短編

□月を齧る
1ページ/1ページ


「31日の夜空けといて」
水戸にそうメールを送ったのは三十日のことだった。十二月の年末、今年ももう、今日で終わる。十二月三十一日、今日は大晦日だ。水戸からの返信は「了解しました」だった。酒とつまみを大量に買い込んで、勿論泊まるつもりで水戸のアパートに向かった。見慣れた鉄階段を上り、インターホンを押すことなくチノパンのポケットから鍵を取り出す。買い込んだ瓶類が、がちゃがちゃとうるさく鳴った。ビニール袋があって上手く出て来ない。ポケットをごそごそしてようやく取り出し、鍵穴に鍵を差し込んで遠慮なくドアを開けた。
「水戸ー」
呼ぶと同時にスニーカーを脱いで、玄関を上がる。
「靴揃えた?」
「あーあー小姑め」
いらっしゃい、も、お疲れ、もなく水戸が最初に三井に掛けた言葉はそれだ。彼は三井の顔を見ることなくそう言った。三井がいつも靴を揃えないのを知っているからだ。三井は手土産の入ったビニール袋を一度置き、スニーカーを揃える。早く水戸と乾杯したくて、揃え方もおざなりだ。もう一度ビニール袋を手に持ち、彼の居る部屋に向かう。
「いらっしゃい」
「おう」
三井を見上げた水戸は、炬燵で煙草を吸っていた。テーブルにはホットプレートと野菜だけは準備してある。
「今日何すんの?」
「焼肉」
「すげー!最高!」
「だろ」
三井も炬燵に座り足を突っ込むと、既に暖まっているそこは酷く心地良い。冷えていた爪先が痺れるように温もっていく。三井は手土産の酒類を取り出していると、水戸がそれを覗き込んだ。何買って来たの?と問う水戸に、三井は、あれ?と思った。
「お前、何か違う」
「え、何?」
「あ!髪切ってる!」
「ああ、昨日切ってきた」
うわーうわー。三井は声にならない感嘆の声を心の中であげた。別段変わりないのだけれど、やはり切りたては違う。そういえば以前会った時は、前髪伸びたなぁと思っていたのだ。三井は水戸のそういう変化には詳しい。自分で言うのも何だけれど、水戸マニアだと三井は思う。
「なあなあ、何か可愛いんだけど」
「はあ?!可愛いわけねえだろ、気持ちわりーな」
「いやいや何だろ、まじで可愛い」
「バカにしてんだろあんた」
してないしてない、三井は含み笑いをしながらそう言って、水戸の髪に触れた。頭を撫でた。すると水戸は思い切り顔を顰める。
「やめろって」
「何で。いいじゃん」
「良くねえよ」
水戸はそう言うと、三井の手を払い除けた。水戸はいつもそうだ。普段は三井が触れるのを極端に嫌がる。例えば飯の支度をしている時でも後ろからのし掛かると、鬱陶しいとまで言うのだ。けれども三井は、嫌がられれば嫌がられるほどやりたくなる性だった。やってる時は平気なくせに、三井はそう思いながら口を尖らせた。
煙草を吸い終わった水戸は立ち上がり、冷蔵庫に向かった。ビール飲む?と聞かれたので、飲む、と返した。ずるずると寝転びながら水戸を追うと、彼はビールだけでなく焼肉用の肉も取り出している。この部屋は狭いから、足を炬燵に入れたままでも三井は十分覗き込めるのだ。もっとも、三井自身が長身ということもあるのだけれど。
「もう食うの?」
「飲むなら食おうよ。蕎麦も買ったし」
「いいね、この大晦日感がたまんねえ」
「あんた寛ぎすぎだろ」
「だってお前髪切ってるし可愛いし」
「関係ねえだろそれ。つーか触んなって。鬱陶しい」
「やだ!」
「あーもうめんどくせ」
触れていた三井の手をまた払い除け、水戸はビールとパックに入った肉を持って、また炬燵に戻って来た。はい、と手渡されたビールを受け取り、プルタブを開ける。かんぱーい、と言って缶を合わせてビールを飲み込むと、もう最高に美味かった。炬燵にビール、炬燵に焼肉、炬燵に水戸、どれに付けても最高だ。三井は一人頷いた。
水戸は既にホットプレートの電源を入れ、鉄板を温め始めている。
「お前ってどこで髪切ってんの?」
「鎌倉。昔から行ってる散髪屋」
「え?!まじで?」
「そんな驚くこと?」
「まあお前と美容院が結びつかねーしな」
「あんなとこ絶対行きたくねえよ」
「そう言われると余計に連れて行きたくなるな」
「ぜっってえやだ」
その嫌がり方に思わず笑った三井は、また水戸の髪に触れようとした。すると触れる前に払い除けられた。けち!と言うと今度は無視される。無視したまま水戸は、温まったホットプレートに肉を置いた。それから切ってざるに入れてあった野菜やきのこ類も置いた。三井の前には既に取り皿と焼肉のタレが用意してあり、準備万端だと思った。
