短編

□赤と恋文
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三井には圧倒的に時間が足りなかった。
シーズンが始まってしまうと、土日は遠征続きで平日は中日辺りに休みが一日あるかないか。あると思っていた休日も雑用で消えることが多い。毎年のことだからそれは構わないけれど、時間ねえ!と時々頭を抱えたくなるのも確かだった。その上、水戸とも全く時間が合わない。それも毎年のことだった。
あれから特に、水戸に変わった様子はなかった。迎えに来たのもあの日だけで、そうなると必然的に荷物を持つこともない。宝くじか!三井は水戸にそう言った。すると彼は、こう言い放ったのだ。毎回迎えに行かなきゃなんねえの?と。三井は呆然とした。自分でも、こんなことはあの日だけだと思っていた。分かっていた。それでも、一度あれば次もあるかもしれないと考えるのも人情じゃないのか。けれどそこは水戸洋平、そうはいかなかった。その上彼は、あの日はたまたまそういう気分だった、と。更には、時間あったし、と。三井は、がつんと何かに殴られた気分になった。お前は!そういう奴だよ!と言い返した所、水戸は言い返すことなくベランダに消えた。変わんねえ、あいつは一切変わんねえ。三井は半ば自嘲したくなる。そして結局、あいつはこんなもんだ、という結論に達した。
そんな日々を過ごし、普段の時間はほぼ合わない生活を送る。朝は各自で朝食を食べるし、もし一緒に食卓を囲む時間があったとしても、彼が発する言葉は通常運転だ。つまり、「ああ」と「うん」以上だった。夜も水戸の帰宅が遅い日もあれば逆も然りで、最近は業務連絡程度の言葉しか交わしていない。三井は別に、彼に恋人のように接して欲しいわけではなかった。正直恋人だと言われたら体が痒くなる。好きなだけだ。ただ、好きなだけ。それは水戸も同じだろう、三井はよく分かっていた。けれども、三井は時々水戸不足に陥る。そんな時は、ベッドに横になる時にわざと水戸が眠る側で寝転がる。水戸の匂いが鼻を掠めると、少しだけそれが解消されるのだった。以前そうした時、水戸から声を掛けられた。風呂上がりだった。何でそっち?と言われたので、三井は目を開けた。うるせえ眠いんだよ、そう返すと彼は、別にいいけど、そう言った。
三井はこの日は休日の予定だったのだけれど、溜まった雑務があって結局出社した。帰宅するも水戸は居らず、仕方ないと息を吐いた。夕食はカレーが残っていたのでそれを食べた。水戸が先日作った物だった。彼が作るカレーは一味違う。それの理由を三井はまだ知らない。何かもう一品食べたくて冷蔵庫の中を覗くと、残った筑前煮があった。それも温めて食べると、味が染みていて酷く美味かった。水戸が料理上手なのが悪い、三井は常々思う。自分が料理を作らないのは水戸のせいだと。そして、洗濯も掃除も、自分がやらないのは水戸のせいだと三井はかなり本気で考えていた。そして、水戸をこんなにも愛しいと思うのも、全て水戸のせいだと。
三井はダイニングテーブルに突っ伏して、額をそこに擦り付けた。何で居ねえんだよ、小さく言ってみたものの、返事はなかった。オレがこんなことになってんのも全部水戸のせい、三井の理不尽な呟きを、水戸は知らない。
結局その日の夜、水戸が帰宅したのは三井がベッドに入った頃だった。やっと帰って来た、そう思いながら、水戸の立てる音を聞いた。洗面所で水の音がしてから、冷蔵庫の開け閉めの音、そしてその後で、ベランダの窓の開く音がする。これらを聞くと三井は心底安堵する。あの日の恐怖が掻き消されるからだ。水戸がもうここには帰らないのではないかという恐怖が。それからしばらくして、三井がうとうとしていた頃、寝室のドアが開いた。自然と目が開き、あ、と声が出る。水戸の顔を見た瞬間、出て来た言葉は「おかえり」だった。
「ただいま。ごめん、起こした?」
こういう時、水戸は大概こう言う。
「いや、うとうとしてた」
そして三井も、こう返すことが主だった。水戸はシャワーを浴びるようで、クローゼットを開け、着替えを取り出している。
「なあ」
「ん?」
部屋着の長袖Tシャツとスウェットを取り出して、水戸は振り返る。
「お前、平日休めねーの?」
三井が言うと、水戸は目を見開いた。口元は普段通りで、少しの間沈黙する。それから親指で顎をなぞった。
「いつ?」
「え?」
「だからいつだよ。休み取るから」
「まじで?」
「あんたが言ったんだろ。ちょうど社長から代休取れって言われてるし、合わせるよ」
