。彼が記憶を無くしてようやく、その重みを知った。食事があるのも当然じゃないし、洗濯物が干してあるのも機械がやる訳じゃない。水戸だった。水戸の手がしていたことだった。何やってんだろオレ。
「おい、どうすんの」
「あー、カレーにする。カレー食いたい。ルーじゃないやつ」
「ああ、ばあちゃんの」
「そう」
水戸はまた、冷蔵庫を開けた。材料を確認しているのかもしれない。そして、作れそうだな、と呟いたのだった。
その日の夕食は、いつもの水戸のカレーだった。味も全く変わらない。ただ、水戸の中に三井だけが居なかった。それがやはり、三井には酷く腹立たしく、無性に堪らなくなった。だからもう、嘘を吐いたっていいじゃないか、そんな気分になった。だって水戸が忘れたのが悪い、三井はそう思った。ダイニングテーブルに向かい合って座ると、やはり水戸の食事の仕方は変わらなかった。綺麗にスプーンを持つのに、一口が大きい。決して下品な食べ方はしないのに、食べる量は多い。変わらないんだな、三井は水戸を眺めながら、彼の優しさを思い出していた。カレーを作っている最中、煮込んでいる間に彼は洗濯物を取り込んだ。それを丁寧に畳んでいっていた。三井も隣に座り、たまにはやろうと一緒に畳んだ。すると水戸は、吹き出すように笑う。本当にあんた何もしてないんだね、水戸はそう言った。は?と三井が返して自分が畳んだ衣類を見ると、見事に擦れている。ばつが悪くなり頭を掻くと、水戸は言った。貸してみな、こうするんだよ、そう言った。普段の水戸とは全く違って、三井はぎょっとしたのだった。同居を始めた直後、三井が適当に畳んでいると、水戸は言ったのだ。きったねえな何やってんだよ貸せ、舌打ち交えて言ったそれに腹が立ち、その日は盛大に喧嘩をしたのだった。そんな畳み方するから皺が付くんだよ!うるせえな着たら一緒だろうが小姑!じゃあTシャツ一枚にアホみたいな金掛けんな勿体ねえ!黙ってろ破れ掛けたヘインズ着てるくせに!そんなくだらない言い合いをして、どうやって仲直りをしたかも覚えていない。ただ、一緒に夕食を食べたのは覚えている。今のように、向かい合って。
「どうした?」
「いや、お前まじでオレを忘れちゃったんだよなって」
思ってる。三井は最後、呟くように言った。
「寂しい?」
「そりゃそうだろ」
水戸は軽く目を伏せて小さく笑った。そして、そうだね、と言った。この表情も一緒だ。三井はそう思った。
「じゃあ教えてよ。話してるうちに思い出すかもしれねえだろ?」
「何を教えればいい?」
三井は不意に思った。洗濯物もろくに畳めない自分が、水戸に何かを教えられるのだろうか、と。
「そうだな、このカレー初めて食べたのっていつ?」
「高三の時。部活が終わってからお前ん家行って食った」
「その頃から?付き合い長いね」
「かれこれ十年以上だな。会ってねえ期間もあったけど」
「へえ、どれくらい?」
「オレが大学……、三年か。その頃から五年くらいは連絡さえしなかった」
しなかったんじゃなくて出来なかったんだ、三井は一瞬だけあの頃を思い出した。
「オレが二十五の時、湘北の体育館でたまたま会って。またそっから始めた感じ」
「ふーん」
「体育館か、懐かしいな。お前にさ、バスケ部に戻れるようにしてもらったんだよ」
水戸は首を傾げ、三井を見た。そうかそれさえ忘れたんだ、そう思うと愕然として首を擡げた。まあもういいや、と息を吐いて今度は三井が、永瀬モーターで水戸が事の顛末を話したように、高校生の頃の話をした。体育館に乗り込み、しかも土足で、ぶっ潰してやると言った挙句、終いには水戸に散々殴られたことを。水戸は途中、酷く楽しそうに笑った。極端なことするなあ、そう言って笑ったのだった。誰がだよお前か?そう言うと、違う、と水戸は言う。あんただよ、と。
その時、水戸と視線がかち合った。一瞬だけ、どきりとする。あれ?と思った。急に右手が所在無くなり、誤魔化す為に三井は軽く頭を掻いた。
「何だっけ?俺がバスケ部に戻れるようにした?だっけ」
「そうだよ。お前すげえ潔かったっつーか、悔しいけどカッコ良かったんだよあの時」
「そうかな」
「え?」
「違うと思う」
水戸はそう言うと、缶ビールに手を付ける。それを呷り、またダイニングテーブルに置いた。
「それって助けたってことだろ?まあ当時のこと忘れちまってるから正解かは分かんねえけど、俺はお涙頂戴話聞いたってだけでダチでもねえやつ助けるほどお人好しじゃないんでね。同情さえしてなかったんじゃねえの?」
「何それ、じゃあどういうつもりだったんだよ」
「何だ?三井くんがバスケ部戻りたいって言うから、だっけ?」
「そうそう」
「まあ、記憶が戻ったら本人に聞いてみな」
ご馳走さま、水戸は食べ終えたカレー皿を持ち、立ち上がった。相変わらず話を遮るのが上手い、そう思った。違う、遮るんじゃない。踏み込んで欲しくない、それなのかもしれない。オレを忘れた水戸はオレを忘れた以外は水戸のままなんだ。要所要所で三井はそれを感じていた。ただ、優しさが違う気がした。けれどもその理由は上手く表せない。もしかしたら、最初に言ったからかもしれない。「お前はオレに惚れてる」そう言ったから、水戸は優しくするのかもしれない。三井はまた、針が刺さったように体が痛む気がした。
これならまだ、嘘を吐かなかった方がマシだった。いちいち体が痛くなるのはそのせいだ。三井もカレーを食べ終え、それを下げようと立ち上がった。




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