短編

□桃色の猛毒
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仕事の帰り道、駅に向かう途中で三井はそのポスターを見付けた。色とりどりに飾られたそれは、毎年恒例行事を派手に示している。そうだった、三井は思い出すようにそう思った。そしてそのまま、ポスターの飾られた店に吸い込まれるように入った。目的の物といくつか商品を購入し、三井は駅までの道程を歩いた。少しだけ洒落た紙袋を下げている自分自身に気分が高揚する。浮かれているのが分かって可笑しくなった。これを見た水戸はどんな顔を見せるだろう。きっと面白いほど呆れて眉間に皺を寄せるに違いない。それを想像すると、また可笑しくて仕方なかった。一人にやついている自分に可笑しくも軽い羞恥を覚え、三井はその口元を掌で覆った。
川崎駅の構内は混んでもいなければ、人が少なくもなかった。行き交う人達はそれぞれ、この駅からどこへ帰るのだろうと三井は時々考える。自分のように、ただ好きだと思える人の元に帰る人間は、この中の約何割を占めているのだろうか。三井は自分でも、無意味なことを考えていると思った。そしてそのままJRに乗り、空いている席に座った。
帰宅すると、水戸はまだ居なかった。廊下が暗い。そういえば昼間、帰宅は九時くらいだとメールに書いてあったと思い出した。リビングに入り電気を点け、さむっ、と独り言ちてからエアコンを付けた。風が出て来た頃、窓際に掛けてある洗濯物が揺れる。手で触れると、それは酷く冷たかった。湿っているのか乾いているのかよく分からない。ただ、エアコンの風で乾くだろうとは思う。水戸はそのつもりで毎日、この場所に洗濯物を干しているのだから。三井はキッチンに向かい、持っていた紙袋をカウンターに置いた。一度覗き、それから寝室に向かう。寝室で部屋着に着替え、またリビングに戻った。室内は暖まり始めていた。今日はパスタを茹でるつもりでいた。それも一緒に買って来ていたからだ。併せてパスタソースや少しだけ高価なチーズも買っていた。それを見た水戸はどんな表情を見せるだろうか。きっと怪訝そうにするに違いない。三井はそう思った。嫌がらせをしているみたいだ、とも思った。けれども水戸は、三井が用意した食事に、文句を付けないこともよく知っていた。
まずは台所で手を洗った。それから湯を沸かし、沸いた所でパスタを投入した。一人分か二人分か迷ったけれど、時間も九時近かったので一気に二人分入れる。茹でている間にサラダを作っていた所で、玄関の開く音がした。続いて洗面所から水音がする。水戸は必ず、リビングに入る前に洗面所で手を洗う。ご帰宅、と三井が一人ほくそ笑んでいた所で、リビングのドアが開いた。
「おかえり」
「ただいま。あれ、メシ作ってんの?」
水戸がキッチンを覗き込んだ。そこで三井は、鼻を鳴らして笑う。
「見て驚け」
「え、帰って早々何このめんどくさい感じ」
「黙れ。その紙袋覗いてみろ」
三井は顎で、紙袋を示した。茹で上がったパスタの湯切りをしていた所で、水戸が紙袋から一本の瓶を取り出す。
「あーあー、こういう流行りに乗る奴って居るよな。職場にも居たよ、買って帰るって人」
水戸が酷く呆れた顔を見せ、三井はまたほくそ笑む。ざまあみろ!そう思った。もっとも、何がざまあみろなのかは三井にも分からないのだけれど。
「今日初売りのボジョレー様だ。拝んどけ」
「要らね」
「はあ?!ボジョレーだぞボジョレー!お前フランスのぶどう農家に失礼だと思わねえのか!」
「出た、三井様の意味不明な持論」
とにかく!と、三井は語気を多少荒げ、今日はそれを飲むと告げる。すると水戸は諦めたのか、はいはい、と適当に返答してベランダに向かった。これだからセンスゼロの奴は、三井は深々と溜息を吐いた。
水戸がベランダで一服中の間、三井はソースを温めた。インスタントではあるけれど、これも少々値段が張る物を選んだ。ぜってー美味い!三井は自信を持って言える。その上、ワインに合わせてこれまた少し高級なチーズも買って来たのだ。これもぜっってー美味い!要は自信があったのだ。あの呆れ面がどう変化するのか、見ものだった。あの面見せてるのも今の内だかんな、三井は今日何度目か分からない意地の悪い笑みをする。
