短編

□悪癖に横顔
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ただいまー。疲れていたから間延びした口調になってしまった。リビングを開けると無音だ。あれ?余りに静かで部屋が明るいことが逆に違和感だった。俯いていた顔を上げると、水戸はソファに座っていた。
「おかえりお疲れさん」
目に最初に入ったのは、水戸の横顔だった。あと、ローテーブルには何かが散らばっているのが見えた。全体的に見渡すと、オレを全く見ることのない水戸の横顔と部品が並んだローテーブルが映る。水戸はオレを見ることなく何か作業していて、その上それに夢中になっている。
「おいてめえ、こっち見ろ」
「メシ出来てるよ。俺は食ったからあんたも適当にどうぞ」
「おい!」
「ちょっとごめん、黙ってて」
唖然とした。口があんぐりと開いて、しばらく立ち止まった。お前はオレ以外で何に夢中になってやがる!と思いっきり言ってやろうとソファに近付いた。当て付けのように足音を鳴らし、その横顔に近付いて怒鳴り付けてやろうと。近付いてみると、ローテーブルには細かい部品が散らばることなく並んでいて、小さな工具と、それから箱があった。箱には水戸が好きそうなリアルなバイクのイラストだか写真だかが載っていて、オレでも知っている某模型メーカー名が記載されている。何だ模型?純粋に疑問で、首を捻った。
「何これ」
「んー、バイクの、模型」
作ってる。水戸は一点集中して作っているのか、言葉も途切れ途切れだ。それもそのはず、小さな部品をピンセットでこれまた小さな部品に取り付けているからだ。箱には十二分の一スケール、と分かりやすく記載してある。水戸は誰から見ても分かるほど集中していた。横顔で嫌というほど分かる。となると当然、一度たりともオレを見ようとしない。けっ!息を思い切り吐き出して、嫌味交えてその一言だけを発し、キッチンへ向かった。ダイニングテーブルには野菜サラダとドレッシング、大根と油揚げの煮物があった。コンロには鍋が置いてある。蓋を開けると驚いた。
「豚の角煮じゃねえかよ、すげえじゃん」
「うん」
「今日時間あったの?」
「うん」
「お前オレのこと好き?」
「うん」
「話聞いてねえだろ」
「うん」
こんのやろう!と言ったものの返答はない。聞こえるように舌打ちをしてから、コンロに火を点けた。勿論水戸は無視している。しばらくして鍋がぐつぐつと煮えて来て、角煮のいい匂いがして来た。そういえば以前も水戸が角煮を作っていたことがあって、すげえ!と言ったことがある。すると奴はこう言った。ほっとけばいいから簡単だよ、と。そんなもんか、とは思ったものの、抜群に美味かったから何も言わなかった。今日も同じだと思う。匂いも色具合も一緒だからだ。温めた角煮を皿に装い、ビールを持ってダイニングテーブルに着いた。いただきます、と手を合わせ食べ始める。時々ソファに目をやると、水戸はずっと沈黙したまま手先を動かしていた。放っておけばいい、そう思う。あの横顔を見ていたらいいじゃないか、と。何故なら水戸の表情は真剣で、そこに集中していて、オレがあまり見たことがない類の顔だからだ。いい顔してんなあ、と何気なく考えながら、水戸が作業している姿を盗み見ていた。
器用な指先が小さなパーツを順に取り付ける。あれは接着剤だろうか、確認してからまた次の作業に移っていた。ピンセットで部品をつまみ、また同じように接着剤を付けている。目が近い、そう思った。時々瞬きする。すると水戸は立ち上がり、自分のトートバッグから何かを取り出した。ああメガネ。メガネを掛けてまた作業する。その一連の流れを見ながら、段々悪くないと思えてくる辺りが末期だ。
ごちそうさま、そう言って食べ終えた食器を片付けた。今日も美味かった。豚の角煮がほっとけば出来るものならオレにも出来るのかもしれない。一瞬だけ考えたけれど、無理だな、と諦めた。オレの手には合わない。そう思った。きっとバイクの模型も。オレの手には合わない。食器を洗うことなく水戸に近付いた。彼が真剣に作っていたものを間近で見たかったからだ。ソファにそろりと近付き、水戸の隣に座った。まじまじと見ると、おお、と思わず声が出る。バイクの形になっているからだ。
「すげえじゃん」
そこで手を伸ばした。模型に触れようとした。
「バカ触んな!まだ乾いてない」
驚いた。水戸がオレの手首を強く掴み、割と大きな声を出して触れようとしたのを制したからだ。水戸はあまり、というよりほとんど声を荒げない。しかもこんなに強く掴まれることもない。やべ、そう思った。鷲掴みにされた気がした。
「ごめん、まだ接着剤乾いてねえんだよ。だから触んないで」
「わり」
「あと三十分待って。もうちょい」
