短編

□負け猫男子
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玄関を開けても、水戸のスニーカーはなかった。現在午後八時。最近、水戸の帰宅は遅い。仕事が詰まっていると、本人からは聞いていた。かく言うオレも、仕事が詰まり放題だ。明日から沖縄に遠征に行く。遠征前だから早めに切り上げてはいるけれど、ここの所この時間に帰宅することは滅多に無かった。勿論休みもない。イコール、水戸と休みは重ならない。え、何それ。玄関でスニーカーも脱がずにそれを見下ろし、オレは一旦停止した。え、何だそれ。同じような言葉を、頭の中で反芻するのだった。一旦停止した足はなかなか動こうとせず、立ち尽くしたままだった。あれだけ熱烈な雰囲気で台風みたいな事態が終息したのに休みが合わないってどうよ、要はそういうことだった。何だよそれ最近ろくに話もしてねえよくそ!次は舌打ちを一つして、スニーカーを乱雑に脱いだ。何かの当て付けか八つ当たりか、揃えることは勿論しない。もっとも、いつも脱ぎっぱなしと言われたらその通りなのだけれど。
リビングに続くドアを開け、ただいま、とぼやくように声を出してみるけれど、口の中にくぐもったような声は室内に響くこともしなかった。灯りを点けて、そこは明るくはなるものの人の気配もなければ暖かくもない。気付かないうちに、オレはまた一つ舌打ちをしていた。ガラ悪、水戸の声が聞こえた気がした。キッチンで手を洗い、冷蔵庫を開けた。缶ビールを一本取り出し、プルタブを開ける。それに口を付けながら、今日は何を作ろうかと考えた。最近水戸の飯を食べていない。水戸の帰宅が遅いからだ。そうなると自然に、オレは外で食べてから帰宅することが増える。自身も帰宅が遅いということもあるのだけれど。だからこそ、たまには作ろうと思った。しかし、作るものが決まらない。参った。水戸ならさらっと決められるだろうに、オレはそれも出来ない。冷蔵庫は未だに開けっ放しで、水戸がここに居たらそろそろ注意される頃だ。早く閉めろよ、オレが冷蔵庫を開けたままぼんやりしていると、水戸はいつも言う。炒飯でいいや、そう思った。鍋には今朝のスープも残っている。
オレが作る炒飯は、いつもべちゃべちゃだった。何でだろう、とは思うのだけれど、改善しようとは思わなかった。何でだろう、とそこも考えたけれど、水戸が作り方が上手いからだ、とすぐに納得して考えることを止めた。作り終えて食べると、やはりべちゃべちゃしていた。水戸が作る炒飯にはポイントがあるのだろうか、そんなことを考えながら食べた。教えられた通りに作ればこんな風にはなんねえよ、水戸は薄く笑ってそう言って食べる。それ以外は何も言わない。不味いとも言わないし、じゃあ美味い?と聞けば、これはこれで、と返って来る。ああそうか、と思った。オレは水戸の、そういう部分も好きなんだ、そう思った。炒飯を口に運びながら、べちゃべちゃだ、と思いながら一人頷いた。そして、上手く作ろうとしないのは、水戸に作って貰いたいからだと今更知った。
ポケットから携帯を取り出し、水戸の名前を出した。もし出なければメールにすればいい。着信履歴からその名前を見付けてタップする。すると三コール目で、はい、といつもの声がする。
「オレ」
『うん、どうした?』
「まだ終わんねえ?」
『うーん、十時くらいにはこっち出れるかな』
「メシ作ったから帰ったら食えよ」
『珍しいね。どうも』
会いたいなあ、それは言わなかった。言えなかったから変わりに黙ってしまう。すると、口を開いたのは水戸だった。
『あんた明日から沖縄だろ?待ってなくていいから寝てな』
「分かってるよ」
『ならいいや、じゃあね。おやすみ』
ぷつりと切れた声は、呆気なく無くなってしまう。残ったのは無機質な音だけだった。つまんねえの、携帯をテーブルに放って、また炒飯を食べた。何度口に放り込んでもべちゃべちゃだ、ふっと笑いながら、それを食べ終えた。
シャワーを浴びて、パッキングも終えて、時間は十時半近かった。水戸が帰宅する気配は無くて、仕方ないから寝室に入った。そうだよ明日も早いんだから。自分に言い聞かせながら、ベッドの中に入る。沖縄へは羽田空港から飛行機で行く。明日は電車を乗り継いで羽田、それから沖縄、着いたらホテルに荷物を置いて先に昼食、ミーティングをしてからコートで練習をして、最後にまたミーティング、頭の中で明日のスケジュールの確認をして、早く眠ってしまおうと決める。寝る寝る寝る、目を閉じてみるけれど、一向に眠くならない。寝室は真っ暗だ。だからいずれ眠れる。よし寝る、けれども何度同じことを考えても眠れない。
仕方ないからもう、隣にある水戸の枕に顔を埋めた。水戸の匂いがして眠れると思ったからだ。が、逆効果に終わる。目が冴えた。一緒になって、電話口の声を思い出したからだ。どうした?から始まり、おやすみ、で終わった。腹立つなあ眠れないから付き合え、そう思った。水戸が忙しくて話す暇も無いのが悪いからだ、それも考えた。自分の掌が、自然と動いた。水戸の掌や指を思い出した。水戸の指は、なぞるように触れる。時々乱暴にも触れる。その指先に参ってしまう。唇も同じだ。なぞるように触れ、舌も同じで、歯は時々噛み付く。甘噛みする時もあれば、齧るように歯型を付けることもある。それにも参ってしまう。脳味噌にはそれが焼き付いている。何度も何度も、幾度となくした行為が。
オレの手はもう、自分自身に触れていた。上下に動かした。水戸を思い出した。声が漏れる。枕に顔を埋めると、水戸の匂いが直接脳に響いて来るようで体が痺れる。それは酷い快感に繋がる。ああもう何かイキそう。水戸はよく、早いだろ、と呆れる。お前のせいだ、そう思うのに声が出ない。呼吸しか出来ない。息が上がる。短く上がって、いやらしい声が漏れる。その時、リビングのドアが開く音がした。水戸が帰って来た。やばい、とは思った。見付かったらさすがに恥ずかしいだろ、とも思った。けれども何故か、焦りも羞恥もなくて、寧ろ興奮した。はは、変態。自嘲した。水戸が居る、そう思えば思うほど、擦る手に力が篭る。上擦った声が酷くなる。耳に届いて、それだけは嫌だった。オレはどうしても、自分の喘ぎ声が好きになれなかった。昔からだ。昔から苦手だった。どちらかといえば喘がせたい。水戸を喘がせたい。水戸のそういう、いやらしくて切羽詰まった表情が見たいし、声が聞きたい。だから触れたい。それでもいつも、水戸の行為の仕方に参ってしまって負ける。戦う前に負ける。試合放棄と一緒だ。
思い切り鼻から息を吸い込んだ。やはり水戸の匂いがした。この枕は水戸の匂いがして、抱き締められている錯覚を覚えた。水戸のせいだと思った。オレがこんなことをするのは。その時だった。真っ暗だった部屋に、光が差し込んだ。
「三井さん?」
寝室のドアを開けられ、リビングの灯りが大きく差し込んだ。逆光だか自分の頭が麻痺しているのか、水戸の声はするのに姿ははっきりしない。影のような姿がベッドに近寄る。それを目で追った。水戸だった。見付かった。そう思った。奴は聡いから、すぐにバレるに違いない。
「え、あんた何やってんの?」
何って言われても一人でやってんの悪いかよお前の枕に顔埋めて。しょうがねえだろお前毎日遅えから。言わない代わりに目で訴えた。水戸は何も言わないからオレから手を伸ばして、その右手首を掴む。相変わらず体温が低い。差異を今、酷く感じる。
「手伝って、悪いけど」
「え?」
「今いいとこなんだよ」
「達人だ」
「何の?」
前は怒らせる達人だと言われた記憶がある。
「俺を煽る達人」
手伝われる前に布団をひっくり返して上に乗っかられて、噛み付くようなキスをされた。それだけで出そうになって、でも勿体ないから我慢した。水戸はオレを、強く噛んだ。でもその逆に指先は優しかった。そのアンバランスさにいつも降参する。参ってしまう。その反面、やはり自分の声は好きにはなれなかった。オレも水戸を喘がせたくて噛んだ。舐めた。キスをした。けれども水戸は鳴かなくて、どうしたものかと一瞬だけ考える。何故一瞬なのか。水戸の手や指先、その唇や舌に何も考えられなくなるからだ。どうでもいいと、その存在全てに敗北するまであと少し。




