短編

□恋は不在のまま
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三井さんの二日間の家出から早二週間、そこそこそれなりに日々は過ぎていた。そこそこそれなり、というのには事情があって、あの人は子供みたいな試し方を俺に対してするからだ。いつだったか、互いに仕事が早く終わり、外で夕飯を食べることになった。場所は鎌倉で、最近美味いと評判の洋食屋だった。和食食いたい、という俺の希望など鼻から却下で、永瀬モーター付近の駅集合ということで話がまとまった。食事自体は普通に済んだ。会計時に、俺が「ご馳走さまでした」と店員の女性に会釈するとどうだ。彼は車の中でまた、恒例とも言える台詞を吐いた。「お前はやっぱり女に優しい」そう言った。そうだっけ、と内心、また始まったよめんどくせ、と思った。悪態を吐きたい所を我慢して、素知らぬ顔でそう言った。すると彼は、そうだよ、と言うのだった。運転中だから顔は伺えなかった。そのまま黙ってしまったので、ごめん気を付ける、と言ってみる。丁度赤信号に引っ掛かったので何気に顔を覗くと、三井さんはにやにやしていた。すっかり機嫌を良くしたのか彼は、酷く饒舌になった。今日のメシ美味かった、だの、今度は違うとこ行きてえ、だの。所謂この人独断のラジオだ。人の返答なんて一切関係ないし気にしない。一人で喋り尽くす。それで気付いた。ああそういうこと、と。この人俺に謝らせたかったのか、と気付いた。要はあれだ。確認作業だ。試されている、そう思った。子供みたいなことするなあ、とも思ったけれど、この人は俺の言葉一つ行動一つで大きく反応するんだな、と何か遠くの届かない場所でぼんやりと形を作る。それはとても擽ったくて居心地が悪くて、でも何だかとてもいいもののように思った。そんな、とてもいいものを脇に抱えながら日々を過ごすうちに、図体のでかいこの人は、誰かのものになるんだということを知った。そしてその誰かは俺なのかもしれない、と思った。現実だけを見続けて生きて行く現実主義者で、誰のものにもならないと思っていたこの人が、俺の言葉で傷付いて俺の言葉で許して俺の言葉で希望を持つ。誰のものでもなく、俺のものなんだとようやく知った。
子供みたいだ、そう思った。三井さんに対してじゃない、俺自身に対して。
結局早く仕事を終えられたのもその日だけだった。しばらく残業が続き、顔を合わせるのも朝だけになる。相変わらず三井さんは朝から喧しくて、俺はいつも通り、ああ、と、うん、しか喋らなかった。そんな愛想のない返答でも彼は酷く楽しそうだった。その日一日の予定を喋ったり、テレビや雑誌で見た店の話を、彼はする。それからとても機嫌良く、行ってきます、と言ってスーツに着替えたあの人は大概先にこの部屋を出る。そこにいつも、現実を見る気がする。現実主義者のあの人は、毎日勝敗が関わる職場へ行くのだった。
その日も俺は、残業をしていた。帰宅した頃には午後十一時を回っていて、リビングには誰も居なかった。三井さんはきっともう寝ているだろう。ここの所休日もないし、疲れたような顔は見せないけれど、単にアドレナリンが出ているだけのせいではないかと思う。俺がこうして、きちんと帰宅するからだ。届いたメールにはきちんと返信して、朝は朝食があって、ああ、と、うん、しか返答がなくても、空気が柔らかくて暖かいからだ。だから三井さんは、毎日驚くほど機嫌がいい。
リビングは明るかった。俺が帰宅することを見越してだと思う。冷蔵庫を開けて、ビールを取り出した。キッチンは綺麗で、朝のままだった。三井さんは外で食事をしてきたのかもしれない。俺の帰宅が遅いからだ。かくいう俺も、今日は残業だと分かっていたから夜食用に作って持って行っていた。三井さんはよく言う。コンビニで買ったりしねえの?と。買わなくもないけれど、何となく味が落ち着かなかった。それなら多少多目に弁当を作って持って行った方がマシのように思う。お前は堅実だなあ、と三井さんは言う。あんたが散財し過ぎなんだよ、と呆れて言っても、彼は歯を見せて笑っていた。釣られて笑ってしまうのが妙に擽ったくて、こんなに心地いいものが手の中にあることが、未だに信じられなかった。返さなくてもいいのかな、本当にいいのかな、俺のものでもいいのかな、自問自答しながらビールを呷った。渇いていた喉に、ぴりぴりと深く沁みる。痺れた喉は放っておいて、そのまま一缶飲み干した。もうシャワーを浴びて寝る、そう決めたけれど、なかなか眠気がやって来ない。アドレナリン、その言葉が脳裏を過る。
寝室を開けると、ダウンライトが点いていた。三井さんはベッドに横になりながら、雑誌を読んでいた。
「おかえり、お疲れさん」
振り返った彼は、もう眠そうだった。でも嬉しそうでもあった。俺が帰って来たから?その事実を知って、妙に右手が疼いた。
「ただいま。シャワー浴びてくる」
「おう、オレもう寝てるかも」
「おやすみ」
クローゼットを開けて、着替えを取り出した。一度三井さんの頭を撫でると、彼は目を細めた。
「お前の手、眠くなる」
「はは、すげえな」
「お前は自分のこと、知らな過ぎる」
「そうかもね、あんまり興味ねえし」
