短編

□常夜灯ブルース
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俺が産まれたのは三月十二日の夜中だったらしい。十六の母親が何時間も掛けて産んで、その晩は一晩中辛かったと、そう言っていた。そしてその日の明け方、夜明けの海を見て「洋平」と名付けた、と言っていた。ここまでは、いい話だね、で済む。実際の所は知らないし、母親しか分からない。もしかしたら後から取って付けたのかもしれない。何故そう思うのか。答えは簡単だった。俺が物心ついた頃から覚えているのは、夜中に母親と祖母が怒鳴り合う声だったからだ。
あの子が居たら何も出来ないじゃんあの子愛想ないし懐かないし全然あの人にも会えないし大損だよ産むんじゃなかった!
一息で捲し立てるように言うと、祖母は母親を殴った。
大きな声出さないでよ洋平が起きるじゃないあなたがいつもいつも放っておくからでしょ子供は敏感なの母親なんだからしっかりしなさい!
この時点で俺はもう、起きるんじゃなかった、と項垂れた。あんたも声でけえんだよ母親と変わんねえよ、と息を吐いた。女同士のいざこざには興味がなかったけれど、ここまで来ると酷過ぎる。めんどくせえ寝とけば良かった、すぐに踵を返し、子供らしからぬことを考え、すぐに布団に入った。怒鳴り声は延々と続き、次第にそれは子守唄のように聞こえて来る。ついには消えた。眠ってしまったからだ。こういうことは何度かあった。何度かあった末に、母親と祖母は目を合わせなくなった。それ以前にあの母親は、あの怒鳴り合いをする以前もっと前から、すぐに帰ってくるという言葉を残しては居なくなっていた。それで時々帰宅する度に祖母と喧嘩をする。こっちの家が帰宅する側なのか、はたまた寄り道なのか、この頃の俺にはもう、分からなくなっている。
明るい部屋に帰ることは段々と減っていき、真っ暗な部屋に自分で灯りを点けることばかりになった。こんなもんなんだろうなって諦めて、その内にそれが当たり前になっていく。




「おめでとう」
ベッドのヘッドボードに凭れながら俯いていた顔を上げると、俺の体の上でごそごそ動いている三井さんと目が合った。今日の夜彼は遠征から帰って来て、夕食風呂と終わらせて今はベッドの上だった。一度終わってから妙に俺の体の上に乗っかって来るから、正直何なんだと思っていた。更に、おめでとうと来たもんだ。意味が全く分からない。何かあったっけ?首を軽く傾げると、彼はふっと笑う。
「おめでとうって何?」
「お前はほんと、自分のことには疎いんだよなあ」
そう言って彼はまた、ごそごそと俺の体を漁った。舐めたり軽く噛んだり痕が残らない程度に吸ったりする。
「えーっと、まじで何」
もういい加減分からない。降参だと両手を上げると、その行為をやめてまた俺の顔を見上げる。
「誕生日だろ?だからおめでとう」
三井さんは傍に置いてある携帯を取り、午前零時を二分ほど回ったデジタル時計を見せる。三月十二日、午前零時二分。なるほど、それでおめでとう。
「どうも」
「お前はほんと、祝い甲斐のねえやつだな」
三井さんは息を吐いて呆れたように言ったのだけれど、慣れていないものだからどう返していいのか分からない。元々誕生日というもの自体に慣れていなかった。小さな頃、ばあちゃんが祝ってくれたことはあるけれど、中学生に上がってからは無いに等しい。もっとも、連中と騒いだ記憶はあるのだけど。それでも、面と向かって言われたのは久々だった。去年の今頃は三井さんもシーズン真っ只中の最中に引っ越し騒動があったので、気が付いたら過ぎていたような気がする。一昨年のことは全く覚えていない。
ガキの頃ばあちゃんは必死だったんだよな、と今頃になって酷く思い出す。あの頃の俺も今と同じで、どうも、としか返していなかったように思う。捻くれたガキ、思わず苦笑した。
「何?どうした?」
「いや別に」
「よし、上に乗ってやるよ」
「はは、気前いいな」
「だろ?」
