短編

□ブルームーン
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帰社した頃には、もう午後二時を回っていた。事務所に入ると、ちょうど全員が事務所に居た。もしかしたら、病院を出た時に連絡したからかもしれない。戻りました、そう言うと、また全員が駆け寄って来る。
「ご迷惑お掛けしました。もう大丈夫です」
「そっかそっか、心配したぞ?なあ?」
「いや、もう本当に。すみません」
水戸が言うと、後輩二人が水戸に近寄る。
「水戸さん、本当にすみませんでした」
「あの、すみませんでした。僕が庇ってもらったから」
「だから大丈夫だって。そんなツラしてんじゃねえよ」
水戸はまた、後輩二人の頭を今度は強めに撫でた。ぐしゃぐしゃと掻き回された二人は、安堵して気が緩んだのか、口を噤んで耐えているようにも見えた。こりゃ言えねえな、水戸はただそう思った。
「まあ洋平、今日はもう帰れ」
「え?大丈夫ですよ」
「いや、お前代休も取ってねえし、これを機にちょっと休め。つっても明日は出て貰わなきゃ仕事回んねえけどな!」
はは、と声を上げて笑う永瀬に続いて佐藤や、普段はやっさんと呼ばれている安井も同じように、帰っていいぞ、と言う。水戸は頭を掻いた。まずいことになった、と。帰れ、と言われてようやく気付いたのだけれど、帰宅する家が分からないのだ。こりゃまずい、そう思った。昔住んでいた市営アパートではないことは分かる。その次住んだ安アパートでもないことも分かる。じゃあどこ?という話なのだった。どちらにしても、やはり言わなければならないのかもしれない。
「あのー……」
「ん?どうした?」
「帰る家が分かんねえっつーか。ははは」
「はあ?!」
「いや、じゃなくて。いやそうなんすけど、実は俺、一個だけ記憶がないんですよね」
「は?は?何それ」
水戸は特に、一つ記憶が無くなったことで焦ってはいなかった。苛つくこともなかった。生活するのには問題ないことだらけだと思っていたからだ。だけれど家が分からないとなると重大で、となると推測するに、これにも三井寿が関わっているからなのではないかと思った。水戸があまり焦燥していないからか、社員達もきょとんとしている。というよりも、詳細が掴めないと言った方が正しいのかもしれない。
「三井寿って人だけの記憶がないんですよ。おかしな話なんですけど」
「え?!まじで?!」
「着信履歴見てもそいつの名前がほとんどだし、でも分かんねえんっすよ。もしかして住んでるとこにも関係あるんじゃないすか?」
そう言うと永瀬は、安井や佐藤を見る。酷く驚いているようだった。
「お前三井コーチのことだけ忘れちゃったの?!」
「はあ、まあ。でも先生の話によると、いずれ思い出すらしいからそんな大したことねえかなって。他は何も問題ないみたいだし。ただなあ、家が分かんねえっつーのが」
「そりゃ洋平、お前あれだ。なあ?やっさんよ、あれ」
「シゲさん、あれじゃ分かんねえけどあれだろ?洋平が三井コーチとルームシェアしてるから家が分かんねえって言いたいんだろ?」
「る、るーむしぇあ?」
「何だお前その顔」
よほど妙な顔をしていたのか、佐藤と安井は笑っていた。永瀬は頭を掻き、どこかへと歩いて行く。
「いや、俺が誰か他人と生活してんのが想像出来ねえっつーか何つーか」
そこで何やら冊子を手に持ち、永瀬が戻って来た。地元のフリーペーパーのようだ。
「三井コーチってこの人だよ、本当に見覚えねえの?」
永瀬がばさりと広げたフリーペーパーを見ると、一般的に顔の整った同年代に見える男性がスーツを着こなし、それはそれは格好良く写っている。水戸は思わず吹き出した。
「何か面白えのか?」
「どう考えても面白いでしょ、何なんすかこの人」
「何ってお前ー、湘北の先輩で引っ越す時期がお互い重なったから家賃が浮くだの何だのでルームシェアしてんだろ?」
「で、今はサンダースのコーチしてるんですよね?」
「お、そこは覚えてんの?」
「いや、柄本先生に聞きました。これにも書いてあるし」
水戸はフリーペーパーを人差し指で弾いた。
「ああそういう」
厄介だな、永瀬は小さくそう続けたけれど、少し面白がっている様子でもあった。そこで経理の遥が口を開く。