「勿体ねえなあ」
勿体ねえよ、三井さんはもう一度、確かめるようにそう言った。マシンガンのように喋る口調は、今は酷く緩やかだった。眠いからだ、そう思った。このまま撫でていたら眠ってしまうのだろうか、そんなことを考えた。けれどもその逆、眠らせてしまうことの方が勿体ないとも思った。
「お前さあ、何か欲しいもんってねえの?」
「急に何?」
「もうすぐ誕生日だろ」
「ああ、そうだっけ。忘れてた。つーかまだ先の話だろ」
「先に聞いとくんだよ。サプライズだよサプライズ」
「あんたサプライズの意味知ってんのかよ、聞いたら意味ねえじゃん」
そう言うと彼は、はは、と声を出して笑った。飽きねえなあ、と小さく言うと、三井さんは撫でていた俺の手を握る。その手を取り、そのまま指先に口付けられた。ちゅ、と小さく鳴る音が、狭い寝室に居るからか距離が近いからか、酷くよく聞こえた。
「えーっと、誘われてる?」
「お前の指、好きなんだ」
「知ってる」
「もっと我儘になっていいよ」
「え?」
「自分に興味がねえのは我儘じゃないからだ。我儘に生きたらよく知れるからたまにはやってみろ」
「……じゃあそうする」
不意にこの人は、確信を突いて来る。一歩前に出ると、その先を躊躇する俺をよく知っている。時々俺はこの人を、酷く大人びていると思う。普段は馬鹿馬鹿しいことしか言わない唇が、こうして俺を負かす為の言葉の使い方をよく知っているからだ。そしてそれは、俺を駄目にする。散々駄目にして甘やかす。もう俺のもんでもいい?とは聞かなかった。この人はこの距離感にこの先きっと、躊躇するからだ。怖がるからだ。現実主義者だし勝敗を決める戦場に身を置いているから、現実と俺のことを一緒にするのをその内、怖がるようになる。だから今は言わなかった。
シャワーする気でいたのに、もういいや、と思った。三井さんが俺の首に腕を回していたからだ。違うそうじゃなくて、俺がそうしたかったから。もっと我儘でいいのなら、もう手離したりはしないと決めた。どんなやり方をしても閉じ込めておこうと決めた。大切に出来るかは置いておいて。口を抉じ開けてキスをした。唾液の絡まる音が聞こえた。その内、呼吸が早くなる息遣いも聞こえた。唇を離そうとすると、また引き寄せられた。三井さんはキスが好きで、その内キスだけでイってしまうのではないかと思うくらいだった。もっとも、実際にはそうはいかないのだけれど。
手で探っていると三井さんは、また俺の唇に近付いた。呼吸が出来なくなるくらい何度も吸い付いて、だから彼が飽きるまで放っておいた。そうしながら手は止めないでいると、彼は酷く気持ちよさそうにする。
「気持ちいい?」
「いいよ」
「あんたその内、キスだけでイっちゃわねえかな」
「さすがにそりゃねえだろ」
短く呼吸しながら夢中で俺に縋って喋るこの人を見て、どうしようもない感情が湧き上がってくる。
「あーもう、どうすんの」
「何が?」
「何かもう、堪んねえよ」
「だから何がだよ」
「堪んねえよ、くそ」
「は?」
「もう優しくしない。今決めた」
躊躇しないことを決めた。今決めたから、苦しそうにするのは予測出来たけれど、もう挿れてしまいたいと思った。挿れて擦って出してしまいたいと。だからそうした。三井さんは喘いだ。ちょっと待った、そう言われたけれど聞こえない振りをした。俺はずっと、この人に恋をしているのだと思っていた。でもそれだけじゃない。我儘になれるなら、もう躊躇わなくてもいいのなら、これを剥き出しにしてもいいのだろうか。子供みたいな我儘だけどあんたに言ってもいいのかな、そんなことを考えた。やり出したら止まらなくて、シャワーを浴びたのは結局、日付をとっくに跨いだ後だった。
「なあ?」
「何だよ」
「お前、欲しいもんねえの?」
「またその話?だからサプライズになってねえじゃん」
「そうなんだけどよー、お前物欲とかねえだろ」
「あるよ」
欲しいものはある。きっと同じものを、きっとずっと昔から。
「え、何?」
「内緒」
以前ならきっと、言葉にしていた。こう言えばいいだろ、とそんなことを考えていなくもなかった。嘘は吐いていないし昔から変わらないし、どうせ言った所で手に入る理由がないと思っていたからだ。生きて行くには何らかの理由が必要だと思っていて、でも俺にはそれがないから、この人がいつか消えるなら言っても構わないのだと。
枕に肘を付いて俺を見る三井さんを抱き締めて、ぎゅっと力を込めて抱き締めて、もう簡単には言えないと思った。これは恋なんかじゃなくてあからさまな独占欲だからだ。どこにもやりたくないし誰にも渡したくない、現実に戻る手段は空にしておきたかった。ここに置いておきたい。三井さんを強く抱き締めて、耳の辺りでぼそりと呟くように喋ると、彼の体は固まった。それから彼は、俺を抱き締め返す力を込めた。もうこのまま潰してしまいたい、跡形もなく。そう思った。
「お前それ反則」
どこにも行きませんように。俺の欲しいものはそれだ。恋は不在のまま、綺麗も汚いも分からない、ただの独占欲を残して。





終わり



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