短編

□噛み合って抱擁
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「何か欲しいもんある?」
水戸にこれを聞かれたのは初めてだった。既に晩飯を平らげたオレの目の前には、小さなホールケーキがあった。それを切って皿に装い、フォークを突き刺した所でそれを聞かれた。
今日はオレの誕生日だ。水戸は気付いていないと思っていたし、朝もそんな会話はしなかった。元々オレも、おい誕生日なんだから午前零時ちょうどにおめでとうくらい言えや愛がねえのか、という乙女ったらしい気持ちは皆無だったのだけれど、まあオレはお前の誕生日には零時過ぎたら言ってやったけどな、というやっかみは無きにしも非ずだった。朝食の時の水戸は相変わらず、ああ、と、うん、しか言わなかったし、オレはというと、朝から会議があったから早々にマンションを出た。くそ忘れやがって!とその時に思ったことは言うまでもない。という経緯もあり、オレはこの状況に驚いていた。まず昼休み、大概オレから先にメールを送るのだけれど、水戸から先に来た。今日は早く帰ります。一文で完結、というのは変わらなかったけれど、オレにもしやと勘付かせるには十分だった。
するとどうだ、帰宅したら好物が並んでいた。ハンバーグ、ポテトサラダ、生野菜、南瓜の煮物、それらがずらっと並んでいたのだった。やりゃ出来んじゃねーか、と言うと、言ってろよ馬鹿、と舌打ちを交えながら酷く不機嫌そうに返される。そんなやり取りは日常茶飯事なのでオレも、言い返すという無駄な体力を使うのは最近やめていて、美味そう、と、さんきゅ、という言葉をありったけの笑顔で言ったのだった。水戸は嬉しそうだった。水戸は最近、よく笑う。笑うというのは以前のような、目を細めて憂いて俯く、というそれではなく、擬音語で例えるならにっこりという表現が一番近いと思う。オレのお気に入りの水戸ファイルに、最近それが追加された。こう言うと本人は酷く不機嫌になるだろうけれど、これがまた可愛いのだ。思わず見惚れてしまうほどの威力だった。
終いにはケーキを出された。ダイニングテーブルの上に置かれたのは、小さなホールケーキだった。その時初めて、誕生日おめでとう、と水戸は言った。水戸はケーキを食わない。だから、好きなだけ食いなよ、と言った。俺は見てるだけで胸焼けしそう、と続けた。じゃあ何でわざわざホールで買ったんだよ、と聞くと彼は、こういうのは雰囲気が大事なんだろ?と言うのだった。あんたが言ったんじゃねえの?と。水戸はちゃんと、オレがしたことを覚えている。何だかそれが、堪らない気持ちになった。込み上げて来る喉に差し掛かるようなこの気持ちの名前をオレは、最近知った。
「だから、何か欲しいもんねえの?」
ケーキにフォークを突き刺したままで、水戸の言葉を聞いていた。更に、欲しいもんはねえのかと来たもんだ。世も末だ。そう思った。
「え、お前どうした?」
「どうしたって言われてもね、考えても分かんねえから聞いてんの。俺が適当に買ってセンスゼロって言われても困るだろ」
いやお前プレゼントのセンスはあるよ、とは言わなかった。これも最近気付いたのだけれど、水戸は自分自身に頓着しないだけで、誰かに何かを贈る場合はそれなりに考えている。実際水戸から貰った時計も、お前これ選ぶとか反則だろ!と思ったくらいだった。が、欲しい物を今聞かれても正直思い浮かばない。よく水戸から散財していると言われるけれど、それは価値があるからそれに対する対価を支払っているだけで、むやみやたらに使っている訳ではない。価値観は人それぞれ違う。水戸に価値がなくてもオレには価値がある。更に言わせて貰えば、吟味して買っている。スーツだってネクタイだって、来年も再来年も、手入れすれば使える物を選んでいるのだ。それは置いといて、オレは自分が欲しいと決めた物は、他人に頼らない主義だった。自分で手に入れる。物にしても、それ以外でも。だから聞かれても、首を捻るしかない。
「欲しいもんなあ、今急に言われても分かんねえよ」
「物欲だらけのあんたが?」
そう言うとまた、水戸は声を出して笑った。遠慮もなく、歯を見せて全てを許したようなその表情は、ずっと懐かなかった野良猫が懐に潜り込んで来たようで少しだけ擽ったい。妙に照れ臭かった。可愛い、これを言えば水戸は、怒る気がする。
「まあ、ゆっくり考えなよ。ちょっとベランダ」