キャビネットからグラスを出し、パスタもサラダもダイニングテーブルに並べた。チーズはまた、ソファに座って食べればいいと冷蔵庫に閉まっておく。そうしている内に、水戸がベランダから帰って来た。食うぞ、と三井が声を掛けると水戸はまた、はいはい、とおざなりに返事をした。その面変えてみせろ!三井は呪いのように念じた。
結局その呪いは通じることなく、水戸はいつもと同じだった。喋る言葉といえば、ああ、と、うん、以上だ。ボジョレーが美味い、パスタが美味い、そういった部類の言葉は一切なかった。くそ、とは思ったものの、三井本人も美味いと感じた訳ではなかった。何で?そう思った。単純に疑問だった。風呂に入りながら考えてみたものの、その疑問が解決することはなかった。風呂上がりに冷蔵庫からチーズを取り出した。それをローテーブルに起き、またボジョレーを飲んだ。軽くて飲みやすい、それしかなかった。水戸が風呂に入っている間も絶えず飲んでいた。飲み口が軽いから拍子抜けするほど上手く喉を通る。チーズに合わせると尚更だった。
水戸が風呂から上がると、まだ飲んでる、と言って通り過ぎた。ベランダに行くのだろうと何の気なしに思う。しばらく経ってその内、ソファのスプリングが揺れた。隣が沈む。そしてローテーブルには見慣れた手が伸びる。彼はもう、ボジョレーではなくビールを飲んでいる。
「飲み口が軽いっつっても飲み過ぎたら酔うよ。度数変わんねえんだから」
「なあ」
「何?」
「パスタ美味かった?」
「別に普通」
「だよなぁ……」
水戸も三井と同じ感想だった。そう、普通だったのだ。気合いを入れて買い込んだ割には別段美味い訳でも、かといって不味い訳でもない。
「なあ」
「今度は何」
「お前、オレのどこが好き?聞いてやるから言ってみろ」
「はあ?めんどくせえなぁ、これだから酔っ払いは」
水戸が溜息を吐くのを横目で見ながら、なぜ自分がこんなことを聞くのか分からなかった。高校生じゃあるまいし、そう思っているのに頭が上手く回らない。
「ほら、色々あるだろ。頼り甲斐があるとか、かっこいいとか」
回らない割には饒舌で、さも当然のように言うと、水戸は吹き出した。
「てめ!失礼だろうが!」
「いや、自分で言うかなって。はは!」
「笑ってんじゃねーよ!」
「あーはいはいごめんね。全部全部、これでいい?」
「てんめー!適当に言いやがって!」
またもおざなりに言う水戸に、三井は簡単に沸点に到達する。思わず声を荒げて言うと、今度は無言で深々と溜息を吐かれた。
「腹立つ!腹立つから十個言え。聞いてやる」
「あーもうまじでめんどくせえ」
立ち上がろうとする水戸の腕を掴み、三井はもう一度ソファに座らせる。そして、水戸を見て胡座をかいた。
「言え。言わねーとあっち行かせねえかんな」
三井が言うと水戸は、腕を組んだ。うーん、と口の中で呟くような声を出し、その後、あ、と一言声を出す。
「あった」
「お!言え、ほら言え!」
「最中に声がでかい所」
最中に?何?三井は一瞬何のことか分からなかった。しかしよくよく考えてみれば、最中なんて言葉は一つしかない。馬鹿にしやがって!そう思った。多分言った。しかも相当大きな声だった。三井は自分の声が大きなことなど、嫌というほど知っているのだ。すると水戸は、まだあるよ、と言う。その言葉に彼を睨むと、水戸は、それはそれは楽しそうな表情をしている。馬鹿にしやがって!三井はまた、同じことを考えた。
「早いのはー……、ちょっとなぁ。あ、俺の名前呼ぶ所。あとは痛いのが好きとか?足りねえなぁ、十個って多いだろ」
「おま、お前は!オレの体が目当てなんだろ!」
ちょうどビールに口を付けていた水戸は、その言葉に軽くビールを吹いた。彼は何度か咳き込み、ローテーブルに缶を置く。手の甲でビールを拭い、そのまま喉の辺りで笑った。
「あんたどんだけ自信過剰なんだよ。その才能大切にしな」
あーおもしろ、水戸は続けてそう言った。馬鹿にしやがって、三井はそればかりを考えた。もっと何かこう、あるだろ?そう思った。けれども水戸は笑うばかりだし、揶揄うばかりで肝心なことは何も言わなかった。つまんねえの、最後は諦めたように思う。三井はローテーブルに置いていたグラスを手に取り、口を付けた。変わらず飲み口は軽く、幾らでも飲めそうだった。自棄酒してやる、と瓶を手に取った所で、横槍が入った。
「もうやめとけって」
「何で、飲ませろよ」
「明日のこと考えろっつってんの」
「うるせえなぁ」
「あともう一個」
「何が?」
「いつまで経ってもキスが下手な所」
