短編

□キス・リアル・ラブミー
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四角い部屋には小さな灯りしか灯っていなかった。静かで何もなくて、暗がりの中にぼんやりと形取られた水戸が居ることだけが三井には分かった。オレと水戸。三井はそう思った。
その部屋には、あるべきものがなかった。ベッドも、クローゼットも、フローリングさえ、何もないように三井には感じた。かといって違和感があった訳ではなく、この部屋はそれが当然なのだと思った。ただ水戸が居る。オレと水戸が居る。三井はそれしか感じなかった。水戸は何も喋らなかった。三井の前に胡座を掻き、三井の目の前に座っていた。三井には水戸が見えた。けれどもその姿形は酷くぼやけていて、曖昧に見える。それでも、水戸だということだけは分かった。部屋が暗いせいだと、三井は思った。
水戸の指が伸びる。その無駄のない、綺麗な指とは言い難くも男らしい指が伸びる。三井はその指を見た。指先が少し硬く、渇いた職人の指だった。それが伸び、三井の手首を掴む。掴んだかと思うと、次は三井の指を撫でる。それから水戸は、それを自分の唇に近付け、舐めた後で噛んだ。三井の背筋は騒ついた。緩く噛んだ後、水戸は強く噛んだ。騒ついた背筋は、一層冷たくなる。痛い、三井はそう思った。いてえな、そう言った。水戸は何も言わなかった。彼は何度も三井を噛んで舐めた。初めは痛いと思った。本人にも告げた。それでも彼はその行為を一切止めず、その上一言も喋らず、ただ続ける。
その内段々と痛みが消えてくる。なぞられる感触と舐められる舌の生温さだけが残り、三井は心地良くなる。目を閉じて、その感触を堪能していると、そこでようやく気付いた。あれ?とただ思う。身体の感覚が麻痺していて、水戸の指と唇しか分からなくなる。三井は目を開けた。ぎょっとした。食ってる、そう思った。水戸がオレを食ってる、と。三井は息を飲んだ。食うなよ無くなっちまう、三井はそう言いたかった。けれども声が出ない。最初は指だった。それからはよく分からない。ただ三井は、自分の身体を食べる水戸を見ていた。最初は思った。やめろ、と。けれどもそれは一瞬で消えた。三井を食べる水戸があまりにも満足そうだったからだ。これまで二人はたくさんの食事をしてきた。和食は勿論、中華、イタリアン、三井が美味いと勧めた店。その都度水戸は、特に不満気でもなかったけれど、かといって喜びを顕にした訳でもなかった。普通だった。美味いね、と言ったことはあれど、それを顔に出すことはなかった。その彼が今、何をどんな風に食べるより満足そうに噛み締めて三井を食べているのだ。噛んで舐めて、酷く嬉しそうに自分の身体に貪り付いている。
もういいや、そう思った。これで死ねるなら本望だと、そう思った。バスケも何もかも全て捨ててこいつの血肉になれるならそれでいいと。だってもう、こんなに気持ちいい行為他に知らない。三井は水戸の唇と歯の感触を身体全てに刻み込んで、その行為に没頭した。目も見えなくなり、水戸が見えない、そう思った直後、唇にキスの感触があった。良かった、三井はそう思った。最後がキスで良かったと。そう思ったのだった。
その時、頭上で音が鳴る。大きな大きなそれは、三井を現実に引き戻した。目を開けると見える天井は、あれら全てが夢だったことを告げる。三井は何度も瞬きした。心臓が有り得ないほど鳴っていた。それが耳に直接響いて、聞こえることを知る。起き上がり、掌を見た。付いてる、そう思った。腕も身体も足も、全て感触があった。深く深呼吸すると、段々と心臓の音が整って来る。何度かそれを繰り返し、顔を横に向ける。水戸はもう居なかった。次は携帯で時間を確認すると、午前九時だった。水戸が居ないのは当然だった。もう仕事に出掛けている。三井は今日、特に早く出社しなければならないことはなかった。雑用と、午後から練習。だからアラームをこの時間に設定したのだ。溜息を吐いた。項垂れて布団に額を擦り付ける。
「変な夢……」





出社して雑用を終わらせ、インターネットを開いた。食欲と性欲、それを検索すると、ずらりと出て来る。とりあえず一番上にあったリンクをクリックすると、文字が羅列している。
『満腹中枢と性欲中枢、このふたつは脳の中でも近い場所に位置しているので互いに影響を受けやすく、どちらかが満たされるともう一方の欲求が収まると言うのです。つまり、食欲が満たされると性欲が収まり、反対に性欲が満たされると食欲が収まるというわけ。このように、食欲と性欲がうまくバランスをとることで成り立っているんですね』