水戸はテーブルに置いていた煙草を手に取り、一本口に咥えた。それを唇で上下に遊ばせながら立ち上がる。上手く遊ばせながら煙草を構う薄い唇を見て、あ、と思った。
「あった。欲しい物」
「お、何?」
「やらせろ」
ぶっという太い息が聞こえる。水戸が吹いた。空気の衝撃で煙草がフローリングに落ちて、彼はそれを拾い上げた。
「またそれ?あんたも懲りねえな、もっとあるだろ他に」
「ちげえよ、センスゼロの男はこれだから」
「は?いちいち腹立つな」
「今日はオレがお前に突っ込むことにする」
一瞬時が止まった水戸は、その後盛大な溜息を吐いた。そういう反応ね、はいはい。オレは、はっと息を吐いて笑った。
「えーっと、何て?」
「だから、今日はオレが、お前に突っ込むっつってんの」
短く切り、はっきりとした口調で言うと、水戸はあからさまに深く溜息を吐く。一つ前のそれとは明らかに差を付けて。
「何で急に?」
「お前も男なら分かるだろ。たまには突っ込ませろよ、やってみてえんだって」
「悪いけど俺、痛いのが気持ちいいっていうマゾっ気みたいなん全くないんだけど。つーかあんた絶対下手だろ、嫌だね」
「下手ってなんだ!ふざっけんなてめえ!」
「いやあ、なかなかの下手さだと思いますよ?」
「やかましいわ!」
今度はオレが溜息を吐いた。落ち着け。こうやってやりあっていたら水戸の思うツボだ。奴はきっとこのまま、ひらりひらりと躱してベランダに行き、そのままなかったことにするに違いない。何なら誤魔化してキスくらいして、頭を二度三度撫で、風呂入って来な、とか何とか言って終わらせる。それにまんまと絆されたオレは、一番風呂に入ってすっきりして、じゃあ寝るか、なんて言ってそのまま今日が終わるに違いない。嫌だ!そう思った。そうだ、誕生日というある意味特別な日だからこそ出来ることがこれだ。水戸のことだから、押して押して押しまくれば、もういいよ分かった、そんな風に諦めて了承するんじゃなかろうか。あとは三井寿、お前の誘導次第。そうだろ?
自問自答を繰り返しながら、オレは自分がなぜこんなことを考えたかを思い出した。そう、水戸が笑うから悪いんだ。心の底から楽しそうに歯を見せて笑う水戸は、年相応というより酷く幼く見える。心を許して気安く、今まで見せなかった表情を見せるなんて卑怯だ。ついでに言うと、水戸が唇で煙草を挟んだ時、この唇を喘がせたいと思ってしまった。水戸洋平、勝負!
「水戸よ」
「何?落ち着いた?」
落ち着いてたまるか。落ち着かねえぞ。
「知らねえだろ。お前がイった時の顔ってそそられるんだよ」
「はあ、それで?」
一際呆れたように冷たく言われ、唖然とする。これオレの口説き文句!それをさらっと流すな!と、叫びそうになったけれど抑えた。大体、何で自分の誕生日にこんなに必死になっているんだろう。あ、オレのせいか、ははは。
「いやだから、入れさせろっつってんの」
「嫌だっつってんの」
「誕生日なんだよオレは!」
「誕生日だから何?王様の日でも何でもねえだろ、俺は何が欲しいのかって聞いてんの」
「くそ!やらせろ!」
「あーもう分っかんねえ奴だな、いい加減にしろ!」
視界に一瞬、ケーキが映った。これを見た時、嬉しかったというよりも先に驚いた。水戸と知り合って十年、その中で初めてのことだったからだ。クリスマスにショートケーキは買ってあったことはあったけれど、ホールはなかった。逆にオレも、水戸に買ったのはこの間の誕生日の時が初めてだった。あいつ甘い物嫌いだし、という事実に言い訳をして、祝うということもわざわざしなかった。当日に改まって、というよりも気が付いたら何かしていた。互いにそうだった。そうであるべきだと思っていた。今年は違った。祝いたいと思って、ホールケーキを買った。水戸がそこに居るということは、当たり前じゃないからだ。繋ぎ止めておく為の手段でも何でもないけれど、ここにある毎日は当然の日々じゃない。それに気付いた。
食おう、そう思った。ケーキが不味くなる、そう思った。
「食う」
「どうぞ」
「とりあえず落ち着け」
「お前がな」
「お前呼びすんな」
「あーもう悪かったよ」
オレは口の中にケーキを運んだ。甘かった。美味かった。オレが以前水戸の誕生日に選んだケーキは、甘さ控え目で甘い物が苦手でも食べやすいというケーキをカフェで予約しておいたものだった。嫌がらせの為にハッピーバースデーのプレートも蝋燭も付けた。でもこのケーキは違う。小振りで飾りもシンプルで、真ん中にチョコレートのプレートも無ければ、蝋燭もない。照れたのかもしれない。ただのケーキ。それが何故か酷く甘く、舌に響いた。残った。どうしようもなく、水戸を好きだと思った。
