短編

□ブルームーン
1ページ/6ページ


それは七月某日。午前十時頃のことだった。その時間に小さな不運が重なり、水戸は今、永瀬モーターの掛かり付けである柄本医院に来ている。それは小さな街医者で、社長の永瀬が幼い頃から世話になっている医院だった。整備士は時々怪我をするし、永瀬の信条は福利厚生も充実した会社だ。その為、健康診断を始め、社員が働きやすい職場を第一に考えている。それには、掛かり付け医は必要不可欠なのだった。もっとも、怪我をすることもほぼ皆無なのだけれど。だから水戸は、健康診断以外で柄本医院に訪れることはなかった。風邪もいつだったか引いたことがあったけれどそれも一年以上前の話で、病院にも行かず薬局の薬で事足りた。しかも今は就業時間中だ。どうにも居心地が悪い。大したことねえのに、そう思っていた。医院長の柄本は、もう年若くはなかった。高齢と言っていい年齢だと思う。それでも会えばいつも彼は、溌剌としている。時々柄本は、永瀬モーターにも来ることがある。彼は車に乗っているので、点検や車検の際には客として訪れる。年季の入った車を、いつも大切に乗っていた。
水戸がここに居る事の発端は、本当に滅多にないことが重なったことから始まる。まず、水戸の後輩である藤田が、エンジンオイルの交換をする際にコンクリートに盛大に溢した。うっわやっべえ水戸さんすみません!藤田のただでさえ大きな声が更に輪を掛けて響き渡る。バカ何やってんだよ早く片付けろ、水戸はいつも通り淡々と注意した。早々と雑巾を手に取った藤田は、溢れたオイルを拭き始める。そこに、ばたばたと足音がした。ぽちお前走るな!シゲさんこと佐藤が、ぽちこと神田を怒鳴った。あ、はい!神田の足音が静かになった直後、オイルで足を滑らせる。やべ、水戸はそう思った。倒れる、そう思った瞬間、神田を庇っていた。後ろから支えた直後、頭に衝撃が走る。背後にあった金属製の棚に頭をぶつけたのだ。まずったな、という言葉が脳裏に浮かんですぐ、意識が途切れた。目が覚めたのは、それから五分程後だったそうだ。目を開けた時に水戸は単純に、あれ?と思った。何に対して疑問を感じたのかは自分でも分からなくて、とりあえず辺りを見渡してみる。普通に自分の職場で、酷く心許無く心配そうに、職場の人間全員が水戸の周りを囲んでいた。次々と、大丈夫か?大丈夫ですか?という言葉が聞こえた。藤田と神田に至っては、自分のせいだと思っているのか、半分目が潤んでいた。すみませんでした、そう言って二人は頭を下げたので水戸は、大丈夫だって、と笑った。大したことねえから気にすんな、と二人の頭を撫でた。その時頭痛がして、眉を顰める。いて、と小さく言ってから頭に触れてはみたものの、何がどうなっていた訳ではなかった。ただ違和感がする。説明しようもない違和感が。
そこで永瀬が、頭だから心配だし一応柄本医院に行け、と言ったことが始まりだった。水戸は最初、大丈夫です、と言った。けれども永瀬は譲らなかった。それで現在に至る。
柄本医院長に水戸は、作業中に転んで金属製の棚に頭をぶつけたと説明した。それから五分程意識がなかったことも付け加えた。一瞬感じた違和感は、説明し辛い現象だったから伏せていた。彼は一通り水戸の説明を聞き、カルテに書き、水戸の目を見詰めた。それから何故か、誕生日や家族構成を聞く。交友関係や出身校、永瀬モーターに入社した年も続けて。質問責めにあっていた水戸は、疑問を感じながらも順に答えた。
「水戸くん」
「はい」
「携帯は持ってるね?」
水戸は瞬きをした。未だに質問内容の真意を掴めない水戸は、はあ、と間の抜けた声を出した。
「ちょっと見てごらんなさい。着信履歴やメールでもいい、電話帳も併せてね。とにかく人の名前を見てごらん。それで特に違和感が無ければ帰っても大丈夫だよ」
「え?」
「いいから。やってみなさい」
やはり医院長の真意が分からない。水戸は首を傾げたものの、とりあえず携帯をポケットから取り出した。未だに二つ折りの携帯を使っている水戸は、昔ながらのものをそのまま使っている。電話機能とメール機能しか使わないそれの、まずは着信履歴を見た。その時水戸は、目を瞬かせる。誰こいつ、そう思った。着信履歴の一番上に載っている名前に、全く見覚えがない。誰かも分からない。分からないのに着信履歴には、その人物の名前で埋まっている。時々親友の名前があったものの、ほぼ特定の人物の名前で埋められていた。水戸は顔を上げ、柄本医院長の顔を見る。
「先生」
「どうだい?」
「この、三井寿って人」
誰ですか?そう聞いた所で彼が知る由もないことが分かっていたから、水戸は言わずに言葉を飲み込んだ。けれども柄本医院長は察したのか、一度頷く。
「分からないんだね」
「はい」
「随分昔ね、一部の記憶が無くなった患者さんを診察したことがあったんだよ。君の目の動きが何となく、その時と似ている気がしてね」
「先生凄いですね。最初っから分かってたんですか?」
柄本医院長はかぶりを振った。
「凄くはない、ただの勘だ。それにうちにCTもない小さな街医者だからね、総合病院に行って詳しく診て貰った方がいい。脳の専門医が教え子なんだ。今すぐ電話しよう。紹介状を書くから行きなさい」