だそうだ。何か他人事っぽい。結局三井は何が調べたいのか分からなくなり、パソコンを閉じた。午後からの練習は、まるで身が入らなかった。「コーチ?」と声を掛けられるも、「いや何でも」と言うだけで精一杯だった。普段なら考えられなかった。バスケに集中している時、三井が水戸のことを考えることはほぼ皆無だった。それが今日は何だ。朝起きてから今まで、あの夢が頭の中で反芻している。ダメだ、そう思った。今日は無理、三井は息を吐いて、サンダースのキャプテン野村に、体調が悪いから帰宅すると告げた。まだ午後六時だった。
会社から出るも、すぐに帰宅する気分にはならなかった。当てもなく街をぶらぶらと歩き、水戸のメールを思い出した。「早く帰れそうです」そう書いてあった。返信はなぜか出来ず、文字を目で追った直後携帯を閉じた。早い帰宅なら、きっともう水戸は帰っている。もしかしたら先に食事をしているのかもしれない。水戸は特に三井を待つことをしないから、自分のことは済ませている。帰ろう、三井は決めた。水戸に早く会いたいと、結局その結論に辿り着いた。帰宅すると、水戸のスニーカーが玄関にあった。いつも揃えられているそれは、水戸の几帳面さを物語っていた。靴だけじゃない。水戸は掃除も洗濯も、大概抜かりなくやっている。それは食事然り。三井は今日、水戸とまだ顔を合わせていなかった。朝は既に居なかったし、勿論今も。けれども、人より五感の鋭い水戸は、三井が帰宅したことをもう知っているだろう。
靴を脱ぎ、廊下を歩いた。冬はフローリングが酷く冷たい。下から直接、冬の気温を感じる。それが何故か今日は、足の裏が痺れるほど顕著に感じた。
リビングのドアを開けると、水戸はダイニングチェアに座っていた。もう食事をしていた。リビングは既に温まっていて、フローリングも冷たくなかった。足元から段々と、冷えた空気が消える。ただいま、と言うと、おかえり、と返って来た。しばらくその場に立ち尽くし、水戸が食事をする様を見ていた。今日は多分生姜焼きだ。その隣にはキャベツの千切り。後は作り置きのきんぴらと厚揚げと野菜の煮物。三井は水戸の料理が好きだった。いつもはこれが食べたくてなるべく早く帰宅しようとする。でも今日は。今日は?
三井は水戸の唇を見た。それがぱっくりと開いて、今は普通に、普通の食事をしている。顎が動いて、喉仏が上下する。時々ビールを飲むと、形のいいエラが見える。三井は唾を飲み込んだ。もう一度飲み込んだ。オレじゃない、三井はそう思った。水戸が今食ってるのはオレじゃない。酷く喉が渇いた気がした。自分の首に触れ、何故か何かを確認する。オレじゃない、またそう思った。その何かが今はまだ分からない。
「三井さん?」
「え、何」
「どうした?何かあった?」
水戸が椅子から立ち上がった。彼は躊躇なく三井に近付き、その手を伸ばした。あの指が触れる、掴まれる、そう思った直後、三井は水戸の手を強く振り払っていた。
「あ、違くて」
「何が。俺何かしたっけ?」
「いや、だから違くて」
「何だよ。言ってみな」
水戸は三井を見ていた。また、三井も水戸を見ていた。そうじゃない違う、それが言いたいのに言葉にならなくて、ただ水戸を見た。三井は知っていた。水戸を拒絶することが何より彼を傷付けると、三井は分かっていた。それなのに三井は、水戸の手を強く振り払った。どうしようまた消えたら、三井は焦った。けれどもまだ、言葉が出て来ない。
彼の鋭い視線が射抜くように三井の目線と絡んだ瞬間、また三井は唾を飲んだ。喉が渇いた。異様に乾いて仕方なかった。水戸の指が伸びた。それを真っ向から受けた時、三井の背筋が騒ついた。悪寒にも似たその震えは、間違いなく性欲だった。どうしよう食われる、三井は思った。あの目と指と唇が容赦なくオレを食うんだ、そう思った。そうだった。三井が何故今日一日中何も手に付かなかったのか、最初から知っていた。分かっていた。水戸の指が伸びて、三井の身体に触れた。撫でた。服越しに触れるのがもどかしくて、三井は水戸のその手を掴んだ。
三井は今朝、あの夢から覚めた後で自慰をした。あの行為が頭から離れなくて、あの指と唇を思い出して、自分を慰めた。吐き出した後、三井は自分自身にぞっとした。とうとう頭がイカれたと思った。いつもはそんなことは思わない。水戸を思い出してしたことなど数え切れないほどあるからだ。ただ、今回のことは違う。彼が三井を食った時、食い尽くした瞬間、三井は酷く満足していた。幸せだと思った。けれども目が覚め、その欲を吐き出した瞬間に気付いたのだ。こんな行為に欲情し、現実逃避もいいとこだと、そう思ったからだ。それで満足して幸福感を得る自分はどうかしていると。さっき水戸の手を振り払った時、あの指から水戸には見透かされると思った。知られてしまうのだと。三井は自分を自立した人間だと思っていた。いざとなればどうにでもなるのだと、そう思っていた。水戸もバスケも何もかも、全てが自分の手の中に納まっていると信じていた。でもそうじゃない。三井はそうではないことを知った。いつまで経っても「オレと水戸」その平行線のような関係は変わらないことを、三井は今朝、思い知る。
