短編

□密室のカメレオン
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さすがに疲れた。玄関のドアを開けて、深く息を吐いた。ゲーム中にはきっちりとしているスーツも今はネクタイを外して、ボタンも一つ外した。それでもどこか窮屈だった。着替えてえ、そう思った。疲れたし、腹も減ったし、今日の飯なんだろう。そうだった唐揚げ。唐揚げをリクエストしていたのを思い出した。水戸なら多分、唐揚げにも他に何か作っているだろう。腹が減った。とにかく減った。要は疲れた。
「ただいま」
リビングのドアを開けると、水戸はキッチンに立っていた。それを見付けた瞬間、安堵の息が漏れた気がした。おかえり、そう言った水戸は、いつものように薄く笑う。キッチンで手を洗おうと、シンクの前に立った。その左側には、揚げる前の唐揚げがある。オレが帰宅してから揚げようとしていたのかもしれない。
「浮かない顔してんな。今日負けたの?」
「いや、勝ったけど」
今週は、金土日の三日間ゲームをした。滋賀県で前日入りしたので木曜日に出発した。水戸には金曜日の夜電話をしている。勝ったと。次の日は酷く体が怠くて、ホテルのベッドに横になった直後眠っていたらしく、気付いたら朝だった。ここの所休日がないことも相俟ってか、疲労が溜まっていたのだろう。明日は休みにしている。
「つーかさ、今回のゲーム自体が疲れたのかもしんねえ」
そうだ。そうなのだ。これは自分自身に言ったのかもしれない。今回の遠征は、一風変わったゲームだった。
「どういうこと?」
「金曜日は圧勝だったんだよ。お前にも電話したろ?でも土曜日はボロ負け。大差で。で、今日は接戦」
波があり過ぎて帰ったら気が抜けた。最後呟くように言った。そこへ持って来て唐揚げだ。そりゃあ気も抜けて当たり前だ。疲れた、そう言って冷蔵庫を開けてビールを取り出した。
「お疲れさん」
水戸はオレを見上げ、頭を撫でた。この穏やかな目に安堵した。けれども逆に、久々に違う目も見たい、と何気に思った。久しく見ていない水戸の、獰猛な獣のような、あの目。一瞬だけ目を閉じて、それを思い出した。背筋に寒気がした気がして、堪えるように目を開けた。まあいいやビール。プルタブを開け、思い切り呷る。はあ、と軽く息を吐いた。意識がどこか、向こう側に行ったようだった。明後日だか明々後日だか、そのもっと向こう側に行ってしまったような。目に映るリビングは綺麗で、掃除も行き渡っていて、けれどもそれも、今は本当に目に映っているのか定かではなかった。とにかくぼんやりしていた。疲れてる、端的な言葉が一言脳裏を過ぎる。
「あんた隙だらけだな」
「え?」
水戸はオレからビールを奪った。それをキッチンに置いた。何?そう聞いても水戸は何も言わない。何だよ、同じように聞いても、水戸は何も言わなかった。ただ手首を掴まれた。見下ろした先の水戸の目は、少しだけ色が違う。表情も違う。変わった、ただそう思った。カメレオンみたいだ、頭の中に、普段なら浮かばない言葉が浮かんだ。たまたまネットの急上昇ワードに上がっていて、それでその記事を開いたのだ。本当に、ついこの間。カメレオンは色を変える。何色にも。細胞が様々な色に変化する能力があるらしい。それは外敵から身を守る為でもあるけれど、本当は光や熱を浴びると変わるというのだ。それも目で見て色を変化させるのではなく、体の皮膚が物体の光の反射を受けて変化させるのだそうだ。だから、自ら意識して変化させる訳ではないのかもしれない。相手によって変えるのかもしれない。でもオレはカメレオンじゃないから知らないし、水戸じゃないから分からない。水戸にとっての光や熱はオレ?そうだったらいい。そんなおめでたいことを考えながら、掴まれた手首を見遣った。
水戸はオレを引っ張った。足元はしっかりしていた。ただ疲れていた。異様に疲れていたのだ。今日は無理、早く飯が食いたい。そう思っているのに、否応無く引っ張られる体は容赦なく寝室に連れて行かれる。ベッドに放り投げられ、体がそこに沈む。スプリングが軋んで、音を立てた。そこかしこに酷く響いて聞こえた。この小柄な体のどこにこんな力が、そう思ったのも束の間、可笑しな考え方をしたことに自分でも笑えた。その力をオレは、何度も味わって思い知っているのに。
何がきっかけで、水戸にスイッチが入ったのか、オレには全く分からなかった。オレに跨り、見下ろした目が違う。優しくない。オレはただ、腹が減っていた。疲れている。隙だらけってどこが?聞いた所で今は答えないだろう。水戸は着ていた部屋着のパーカーを脱ぎ、ベッドの下に放った。その時、水戸の煙草の匂いが鼻を掠めて頭が揺れる。彼はTシャツを着ていたから、その腕が剥き出しになる。どうしよう腹減ってんのに。
「何しやがる」