「これ、すぐに思い出すってことないですか?」
「そうだね、あるかもしれないし無いかもしれない。昔診たその患者さんは、一ヶ月くらいだったかな?自然と思い出したけどね。まあ、他に異常は見受けられないから脳内出血や他の問題はない。でも一度、きちんと診察してもらった方がいいよ。それは確かだ」
「何でこの人のことだけ忘れたんだろ、俺」
「三井寿さんは確か、サンダースという神奈川のプロバスケのコーチだよ。神奈川の人は大抵知ってるんじゃないかな?地元のニュースにもよく出てるし、この老いぼれでも知ってるくらいなんだから。水戸くんの友達だったんだね」
「へえ、そうなんっすか」
「はは、そうだね。分からないね」
医院長は柔く微笑んで、机に置いてある固定電話の受話器を取る。水戸は一度携帯を閉じた。そして、三井寿のことを考えた。もっともその名前に全くと言っていいほど覚えがないから考えることもあまり出来ないのだけれど。それでも、これではっきりした。目が覚めた時の言いようのない違和感はこれだったのだと。想像するに、彼とは親しい間柄なのだと思う。何故なら、親友である桜木初め、大楠野間高宮、それら以外の名前で着信履歴を占められているのだから。もう一度携帯を開き、着信履歴を確認する。彼からの一番新しい着信は一昨日だ。時間は十八時半。首を捻るけれど思い出せない。彼が埋めていた脳内の一部分だけがぽっかりと穴が空いている。それはどことなく不快だった。説明し辛い違和感は、やはりどう解釈したらいいのか分からなかった。
水戸の目の前では、柄本医院長が電話で話していた。二宮くん元気かい?悪いね急に、医院長はゆったりとした口調で話している。二宮くん、という医師が彼の言う教え子なのだろう。ざっくりと説明した彼は、受話器を置いた。そしてボールペンをかちかちと鳴らして紙を取り出す。あれが紹介状ね、水戸は柄本医院長の一連の流れを追いながら単純に考えた。違和感があっても人は普通で居ることが出来る、水戸は特に慌てることなくそう思った。
「落ち着いてるね」
「慌てても仕方ないですよ。忘れちまったもんはしょうがねえし」
「以前診察した患者さんはね、とても大切な一部を無くしたんだ。どうしても思い出せなくて、ただ悔いていた。でもね、思い出した時、とても幸せだったそうだよ」
君もそうだったらいいね、柄本医院長は、やはりゆったりとした口調で言うと、水戸に封筒を手渡した。紹介状、と記載してあるそれは、どこか殺風景に見えた。
柄本医院を出て、永瀬モーターに連絡した。今から総合病院に行くことを言わなければならないからだった。永瀬には、特に問題はないけれど頭だから一応総合病院で診て貰った方がいいと言われたと、それだけ簡潔に伝える。大きな外傷や、内部の出血はないことも加えて。そうでなければ、後輩達がいつまでも責任を感じるからだ。端的に説明をして、車を走らせた。運転も問題はなくて、今日整備した車も車種も、昨日の仕事内容も全て思い出せたから、仕事面での不安はまるでない。忘れているのは、三井寿のことだけだと診察されるまでもなくはっきりと分かった。
総合病院での診察が終わり、そこから職場へ帰社する為に車を走らせながら、柄本医院長の教え子だという、二宮という医師の言葉を思い出した。彼は人間の脳を研究している脳外科医で、柄本先生の紹介なら、と忙しいだろうにとても丁寧に水戸を診察した。そして、分かりやすく説明をしたのだった。柄本先生は元気ですか?から始まり、はいとても、と返すと、彼は嬉しそうだった。そして息を吸ったのが分かった。
『結論だけを言うと、脳に異常は全くありません。日常生活にも支障はないし、この先も心配要りません。ただ、柄本先生から聞いたんですけど、特定の人物を忘れてる?えーっと、友達かな?ああ分かんない。そうですよね。うーん、これはね、時々見られることなんです。頭を打った衝撃で一時的にね、でも一時的にとはいえ、その一時的がいつまで続くかっていうのは断言出来ないんですよ。思い出すのが明日かもしれないし、一週間後かもしれない。もしかしたら一ヶ月か一年か、それも分からない。でもね、ふとしたきっかけで思い出すことが多いんですよ。本当にふとした瞬間に。もしかしたら、とても大切な人なのかな?柄本先生から名前は聞いてないから誰かは分からないけど、もしかしたらね、そうなのかもしれませんね。この人を忘れたら自分はどうなるんだろう相手はどう思うんだろうっていう人間の深層心理っていうのかな。それが奥底にあったのかもしれませんね。え?びっくりした?はは、そうだよね、こういうことをすぐ言っちゃうんですよ。おかしいでしょう。まあとにかく水戸さん、大丈夫ですよ。心配しないでください。本当に大切なことなら、必ず思い出しますから』
彼はまだ三十代半ばのように見えた。けれども酷く大人びて、落ち着いてみえた。そして、患者に対して真摯に向き合っていることが容易に分かった。大切な人、ねえ。水戸は三井寿がどういう人間かも思い出せないのに、大切かどうかなどもっと分からなかった。一つ息を吐いて煙草に火を点け、丁度赤信号で停止したので、ぼんやりと空を見た。


.
次へ

[戻る]
[TOPへ]

[しおり]






カスタマイズ