「三井コーチに電話してみたらどうです?同居人なわけだから、どっちにしろ会社で起きたこと説明しなきゃなんないし。もし来れるなら迎えに来てもらったらいいじゃないですか」
「さすが遥!それでいこう!おい洋平、電話しろ電話!ついでにここに三井コーチ来たらサインもらおう!」
この人達絶対面白がってる、水戸は確信しながら、携帯を取り出した。着信履歴から名前を取り出し、知っている筈の知らない人に電話を掛けた。俺が同居するってことは余程ウマが合ったか或いは、そんなことを考えると、コール音が鳴る間、思わず一つ溜息を吐いてしまう。三コール鳴った後、水戸が唯一忘れてしまった人の声が聞こえた。
『もしもし。どうした?珍しいな』
それは至って普通の男の声で、思わず息を飲んだ。不意に、頭が痛くなる。
「あのー、あんた三井さん?」
『あ?お前何言ってんの?三井さんだよ』
「今仕事中?」
『仕事中なんだけどよー、今日はもういいかなって。まあオフだしやること終わってるし、そろそろ帰ろうかなって思ってたとこ』
「ああ、オフね」
そういえば以前、同じくプロバスケチームに所属している桜木も同じように、オフはやることやってたらいい、というようなことを言っていたのを思い出した。
「永瀬モーター分かる?」
『だからお前、さっきから何なんだよ。分かるっつーの』
「仕事片付いたらでいいから、ちょっとこっち来れる?」
『……いいけど。お前どうした?何かあった?』
「来たら分かる。じゃあ後で」
『分かった、今から行くわ。じゃあ』
水戸は携帯の電源ボタンを押し、水戸は会話の内容を頭の中で反芻する。ルームシェアしているだけあって、口調も間合いも慣れている雰囲気だった。まだ掴めねえな、水戸は何かを探りながら、親指で顎をなぞる。
「三井コーチ来るって?」
永瀬の声で、水戸は我に返る。
「ああ、今からこっち来るそうです」
「そっかあ、楽しみだなおい!オレ初めてなんだよ生三井。まじかよー、テレビのまんまかな、かっこいいんかなやっぱり」
「知りませんよ」
永瀬の言葉に呆れて溜息を吐いた水戸は、座っとけと佐藤に言われ、そのまま自席に座った。社内はどこか浮ついていた。くだんの三井コーチがここに来るからだ。未だに三井寿が分からない水戸は、所在無い感覚が身体中を巡る。どこか足元が覚束なくて、これが人を一人忘れたことなのかと知った気がした。不意に二宮医師の言った「大切な人なのかもしれませんね」という言葉を思い出したのだった。妙な違和感が未だに拭えなくて、椅子の背凭れに背中を預ける。ぎし、と軋んだ音が、酷く耳に残った。
それからしばらくして、事務所のドアが開いた。その方向を見遣ると、すらりとした体躯で背の高い、正統派な男前が立っている。彼は一度会釈をして、まずは水戸を見付けたのか片手を上げてそれを示した。対応の仕方でどれが正解なのかがまだはっきりと掴めず、水戸も彼に対し、声は出さずに会釈をしただけだった。三井の登場に、永瀬がまず声を上げる。それから藤田が、三井コーチお久しぶりっす!と、また無駄に声を大きくした。
「どうも。初めまして三井です」
三井は軽く頭を下げる。彼にとっては意味が分からないだろうこの事態に、どうにか付いて行こうとしているのかもしれない。
「いやー、初めまして三井コーチ。いつも観てますよ!どうしよ、実物超かっけー」
「ね?!そうでしょ社長」
「とりあえず藤田お前は謝っとけや」
「あ、そうでした。すみませんでした三井コーチ。オレのせいなんです、本当に」
「いや、僕を庇ってくれたから、すみません」
後輩が次々と頭を下げるのを見下ろしている三井は、当然何の話か分からないようだった。こりゃまずい、水戸はそう思って椅子から立ち上がり、三井に近寄ろうと歩いた。すると水戸よりも先に、次は先輩二人が三井の側に駆け寄る。まずは佐藤が頭を下げ、申し訳なかった!と声を出した。
「いや、俺の監督不行き届きだ。三井コーチ、すまねえな。いやー、しかしあんたかい、洋平の同居人ってのは。よろしく頼むよ。あいつはまだガキっぽいとこもあるし、でもな、腕は一流なんだよ。俺が昔っから仕込んでるから。昔のあいつはなあ……」