「腹減った」
「炒飯あるよ」
べちゃべちゃだけど。苦笑しながら言うと、水戸も笑ってオレの頭を撫でた。手を離して起き上がり、ベッドの下に手を伸ばしている。Tシャツを取っているのだと思う。案の定水戸はすぐに着替えた。こいつはいつもそうだ。終わるとすぐに服を着る。
「あんた知らねえの?あれはあれで悪くないんだよ」
「知らねえなあ」
嵐のような行為の後は、嘘みたいに穏やかだった。水戸はベッドに腰掛けたまま尚、オレの頭を撫で続けている。あまりの心地良さに眠ってしまいそうになった。この手は駄目だ。オレをとことん駄目にする。勿体ないから目を開けているけれど、少しでも気を緩めたらアウトだ。
「今日はどうしたの?帰ったらあんたがあんまり可愛いことしてたからびっくりした」
「可愛いって何それ」
思わず吹き出すと、水戸も笑う。
「俺の枕に顔埋めて、男としては応えないとって思うよね」
「はは、やって正解だったな」
「あー、腹減った」
「だから炒飯あるって」
「食って来るよ。せっかくだから」
炒飯があると言ったのは自分なのに、離れてしまうのが惜しくてその手を掴んだ。側に居て、側に居て欲しい、寂しい、寂しかった。離れて行く体にオレは、有りっ丈の気持ちをぶつけた。掴んだ手首に力を込めて。
「お互いに忙しいと、寂しいもんだね」
「え?」
「あんたは明日から沖縄だろ?」
通じたのかと思って驚いた。声が出ない。
「まあ、頑張って来なよ。待ってるから」
水戸はその手を離し、立ち上がる。腰をぐるりと回して、寝室から出た。
オレは欲深い。そう思った。地位も名誉もそれなりに欲しい。プライドが高いことも自負している。それに加えて、あれが欲しいと望み続けて早十年と少し。もうすぐ十一年になる。敗北宣言なんて誰がするか。強欲な自分に告ぐ。
リビングでべちゃべちゃの炒飯を食べている水戸を、それを悪くないと思っている水戸の姿を想像しながら、オレは目を閉じた。





終わり



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