うん、そう返すと水戸はまた作業を始める。オレの心臓の動きは未だに早い。バカ触んな、バカって言いやがって。悪態を吐きたくはなったけれどやめておいた。オレが喋らないからかこの部屋は静かで、テレビも点いていないから水戸の作業音しか聞こえない。ニッパーで部品を切り離し、また接着剤で付ける。その繰り返しだった。メガネを掛けて真剣な表情で、仕事中はこんな感じなのだろうか、と何気なく考えた。
「なあ」
「ん?」
「話してもいい?」
「どうぞ」
水戸は未だにこっちは見ないけれど、口元が多少緩む。くたびれた部屋着のパーカーからは変わらず煙草の匂いがして、水戸の匂いと入り混じる。同じくくたびれたスウェットに素足だ。手は相変わらず無骨で、節が目立っている。指先までこいつには無駄がないんだよなあ、と作業する水戸を見ながら思う。喧嘩をたくさんしてきたからか、もしくは職人だからか、或いはその両方か。
「何で急にバイクの模型作り始めてんの?」
「忠が面白えって言ってて俺も何となく。始めてみたら面白えんだよね、これが」
「へえ」
「出来たら飾ろ。テレビの横辺り」
「ははっ!お前もそういうことしたいんだ」
「まあたまには。つーかさ、永瀬モーターの将棋大会の参加賞の景品知ってる?」
「知らねえよ」
水戸がこちらを見た。緩く笑うその表情が、オレを見る水戸が、少しだけ変わった気がする。上手く言えないけれど、唾を飲み込みたくなるような、水戸の表情を確認するふとした瞬間、オレは喉が乾くことが時々起こる。
「ミニカーなんだよ。しかもちょっとレトロなやつ。クラシックカーとか昔のタイプの。社長がそういうの探して自分で梱包してんだけど、俺はあれがいいんだよね。AVなんか要らねえっつーの」
はは、と水戸はまた笑った。以前よりずっと距離が近い、そんな気がした。目に見える肉体的な距離ではなく、精神的な見えない距離が。その表現し難い距離感に、どうにも慣れない時がある。だからオレは唾を飲み込み、覚束なくなる指先を遊ばせる。親指で指先を構って、何でもない振りをする。それから、どうでもいい会話で馴染ませるのだった。
「お前結局、あれどうしたの?」
「大楠にやった。あんたに有らぬ浮気疑惑掛けられてもめんどくせえし、また変なこと言われたらもっとめんどくせえし」
「へーへーすみませんね」
「拗ねんなよ、めんどくせ」
「悪かったな」
その後はしばらくの間黙って、水戸は作業した。静かで、ゆっくりで、たったの三十分が異様に長い。まだ終わんねえの?まだ?そう言うと水戸は、三十分って言ったろ?とぼそりと呟いた。それからまた少ししてつまらなくなって話し掛けると、あんたは相変わらずめんどくせえんだよなあ黙ってろよ、そう返された。すみませんねー、と放り投げるように言ったものの、水戸の表情は決して鬱陶しさを滲ませたものではなかった。めんどくせえって顔じゃねえよ、と言いたかったけれど言わなかった。距離感が掴めないからだ。
水戸は今、オレが触れられる距離に居て、それは不安定なものではなかった。蜃気楼でも幻でもなく現実。実体がそこにある。オレと水戸。交わることも交錯することもないと信じていた内側の過去の距離が、今は一本の線に近付いている。ちくりと痛んだ。体の中が妙に痛かった。何だろう、と水戸の横顔を見ながら考えてみるけれど、答えも正解も分からない。ただキスが欲しい、とは思った。横顔からも確認出来るその薄くて翻弄する唇が欲しい、とは思った。だから三十分が早く経てばいいのに。早く早く。そんなことを、見慣れた筈の横顔を見ながら思う。時に何故だか見慣れない表情に見えても。痛む心はとりあえず放っておいて。
「はい三十分」
「え?」
「ちょうど三十分だろ」
「あ、そうだっけ」
「どうすんの?教えてよ」
「分かってんだろ?」
そう言うと水戸は、また声を出して笑う。あどけなさを滲ませた歳下の表情に、また鷲掴みにされる。真剣な表情を見せたり、子供のようにいわけなく笑って見せたり、横顔も水戸の表情も全てが、オレを掴んで離さない悪癖のように思う。中毒性のある悪い癖に自分から逃げ出すことはとても容易に出来なくて、躊躇なく自ら嵌まり込むんだ。もっとも、逃げ出そうとする気もないのだけれど。
掛けていたメガネをローテーブルに置いてから近付くその唇を見詰めながら、また翻弄されてしまうと諦める。胸の痛みも体の不自由さも遠くの方に放り投げて、それでも上手く放り投げられない部分だけは代わりに、覚束なかった指先に力を込めて、水戸の体を引き寄せた。キスがしたい、近付く唇に追い打ちを掛けるようにそう言った。繰り返されるキスを堪能しながら、オレは思う。
痛いのは、不自由なのは、水戸に好かれているからだと。その愛情の深さを目の当たりにしたからだ。きっと水戸は知っているし気付いている。痛みも不自由さも、それをオレが狡く隠していることも全部。でも水戸は知らない振りをする達人だから、全てをその横顔に隠すんだ。ずっと隠したまま。ほっとけばいいから簡単だよ、何故だか急に、水戸の声を思い出した。






終わり



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