「言わなきゃ分かんねえ?」
「腹減ってんだって」
「知るか」
「疲れてんの、オレ」
「だから知らねえよ」
カメレオンは本来、穏和な性質なのだそうだ。暴れるでも噛み付くでもなく、のんびりとマイペースなのだと。全然違うだろこれ。一応確認しておこうと、とりあえず抵抗してみた。掴まれた手首に力を入れてみる。びくともしない。腹が減ってるからやめろ、そう言った。水戸は一切聞かず、進められていく行為を止めようとしない。
「水戸、お前のスイッチはどこだ」
「さあ、どこかな」
「何がきっかけ?」
「隙だらけだからさ、いいかなって」
「そうかよ」
「もういい?好きにさせろよ」
背筋に這い上がって来る悪寒にも似た騒つきが、全身に回る。這いずり回るそれはまるで、毒に犯されていくようだった。オレは中毒者でもないし、毒だって飲んだことはない。例の時代に薬物になんて当然手も出していなかった。それでも毒の意味は知っていた。中毒者になる見知らぬ誰かさんの気持ちも分からないでもない。だってオレがもう、この男から離れることが出来ないからだ。
今度は体を捩ってみた。嫌でもないくせに、嫌だと言ってみた。手首を抑え付けるその掌を振り払おうと疲れ切った体を更に酷使した。水戸の手が出やしないかと多少の期待を込めて。けれども水戸は、力強く抑え付けることはすれど、手を挙げることもしなければ、噛み付くこともしなかった。カメレオンは本来、穏和な性質。それが頭の中に浮かんでは消えて行く。水戸の行為を受けて、空腹を忘れていく。口の中が弱点でキスが好きなことを知っている水戸は、容赦無く攻め立てた。優しくもあったし、激しくもあった。体を犯すやり方も、痛いほど強く激しくすることもあれば、優しく抉ることもした。交互にそれが行われて、呆気なく白旗をあげてしまう。もういいや、もうどうでもいい。そう思った。水戸が変わっていくのがオレのせいだったらいいと心底思う。もしかしてオレがここに閉じ込めたからかな、と奇怪なことを考えた。実際には閉じ込めてもいないし、自由に行動出来る。仕事にも行けるし、バレなければ浮気だってやりたい放題だ。オレは居ない時間が多いし、現に今週は四日も居なかった。こんなことはざらにある。でも、水戸が帰って来るのはここで、オレの隣で、言いようによっては密室に居る。出て行こうともしないで。この場所でオレの帰宅を待ち、一人食事の支度をして待っている。
何でこんな、くだらないことを考えるんだろう。腹が減っているから?それとも疲れているからか。違う、そうじゃない。
「唐揚げ食いたい」
「ああ、揚げて来るよ」
一度終わって起き上がれない体から発せられた声は、酷く掠れていた。その声に、笑いそうになる。ばつが悪いのを通り越して。水戸の表情はいつもと同じだった。温厚で優しくて、頭を撫でる掌すら、あった筈の凶暴性の欠片も無い。変わっていく様を見届けて、これを見届けるのはいつまでもオレであったらいいと思う。
「お前なあ、あれはねえよ」
それでも一応、文句は言ってみる。一応だ。
「何が?」
「腹減ってるって言ってるし疲れてるっつってんのに」
「はは。でも本気じゃなかったろ?」
ご名答。けれどもそれは、秘密だ。もっとも、秘密にも何もなっていないだろうけれど。
「本気だったらあんた、とっくに逃げ出してるよ。縛り付けてる訳じゃねえし、足も付いてるだろ」
逃げねえよ誰が逃げるか。これも秘密だ。答えない代わりに舌打ちをした。すると水戸はいつものように、ガラ悪いなあ、と笑った。
オレの頭を撫でていた掌を外し、体を起こした。唐揚げ食いたいと言ったからだと思う。勿体ない、そう思った。自分から言い出したのに。水戸をじっと見ていると、不意に目が合う。すぐに唇が近付いて、触れるだけのキスをした。
「まあ、逃がすつもりもないけどね。俺のもんだから、もう何してもいいの」
ぎょっとして思わず口を噤んだ。さっき奇怪でくだらないことを考えた理由が、今ようやく分かった気がする。腹が減っているからでも疲れているからでもない。水戸を捕まえたと思っていたけれどそうじゃない。そうじゃないんだ。認めたくなくて、でももう分かっちまったから、認めざるを得ない。だって気付いてしまったら怖いじゃないか。
起き上がった水戸は、ベッドの下に落ちている着替えを拾い上げた。下着から順に履き、無駄のない背中も力強い腕も隠れていく。
「ちょっと待ってな」
寝室から出て行った水戸を目だけで追い掛けながら、小さく声を出した。どこにも逃げねえよ、そう言った。水戸には聞こえていないだろう。もう出て行ってしまったからだ。だってもう、逃げられねえだろ?
密室に捕らえられているのはオレの方だったから。





終わり



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