「はいはいシゲさん、昔の話はいいから。しかしまあ、三井コーチやっぱりクールだよ。背ぇ高いなあ。俺ね、子供が二人居てね、バスケやらそうかな」
次々と話し出す先輩二人の勢いを止めようと、今度こそ水戸が声を出そうとした。するとまた次は、経理の遥が三井に近寄る。
「初めまして三井コーチ。わたし、経理の井上です」
にこりとする彼女に、三井は一瞬眉を寄せる。何だ?水戸はそう思ったけれど、彼の表情はすぐに元に戻った。
「はいはいストップ。この人何の話か分かんねえでしょうよ」
ようやく水戸は話を止め、息を一つ吐く。それでようやく、事の顛末を話すことが出来た。最初から最後まで聞いた三井は、口をぽっかりと開けている。状況が未だに飲み込めていないようだ。当然だと、水戸は思う。自分は忘れているからまだいいものの、ルームシェアをしている当の本人は、記憶からすっぽり抜け落とされているからだ。その上多分、ルームシェアの理由は家賃云々だけではないのではないかと水戸は思う。それは勘だった。世間体を考えて表向きはそうしているけれど、実際は違うのではないかと。水戸は自分の性格上、誰か他人と生活するなんて考えられないし、例えウマが合ったとしても、同居の理由が単純にそれであるなら既に桜木と同居している筈だ。だからそれは考え難い。と考えれば、理由は一つしか思い浮かばない。
「話はよく分かりました。で?オレはこいつを連れて帰ればいいんですか?」
「はい。お願いしても大丈夫ですか?」
「それは構いません。ちょうどオフなんで、逆に都合が良かったです」
「いやー、助かりました。ありがとうございます。お願いします」
三井は一度頭を下げ、水戸を見る。目が合った水戸は、彼の目を見てただ思った。ビンゴ、そう思った。水戸は三井から目を逸らし、永瀬を見る。すると彼は、もう帰っていいぞ、と言った。
「社長、明日は普通に出社します」
「おう、まあ今日はゆっくり休め。あ、労災申請しろよ?」
「ありがとうございます。じゃあ、お先に失礼します」
水戸も頭を下げ、三井に近付いた。彼ももう一度頭を下げ、事務所のドアに近付く。
「あ、三井コーチ!」
「はい」
「さ、サインください!」




「なあ?」
「何?」
「お前まじでオレのこと忘れちゃったの?」
「悪いね、ほんと」
今は水戸が運転する車の中に、二人で居た。時々三井が、次左な、と道を指示しながらの運転だった。当然知らない道ではなく、見知った道路を走っている。この辺りね、と確認しながら、水戸は明日の出勤の為に覚えていた。三井はというと、本当に忘れられたことを再確認したのか、深々と溜息を吐いている。傷付けてる、水戸はそう思うとばつが悪くなり、頭を掻いた。
「えーっと、ごめん。さっきも言ったけど、ちゃんと思い出すらしいからさ。ちょっと待っててよ」
「つーかさ、お前一応オレに惚れてんだけど」
「ああ」
やっぱりね、ただ納得するように答えると、助手席に居る三井の方が驚いたのか、え?!と大きな声を上げた。
「お前驚かねえの?!」
「勘だよ。俺が他人と同居するってそれくらいしか考えつかねえし」
「へえ」
「ってことは何?あんたも俺に惚れてるってことでいいの?」
「まあそうなんだけど、よし!」
「何だよ」
「いいこと教えてやる。お前はな、オレが好きで好きでしょうがねえから土下座して泣いて一緒に暮らしてくれって頼んだんだよ。そりゃもうあれだよ、三井さんお願いします!っつってさ。ついでに言うと、朝飯はオレが好きなもん作るし、晩飯もリクエストを聞いてくれてだな。しかも迎えに来いっつったら喜んで来るんだよ、凄えだろ」
「まじかよ、そりゃ凄えな」
あんた話盛ってねえ?そうは思ったけれど、水戸は言わなかった。何故なら、さっきまで溜息を吐いていた三井が、酷く楽しそうに話すからだ。それから彼は、とても饒舌だった。忘れられたことを忘れたように、昔の話や自分の話をした。水戸自身も、その空気を悪くないと思った。俺って意外と簡単、水戸はすっかり絆されてしまった自分自身に、思わず苦笑したのだった。
大切な人、という言葉が、脳裏を過る。





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