躊躇なく上に乗って、三井さんは自分から俺のものを入れた。歪んでいく顔を下から眺めながら、気持ちいいとただ思う。いい眺め、と言うと、三井さんは喘いだ。こういうのほんと好きだな、と揶揄うように言うと、何かぽつりと呟いたように聞こえた。何?と聞いても彼は答えない。代わりに体を寄せて、ぎゅっと抱き締められる。水戸が好き、と三井さんは言った。俺もだよ、と抱き締め返して言うと、彼は必死に動いた。その行動に、思わず息が上がる。衝動的に彼の肩を噛むと、また鳴いた。耳元で声を聞いて、堪らなくなる。唇を肩から外し、三井さんにキスをした。舌を入れた。絡まる舌を引っこ抜きたくなる。けれど勿体ないから止めた。軽く舌を噛むのを三井さんは好んだ。だからそうすると、もっと動く。もう切羽詰まってきて、イキそう、と俺は言った。三井さんのものも握って扱くと、また彼は喘ぐ。何だろうこの感じ。胃袋の底から得体の知れない何かが湧き上がるようだった。
この人を抱くと時々、無性に泣きたくなる。
翌朝、三井さんはぐっすりと眠っていた。先週は木曜日から居なかった。こういう時の月曜日は大概、午後出勤か休日かどちらかだ。今日はどうなのか、その辺りは知らない。俺達は未だにこんなもんだった。それでも朝食にとベーコンエッグだけは作っておいた。流石のあの人も、パンを焼いてコーヒーくらいは淹れられる。弁当を詰める時にも、三井さんは起きて来なかった。疲れてんだろうな、と考えながら、俺も職場に向かった。
その日は珍しく、朝仕事中にメールが着ていた。昼休みになって確認すると「今日は休み。メシも作っとく。残業禁止」と書いてあった。え、命令?唖然としたけれど、まあいいや、と携帯を閉じた。弁当を取り出して食べ始めていると、社長が奥から出て来る。そして、洋平、と声を掛けて来た。はい、と彼を見ると、子供のように目をきらきらさせている。
「お前今日誕生日じゃねえ?」
「ああ、そうですけど」
特に抑揚無く返すと、何故か湧いた。最初に声を上げたのは藤田だった。
「え、水戸さん十二日でしたっけ?三月ってのは覚えてたのに!バカ!オレのバカ!」
「大丈夫だ。お前は元々バカだから心配すんな」
「今度お祝いしましょーよ、ね!」
「要らねえよ別に」
めげねえな相変わらず、そう考えながら溜息を吐くと、藤田はもう、やる絶対やる!と意気込んでいた。
「今日は何かすんのか?」
そう言ったのはやっさんだった。
「多分三井さんがメシ作ってくれてると、思います」
妙にばつが悪かった。ばつが悪いというよりも、言葉に詰まるような。唾を飲み込んでから、どうにも所在無くて下の方で空いている左手を握る。
「へえ、三井コーチが。あのクールそうな三井コーチが何作ってんのかね」
「は?!クール?!」
握っていた左手のこともあっさりと忘れ、ぎょっとして思わず声が大きくなる。クール?あの人が?自分から上に乗るような奴が世間的にはクールに見えんのか世も末だ。それは勿論言わなかったけれど、予想に反した彼のイメージだった。でもよくよく考えてみれば、テレビだの雑誌だの、マスコミ媒体で見せるあの人はそうなのかもしれない。笑いそうになる。実際吹いた。
「え、そんな違うの?実際は」
「あーまあ、クールではないと思いますよ」
「へえー」
やっさんだけでなく、周りも全員驚いていた。俺からしたら、クールに見られているあの人という存在が驚きだった。ずぼらで家事をほとんどしないような人が世間からはクールって言われんだ背が高くて男前って得だな。心の中で悪態を吐いた。本人がここに居たら、きっと同じことを俺は言うだろう。
「しかしまあ、洋平も彼女と誕生日じゃなくて先輩って辺りが寂しいよな」
「はは、そうでもないですよ」
「そっかぁ?」
そうしてその話題は済んだ。俺は弁当を食べて一服して、午後の仕事を始めた。その日は本当に残業を止め、六時には仕事を終える。帰宅したのは六時半だった。玄関を開けると、廊下もリビングも灯りが点いている。何故だか酷く安堵して、洗面所で手を洗った。リビングを開けると、三井さんがキッチンに立っている。
「おかえり」
そう言われた瞬間、安堵した理由を知った気がした。ああそうか、そう思った。自分で灯りを点けなかったからだ。ここにこの人が待っているからだ。居なかったとしても、三井さんは必ずここに帰って来るから、だから俺は息を吐いて吸える。
「ただいま」
「見ろ、美味そうだろ。ナスと挽き肉のボロネーゼだ」
「また何語だよそれ」