あーあ、三井はそう思った。諦めた。もういいや、と。グラスは水戸にあっさり取られ、ローテーブルに置かれた。その乾いた指が次は、三井の顔に触れる。キスが下手なんて馬鹿にしてる、そう思っている筈なのに、そのまま流れに身を任せることしか三井は出来ない。これを拒否する術を持っていない。今日はソファか、などとどうでも良いことを考えながら、三井は水戸に倒される。天井が真上に見えて、そのクロスと照明を確認した。明るい、そう思った。けれどもそれも、今この瞬間にはどうでも良いことなのだと知る。
好きな所を十個。なぜ自分はそんなことを聞いたのだろうか。なぜか急に聞きたくなった。酔っていたから、それもある。確認作業、それも間違っていない。ただ、レトルトのパスタソースは酷く味気ないと思った。それだけはしっかりしていた。そんな的外れなことを考えていながらも、体は水戸との行為に没頭していた。没頭というよりも、彼の全てを堪能しているように思った。その指や掌、肩の骨、鎖骨、水戸は洋服を着ている時には分からないけれど、その体を見せた時に分かる。水戸の体は何度見ても無駄な部分がない。少しだけ骨張っているけれど、痩せ過ぎてもいない。とにかく無駄な物が全て削ぎ落とされているように見える。シンプルだと、三井は思う。
三井は声を上げた。水戸の所作に耐え切れず、構わないと声を上げる。もっとも耐えようと思ったこともないのだけれど。
「それ好き」
水戸は言った。三井が大きな声を出す所が好きだと、俯きながら言った。よく顔が見えなかった。前髪が揺れる。少し伸びた気がする、三井はまた、的外れなことを考えた。
三井は思った。水戸の好きな所を十個上げるなんて容易いと、三井は思った。指が好き、掌が好き、唇が好き、顔が好き、体が好き、その立ち振る舞いが好き。並べられた要素を反芻して、三井はぎょっとした。自分も体目当てか、そう思ったのだ。そして可笑しいと、思わず笑ってしまった。
「何?どうした?」
「いや別に。水戸、水戸、キスしたい」
「はは、それも好き」
そういえば、名前を呼ぶのも好きだったっけ?三井は思い出しながら、水戸の唇を受けた。唇と舌を味わった。そのキスが好き、キスが上手い所が好き、三井は幾つ並べたか考えたけれど、もうよく分からなかった。好きな箇所を横一列に並べようと思えば、幾らでも出来るからだ。
ようやく分かった気がした。なぜレトルトのパスタソースが味気ないと感じたのか。そうだ、水戸が作ってないからだ。三井は己の出した答えに納得して、目を閉じてその唇を堪能する。





「やっぱりお前、オレの体が目当てなんだろ」
「言ってろ」
また呆れたように水戸は、息を吐いて言った。喉が乾いたのか彼は、ローテーブルに置いてあった缶ビールに手を伸ばす。温いだろうに、三井はそう思った。浅く腰掛ける水戸の横顔を、三井は半分寝転がりながら眺める。最近の水戸は、少しだけぼんやりすることが増えた。理由は知らない。本当に、ただ何も考えていないのかもしれないし、もしくはそうでないのかもしれない。或いは仕事のことかもしれないし、そうでないのかもしれない。相変わらず二人はくだらない話しかしないし、互いに仕事の内部事情などは分からない。それはお互い様だ。それでも三井は、水戸が自分に心底惚れていることをよく知っている。だからそれで良かった。
「結局十個言ってねーだろ」
「めんどくせえなぁ、きりがねえよ」
「え?」
「挙げてたらきりがない」
水戸は最初、おざなりにでも「全部」そう言った。あながち間違っていなかったのかもしれない、三井は水戸の言葉を聞いて、そう思った。酷く足元が騒ついた。もう一度したい、そう思った。そして、明日は水戸に夕食を作らせようと決める。味気ないパスタソースはたくさんだった。
「なあ」
「んー?」
「お前がメシ作るとき毒でも盛ってる?」
「そうだよ、知らなかった?」
「今日知った」
ふっと薄く笑う水戸を見て、今抱き締めたいと強く思う。ほぼ毎朝毎晩毒を盛られ、その猛毒に麻痺しているのかもしれないと、三井は一瞬だけお伽話のようなことを考える。
水戸が今、何を考えているのかを三井は知らない。ぼんやり上の空な時間が増えた理由も知らない。それでもいい。毒に侵される時間が増えるならそれで。
三井は躊躇なく、水戸に手を伸ばした。






終わり



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