三井は今、あのまま水戸に抱かれていた。水戸はもう、何も言わなかった。夢の中で触れていたあの指と唇が三井を優しく撫でて食んでいた。夢でもそうだった。最初は優しく噛んで舐めて、三井を慈しんだ。それが段々と強くなった。だからもっと乱暴にして欲しいと思った。強く噛んで食って欲しいと思った。けれども水戸は、千切るように噛むことはあれど、三井を食わないことを三井自身がよく分かっていた。身体が離れることが惜しくて、何度もキスを欲した。痺れるほどその唇を味わった。最後のキスにならないように、最後がキスで良かったと思わないように。噛んでも舐めても、水戸は三井の唇を食わなかった。足りないからだ、そう思った。足りないから食わないのだと、三井はそう思った。ずっと終わらないのだと。
「あんた今日どうしたの」
三井はその言葉に、なかなか返すことが出来なかった。結局そのまま続いた雪崩のような行為は一旦休んだものの、また三井から誘った。自分からベッドに誘い、結局食事も取らないまま、このまま眠ってもいいとまで思う。食欲と性欲、どっちかが満たされるとどっちかが満足するんだっけ?三井はインターネットに書かれていた他人事のような記事を思い出した。水戸はベッドに肘を付き、横たわった三井を見下ろしている。
「あのさぁ」
「ん?」
「オレ……」
「うん」
「お前が居ないと生きていけないかも」
水戸はその直後、見事に吹いた。そして珍しい物でも見るように三井を見たかと思えば、若干引いたように眉間に皺を寄せる。
「何だよその顔!失礼にもほどがあるだろ!」
「まさか三井先輩からそんな弱気発言が出て来るとは思わなくて」
「てめえふざけんな!」
「あんたあれじゃねえの?欲求不満だったんじゃねえの?」
「はあ?!」
「手、振り払われた時すっげえ顔して見てくるから何だと思ったもん」
「え、どんな顔?」
「内緒」
水戸はそう言うと体を起こし、サイドテーブルに置いていた烏龍茶を飲んだ。一度目の行為が終わり、彼が冷蔵庫からそれを取り出した時、三井はその手を引っ張って水戸を寝室に連れて行ったのだ。水戸がペットボトルを傾けて飲む様を見ながら、喉の動きを確認する。綺麗なエラと喉仏の上下する首を、三井は欲しいと思う。水戸に食われるならオレも水戸を食いたいと、三井はそんなことを考えた。三井はその最中、自分も彼を噛んだ。夢の中で食われるのを思い出し、その肌はどんな味がするのかと舐めた。けれどもそれは、単純な肌の味で、水戸の匂いがした。今更気付いたのだけれど、三井は喉の渇きが治っていることを知った。まじで欲求不満だったのかも、三井はばつが悪くなり、目を伏せる。
「水戸」
「何?」
水戸は三井を見た。あの目が今は酷く優しい。食らい尽くそうとするあの目が、今はその獰猛さがまるでない。この目も、あの目も、オレはあれもこれも水戸の全てがないと生きていけない。三井はあの時、水戸の手を振り払ったことを心底後悔した。これが消えたら、もうどうすればいいのか分からない。紛れもなく本心だ。
「お前さぁ、オレの唇食っちゃうの?」
「何それ、食わねえよ」
「何で?」
「勿体ない」
「え?」
「食ったら勿体ないだろ」
その言葉に、三井は笑った。安堵もした。勿体ないと思う限りは、彼は自分の側に居るのだと、そう思った。けれどもその反対側で、ないかもしれないけれどあるのかもしれない別離を片隅に考えた。だって二人は二人で、決して一人ではないからだ。
もしもあるのなら、いっそ食べてから終わりにして欲しいと思う。勿体ないなどと言わず、その体の中にしまい込んでどこにも出さないで欲しいと。その中に居るのなら、もう文句は言わないから。
「水戸、キスしたい」
「ほんと好きだね」
「好き。すっげえ気持ちいい」
水戸は笑った。その顔を好きだと思った。側に居たいと思った。近付く唇を味わうと、水戸の全てを感じ取れる気がした。夢の中のキスより現実のキスが幾らも気持ちいいことを、三井はずっと前から知っていた。だからもう、二度と振り払わないから、この手を離さないで。






終わり



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