水戸はいつも部屋で着ているよれたパーカーにスウェットで、けれども少しだけ短くなった切りたての髪で、いつもと同じように世話を焼いている。幸せだと、三井は思う。
それから焼肉を食べて、ビールに焼酎に水戸は日本酒を飲んだ。しばらくしたら蕎麦を茹でて年越しを待たずに蕎麦を食べる。休憩したらゆっくり風呂に浸かり歯を磨いて、そんなことをしていたらもう十一時だ。今年もあと一時間で終わる。次は水戸が風呂に入った。彼は早風呂だからすぐに風呂から上がり、やはりいつもの部屋着に裸足で、また炬燵に足を突っ込んで煙草に火を点けた。その様子を見ていると、目を閉じるのが勿体ないと思う。
「明日初詣行こうぜ」
「いいよ。どこ行く?」
「必勝祈願出来るとこ」
「はは、そうだね」
他愛ない話をしながら、瞼を閉じて瞬きする度に、彼の顔や仕草を目の奥に焼き付けたいと思った。オレの中の水戸コレクションが増えてく、三井は水戸を見つめながらそう思った。今は目に掛かっていない前髪も、同時に目の奥に残るようにと追加する。
「さっきから何見てんの」
「煙草終わった?」
「ん?ああ、うん」
水戸が灰皿にそれを押し付けたのを確認して、三井は水戸を抱き締めた。石鹸の匂いと煙草の匂いと、様々な香りが混在していても、三井は何でも良かった。その中の中心には必ず水戸の香りがあるからだ。鼻から思い切り息を吸い込むと、それが身体中に充満する気がした。三井は水戸の髪に触れた。触れながらキスをした。この時水戸は、触れることを拒絶しなかった。こういう時、彼は手を払い除けない。許されてる、そう思った。自分だけが許される行為だと、三井は思う。
目を開けながらキスをして、水戸を見ていた。水戸はキスの時に目を閉じない。それを盗み見るのが好きだった。
「また見てる」
「え?」
「さっきからずっと見てるだろ」
「悪いかよ」
「別に悪くはないけどね」
水戸はこういう時、少しだけ目を伏せる。視線を落として薄く笑う。この表情が、酷く色っぽいと三井は思う。三井は自分から水戸をベッドに引っ張った。そして触れた。普段は嫌がられるから、その鬱憤を晴らすように散々触れた。こういう時は何も言わないからだ。切りたての髪の毛にも指を通し、軽く引っ張ると「いてえな」と水戸は言った。挿入されて動かされて、その時も髪に触れた。水戸の髪の毛は特に柔かくもない。かといって硬くもない。普通の、クセも特にない髪質だ。今はリーゼントでもなくて前髪もあって、学生でもなくて十五歳じゃない。今この瞬間、年を跨ぐこの瞬間に水戸に触れて齧ることが出来るのは今のオレの特権。三井は時々、この事実に泣きたくなることがある。あんなにも危うく掴み所のない、すぐにでも消えそうな男が自分の側にずっと居るなどと考えられなかったからだ。掴む場所を一ミリでも間違えればきっとすぐに消えてしまう、それなのに。
水戸は今、三井に触れられても齧られても消えやしない。掴む場所も間違えてもいない。それを確認して満足した時、三井は心臓が鷲掴みにされたような気分になる。だから泣きたくなるし、だからこそ、触れずにはいられなかった。
「あ、除夜の鐘」
水戸が三井の体を抱きしめながら、不意に声を出した。普段の声だった。素の声、と三井は思う。さっきまで三井を組み敷いて散々求め合っていたのに、急に顔を窓の方向に向ける。下から見上げる水戸のそのすっきりしたエラは、何度見ても飽きない。そして素の声を出す時の水戸は、年齢より幼く見える気がする。
「全然気付かなかった」
「あんた声でかいからね」
「うるっせえんだよ!」
「ほらほら、普段からその音量だから」
「お前はほんとデリカシーゼロだよ、知ってたけど!」
はは、と薄く笑う水戸は、また少しだけ目を伏せて色っぽい表情を見せる。消え入りそうな、夜が似合う、この表情。朝になっても消えないでと心底思う。
「明けましておめでとう。今年もよろしく」
そう言うと水戸は、三井に触れるだけのキスをした。ああそうだ消えない。明日の朝も明後日の朝も。どうか、今年だけじゃなく来年も、来年だけじゃなくその先もずっと。三井はその祈りを込めて水戸を抱き締め、またその髪に触れる。





終わり



[戻る]
[TOPへ]

[しおり]






カスタマイズ