水戸の言葉に三井は思わず起き上がる。目が一気に覚めた。
「来週の木曜日。金曜から新潟行くから」
「はいはい、了解」
「忘れんなよ、忘れたらてめえ分かってんだろうな!」
「あーめんどくせ」
水戸はそう言うと、心底うんざりしたように頭を掻いた。その顔!三井は思わず、指を指して突っ込んだ。水戸はというと、一つ息を吐いて顔を顰めている。最近よく、水戸はこういう表情を見せる。それは酷く、郷愁を誘う。何だっけ、三井は考えてみたけれど脳が上手く働かない。
「つーかさ」
三井が何となく記憶を探っている途中、水戸が声を掛けた。それでまた、思考が止まる。何?そう言うと彼は今度、柔く笑う。
「何でそっちで寝てんの?」
三井は今日も、水戸が眠る方で横になっていたのだ。普段三井は、壁側の奥の方で眠っている。水戸がクローゼット側だった。つまり今日、三井はクローゼット側に居た。
「よく寝れるから」
何の偽りもなく言うと、水戸は目を伏せる。
「まあ、分からんでもないけどね」
「何それ」
「俺もあっちはよく寝れる」
おやすみ、そう言うと水戸は一度三井の頭を撫で、着替えを持って寝室を出た。分からんのはお前だ、三井はそのまま枕の上に頭を倒した。目を閉じて、何処と無く香る水戸の匂いを感じながら、もう一度思い出した。あの表情何だっけ?と。三井を酷く面倒そうに遇らうあれは何だっただろうか、そんなことを考えながら、三井はそのまま堕ちるように眠りに着いた。
それから一週間、三井も水戸も業務に追われていた。まともに喋ることもあまりないまま、日々は過ぎていた。それでも昼休憩になれば帰宅が早いか遅いかの連絡はあり、水曜日にはそれに加えて「明日休めます」という言葉も追加されていた。それを読んだ三井は、やれば出来んじゃねーか、と鼻を一つ、ふんと鳴らした。休日は結局、三井だけならまだしも、珍しく水戸まで日頃の疲れが祟ったのかゆっくりと寝ていた。出掛けたのは昼過ぎてからになり、近場で勘弁して、と言う水戸の意見にこれもまた三井が珍しく賛同して、鎌倉でかなり遅めの昼食を摂った。入った店も、いつもの定食屋やラーメン屋などではなく、三井の好きな店で良いと水戸が言った。だから多少洒落ていて、長居出来る場所を選んだ。今日は晴天で、秋の鱗雲が並んでいる。寒くもなく、勿論暑くもない。水戸も喫煙者ということもあり、そこはウッドデッキでも食べられる店だったから外に出る。
そこでもまた珍しく、水戸はメニューに対しても特に文句を言うことはなかった。以前こういう場所に連れて来た時は、食うもんねえよ、とぼやいていたのにもかかわらず。今は食後のコーヒーを飲んで、彼は一服中だった。意外と長居出来てる、三井はそう思った。
「珍しく文句言わねーな」
「は?」
「前は食うもんねえだの何だの文句たらたらだったろ」
揶揄するように言うと、水戸は煙草に口を付け、吸い込んで吐き出した。こういう時、三井は時々食い入るようにその唇を見ることがある。
「まあたまには。良さはさっぱり分かんねえけど」
そう言うと水戸は少しだけ俯いて笑い、灰皿に煙草を押し付けた。午後三時も過ぎた真っ昼間の太陽の光が、水戸の顔に陰を付ける。色が着いた、三井はその瞬間そう思った。
「お前さあ」
「何?」
お前の好きな奴って誰?三井は何故か、そんなことを今更聞きそうになった。何で?その意味が全く分からなくて、三井は掻き消すようにコーヒーに口を付ける。
「あーいや、あれだ。あのー、仕事。忙しいの?最近ずっと遅かったろ」
「ああ、新しい会社と契約するって話になって。部品の会社なんだけど、そことの会議とか予算のやり取りとかそういうのしてたら自分の仕事が後回しになっちまって」
だから遅えの。水戸はそう言うと、腰掛けている椅子に凭れ、店の外を眺めた。とはいえ、今居る場所も外ではあるのだけれど。三井には、水戸がウッドデッキの向こう側をぼんやりと追っているように見えた。斜め横を向いた水戸は、酷く緩慢な表情をしている。気を抜いているのか、はたまたそうではないのか、三井には未だに水戸の真意を測れない時があった。あの日あんな風に縋られ、遠征から帰宅した日は命を取られるかと思うほど抱かれたのに。
その時だった。カフェの店員である女性が、水戸に声を掛けた。灰皿替えますね、と。水戸はその女性に、ありがとうございます、と笑顔で対応した。そして、コーヒー美味いですね、と付け加える。すると彼女も笑い、ありがとうございます、と会釈して、灰皿を取り替えて去った。さっきの台詞要るか?三井はそう思った。だから口を開いた。