水戸はというと、また煙草を口に咥え、挟んだ唇で上下に遊ばせている。眉間に皺を寄せ、きっとオレに呆れている。
「いいよ」
「え?何が?」
「やりてえんならいいよ」
今何て?それが口に出ていたらしい。水戸は口に咥えていた煙草を指で取り、テーブルに置いた。オレを見据え、もう一度、いいよ、と言う。
「まじで?!まじでやらせてくれんの?!」
これぞ押して駄目なら引いてみろ。思っていたのだ。水戸のことだから最後には、いいよ、と言うだろうと。オレは自信があった。
「言っとくけど簡単にはやらせねえかんな、あんたがその気ならこっちも容赦しねえ」
「え、それってどういう」
「やれるもんならやってみなってこと」
「待て待て!力でお前に敵う訳ねーだろ!」
「力の差がある相手を倒すやり方は幾らでもあるよ、あんたそういうの得意なんじゃねえの?なあ、三井コーチ」
水戸は不敵に笑うと、人差し指をくいくいと曲げて挑発してくる。あ、イラっとする。
「上等だてめえ!」
それからはもう、喧嘩だか愛撫だか、何の始まりか分からなかった。まずは立ち上がり、水戸に近付いてキスをした。胸倉を掴んで立ち上がらせ、自分より十センチ以上身長の低い水戸を力任せに引き摺ってソファに投げる。水戸は笑みを崩さなかった。益々苛ついた。このままやってやろうとのし掛かると、蹴りが飛んで来る。それが脇腹に当たり、くぐもった声が出た。一度咳込み、いってえなてめえ、と言うと無言の水戸はオレの手首を掴んだ。その手を噛んだ。水戸は噛まれた所で怯むことなく未だに無言で、掴んでいた手首を離す。勝った?と思ったのも束の間、今度は左手で平手が飛んで来た。フェイクだ、右利きの奴のフェイク、そう思い腕でガードすると、やはり今度は右手が飛んで来る。食らってたまるか、とその手を掴むと、水戸が起き上がった。オレが掴んだ所でもろともしない。力の差がある戦い方って何?少なくともオレは、お前に勝てる自信ゼロだ。射抜かれるように睨まれ、笑われ、眩暈がした。起き上がった瞬間、水戸はオレの腕を噛んだ。痛えんだよ!そう言って思わず手を離した。その隙に水戸は、オレの頭を掴む。右手で頭を固定して、左手で顔に触れる。そのまま口を開けさせ、舌を差し込んで口付ける。
もう降参、参りました。やっぱりお前に勝つ自信ゼロだ。この唇に弱い、舌に弱い、手に弱い、睨み付けるその視線に弱い、水戸洋平全てに弱い。体を探られながら、最初から水戸を負かすなんて到底無理だと知る。




「何で誕生日にこんな格闘じみたことしなきゃなんねえの?」
「俺のせいかよ、元はあんただろ」
「まじで蹴りやがって。噛むし。いってえんだよバカ」
「本気じゃねえよ、あんなんじゃれ合いみたいなもんだろ?」
オレは今、また腹が減って残ったケーキを食っている。美味い。胃袋に染みる。ケーキを頬張りながら水戸を見ると、ダイニングチェアに座った水戸は、酷く楽しそうだった。
「お前さあ」
「ん?」
「遠慮しなくなったな」
「そうだっけ?」
「そうだよ」
苺を食べると、軽い酸味と甘味が同時にやって来て、それはどこか、二人の関係に近いもののように思わなくもない。酸っぱくて甘い、いや違うか。見た目もこんなに可愛らしくもなければ、小さくもない。男二人、図体のでかいのが一人。自分のふざけた妄想に、思わず含み笑う。
「何笑ってんの、気持ち悪いな」
「嬉しいよ」
「は?何の話?」
「お前が遠慮しなくなったのは、嬉しい」
「そう」
水戸は今度は、目を伏せて笑った。にっこり、とは違う。憂いを帯びたその表情は、昔と今を混同する。嬉しい、それは本心だ。でもオレは知っている。水戸の笑顔を見て堪らなくなる気持ちの意味も、込み上げて来る喉に差し掛かるような、どうしようもない感情の名前を。それは、ほんの少しの恐怖だ。自分の人生と水戸の人生が交わって一つになる一点、その点を見付けた時、オレは少しだけ怖い。自分の人生を水戸に握られている気がして、一瞬足が竦む。
でも多分、オレはこれがないと、生きた心地がしない。
「誕生日おめでとう」
「ありがとう」
水戸は今、にっこりと笑っている。





終わり



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