俺もキッチンに入り、冷蔵庫を開けてビールを取り出した。既に三井さんは飲んでいて、摘みながら作っていたようだった。その時、冷蔵庫の中にそこそこ幅を取っている箱が見える。
「あ!てめ、見てんじゃねーよ!」
「え、これケーキ?」
「お前はほんとデリカシーゼロだな」
「食わねえよ?俺」
「こういうのは雰囲気が大事なんだよ、ほら座っとけデリカシーゼロめ」
「はいはい、ごめんね」
座る前にベランダへ行った。煙草を一本口に咥え、そのまま向かった。ベランダに出ると、風はもう冷え込んではいなかった。今日は日中も暖かかったし、冬も終わったのだと実感する。煙草に火を点けると、舞う煙も柔らかく見える。揺れが緩慢だと、そう思う。しかしまあ、まさかケーキまで買うとは思わなかった。俺甘い物嫌いなんだけど、そう思うのに全く嫌ではなくて酷く擽ったくて、玄関を開けた瞬間を思い出した。廊下もリビングも明るい、あの色を思い出した。自分で点けない灯り。あの人と住み始めたあの頃からそれがあることを知った。
リビングに戻ると、横文字のパスタとサラダと赤ワインとグラスが用意されている。これ完全にあんたの趣味だろ。
「なあ」
ダイニングチェアに座り、三井さんに声を掛けた。ん?と、まるで気にも留めない様子で俺を見る彼には、何を言っても仕方ないと思った。それで結局、言うのを止めた。でもこれはきっと、諦めでも何でもない。
「いや、食べようか」
「おう、食え食え」
「いただきます」
箸が欲しい、とも思った。けれど用意されたフォークで食べた。一口食べて、素直に思う。
「美味いよ、凄く。ありがとう」
「え、何どうしたのお前」
「何って普通に感謝の言葉だろ」
呆れたように言うと、それでも三井さんは嬉しそうだった。さっき言ったのは本当だ。美味かった、凄く。凄く美味くて、後はあまり喋ることが出来なかった。だから今日もまた、三井さんが喋ることに対して、ああ、と、うん、しか言わなかった。そうでなければ、何度も美味いと言いそうだったからだ。喉が詰まった。だからパスタと一緒に飲み込んだ。言葉が上手く出て来ないから、飲み込むしかなかった。口下手でごめんね、そう思ったのだけれど、それも言えない。言えないから代わりに、三井さんの言葉に相槌を打つしか出来なかった。この人を酷く愛しいと、そんなことを考えながら、いつもと同じ相槌を打つ。
全て食べ終え、ごちそうさまでした、と手を合わせる。すると彼は立ち上がり、冷蔵庫に向かった。きっとケーキの箱を出す。三井さんは、ちょっと待ってろよ、と言うと、何やらキッチンで作業をしている。そこから運ばれて来たものに、俺は口を開けた。
「じゃーん!」
「……ってこれホールじゃねえかよ。こんなに食えねえって」
「だからー、こういうのは雰囲気だろ雰囲気。分かんねえやつだな」
出された物は、見事にホールケーキだった。ご丁寧にハッピーバースデーと書かれたチョコのプレートまである。しかも数字の蝋燭付きだ。これもまたご丁寧に、2と6が刺さっている。
「何かもう、すっげえ恥ずかしいんだけど」
「ざまあみろ、嫌がらせだよ」
「タチ悪いなあ」
苦笑はしたけれど、これも嫌ではなかった。世も末だ、と自分自身に思った。蝋燭に火を点けろと言われたので、持っていたライターで火を点けた。すると彼は、リビングの灯りを消す。え、まじで?ぎょっとして三井さんを見ると案の定、ほら消せ!とせっついた。ほんとにやだ、と言うものの、彼は消せとしか言わない。舌打ちを一つしてから、仕方なく息を吹いて火を消した。一瞬部屋が真っ暗になる。それからすぐに灯りが点いた。真っ暗な世界から、明るい場所に放り投げられたような、また妙な気分になる。
「なあ、これ罰ゲーム?」
「んな訳ねーじゃん」
「嘘だろ、罰ゲーム以外の何物でもねえよ」
「はは!ざまあみろ」
やっぱ罰ゲームじゃん、ぼやくように言うと、彼は歯を見せて笑った。
「水戸」
「ん?」
「誕生日おめでとう」
その言葉を聞いて、暗い部屋を思い出した。自分で点ける灯りを思い出した。大損だよ産むんじゃなかった、そう言った母親を思い出した。なあ、あんたが大損で産んだ子は、今本当に。
「ありがとう、三井さん」
幸せに生きてるよ。





終わり



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