「要るか?それ」
「何の話?」
「コーヒーが美味いとか何とか。お前コーヒーの味なんかどうでもいいだろ」
「は?普通に美味くねえ?あんたも好きだろ、だから来たんじゃねえの?」
「じゃなくて!お前は!何でいちいち女に優しいんだよ!」
三井が多少声を荒げると、水戸は三井を睨んだ。彼の表情は、酷く苛ついていて不機嫌に見える。その目に三井の背中が騒ついた。何だこれ、三井はまた、その目と表情に何かが引っ掛かった。足元が覚束なくて、それを消すようにスニーカーと木の床を擦らせた。何か思い出しそうだ、三井はそう思った。
「帰るよ」
今ならすぐに思い出せる、そう思っていたのに、水戸が伝票を持って立ち上がったからそれに着いて歩いた。何だ?何だったっけ、あの表情。そればかりが頭の中を彷徨いていたけれど、水戸が早足で歩く後ろ姿を見て結局また分からなくなる。彼は無言のままで車に乗り、三井は助手席に乗った。車内はやはり無言のままで、三井もそれに釣られてか沈黙を通した。特に気まずい雰囲気でもない気がしたけれど、水戸があの程度で機嫌を損ねるのは珍しいとは思った。いつもなら三井のあれくらいの言葉など、単なる戯言程度で流してしまうのに。それだけは少しだけ引っ掛かった。
少しだけ遠回りをして、自宅マンションに戻ったのは、午後四時を回った頃だった。終始無言のまま、水戸はベランダに向かう。そこでようやく、三井は声を掛けた。
「なあ、何か怒ってんの?」
三井も続いてベランダに行くと、水戸が煙草に火を点けた所だった。次はオレンジ、三井はそう思った。水戸の横顔がオレンジに染まる。
「あんたさ、まだ分かんねえの?」
「何がだよ、分かんねーよ」
「まじでもう勘弁してよ、女に優しいとかどうでもいいだろ。いい加減にしろ」
「は?」
「これ以上何をどう言えばいいんですか、先輩」
逆に聞きてえよ、水戸は心底鬱陶しそうにそう言って、煙草に口を付けた。その横顔は眉間に皺を寄せていて、目を少しだけ細めている。目を細めるのは、煙草を吸う時の水戸の癖だ。
赤、オレンジ、ああ分かった。空にはまだ鱗雲が並んでいたけれど、その色は変わりかけていた。夕暮れの赤、三井は水戸の色付く顔を見て、その赤に思う。オレを鬱陶しそうに見る表情、目付き、忘れてた。ずっと前。
「高校の時の顔」
「あ?」
「はは!それ!」
「何笑ってんの?」
「いや別に」
今思い返せば、あの頃の水戸は三井に対して勝負を挑んでいるようだった。本気で睨んで傷付けて抉って、三井を丸裸にした。それはどこか、今の夕暮れに似ている気がした。あの頃、学生時代にこれを一緒に眺めたことなどあったかどうかも思い出せないのに、この光の強さと水戸の射抜くような視線は酷く近い。
「なあ、夕暮れって何で赤いのかな」
「は?何だよ急に」
「お前知ってる?」
「光の中で赤が一番遠くまで届くから」
「え、まじで?」
「まじだよ。調べてみな」
ほー、と三井は息を吐くように小さく言った。ああそうだ、三井は聞こうと思った。あのカフェで、なぜあんなことを考えたのか、今なら答えが出る気がしたのだ。
「なあ」
「今度は何?頼むからもう余計なこと喋るなよ」
「お前の好きな奴って誰?」
そう言うと、水戸は盛大に溜息を吐いた。そして煙草を灰皿に押し付け、今度は呆れたように息を吐く。
「もう、まじで殴りたい」
水戸はベランダの柵に額を付け、脱力したように柵に腕を伸ばしていた。三井はそれを眺めながら、水戸に掛かる赤を眺める。あの頃、高校生の頃、三井は水戸には色が無いと思っていた。もしくは無彩色で、その中には何があるのかと、そう思っていた。けれども違った。彼は多分恋をしていた。そして今も。以前なら三井が騒ぎ立てていた言葉も呆気なく流していたのに、今は違う。変わっていないと思っていたけれど、決してそうじゃなかった。
三井は首元に手をやり、あの首の痕を思い出す。この男が恋、三井は赤に塗れた男を無理矢理引き寄せ、その唇に口付けた。しばらくの間、水戸の唇と舌を堪能してから体を離す。
「余計なこと喋るなっつったろ」
「お前の反応が見たかったんだよ」
「趣味悪いな、あんた」
そう言って視線を下げて笑う水戸を見て三井は思う。恋を知らなかった男が恋に堕ちる様を今日初めて見た気がした、と。
夕暮れに満ちる水戸は、いつになく美しい。





終わり

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