短編

□白い皮膚に棘
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水戸さんの優しさは残酷ですね。
パソコンのキーボードの音だけが事務所内に響く中、経理の職員が去り際に言った台詞を思い出した。なぜ彼女がその言葉を発したのか、水戸には分からない。ただ、三井が静岡遠征から帰って来た翌日の月曜日、彼女の様子は少しだけ違ったように見えた。彼女から聞かれたのだ。夕方事務所で仕事をしていた時、遥が退社する直前にその口は開いた。「水戸さん何か変わりました?」と。いえ別に、そう返したけれど彼女は俯いて笑うだけだった。そして、お先に失礼します、と言って事務所を後にしたのだった。その様子が、少しだけ変わったように見えた。
今日は週の中日だった。水曜日や木曜日は残業をすることが多い。それは今日も然り。つい二時間ほど前、彼女は水戸にとって謎の言葉を残して去った。まあ気にすることでもないか、そう思いながらキーボードを叩いていた。その時だった。ぶつり、と何かが断線したような鈍い音がした直後、パソコンのデスクトップが真っ暗になったのだ。
「は?」
水戸は自然と声を出していた。
「え、まじで?」
更に声を出した。想定外の展開だった。普段通りに仕事をしていて、今まで急に電源が落ちることなどなかったのだ。データ保存もしていないので、今までの二時間分の仕事が全て水の泡だ。水戸は一度溜息を吐いた。けれども、落ちて消えたものを嘆いても仕方ないと煙草を一本取り出し火を点けた。三口ほど吸って一息付いて、淹れていたコーヒーを飲んだ。もう温くなって決して美味いとは言い難いそれに、もう一度口を付ける。
煙草を咥えたまま、もう一度電源を入れてみようと、電源ボタンを押した。しかしディスプレイは暗いままだ。電源すら入らない。こりゃまずい、そうは思ったけれど、特に焦燥していないことも確かだった。それよりも、パソコンを修理に出す方がまずいのだ。仕事にならない。とりあえず少しの間待ってから、電源ボタンをもう一度押してみようと決めた。煙草を一本吸い終わり、今日はいつ帰宅出来るかを考えた。当分無理かもな、と他人事のように考えながら、パソコンの電源が落ちた要因を探った。まずは熱関係を疑ったけれど、ファンの埃はつい先日掃除したばかりだった。電源もタコ足配線はしていないし、やはり内部の問題かもしれない。水戸はもう一度溜息を吐いた。
とりあえず社長に電話して朝一で業者に連絡、そう思って水戸は作業着のポケットから携帯を取り出した。その時ちょうど、着信音か鳴る。相手は三井だった。時間はちょうど八時だ。彼もそろそろ終わる時間かもしれない、そう思いながら水戸は通話ボタンを押した。
「はい」
『おう、オレオレ』
「はは、何それ。詐欺的なやつ?」
『アホか、ちげーよ。あー、お前今職場?』
職場なんだけどね、そう言ってから水戸は真っ暗になったディスプレイを見遣る。何かを感じたのか三井は、どうした?と聞いた。
「パソコンが動かねえの。もうお手上げ」
『はは!まじで?』
「笑いごとじゃねえっつーの。あんたパソコン得意なら何とかしてよ」
『つーか、今お前の職場に向かってんの。チームのヤツが藤沢だから乗っけてもらってる。あと十分くらい』
へえ、水戸はそう言った。パソコンが得意かと聞いたものの、三井がこれを直せるとは到底思えなかった。それでも、向かっているとなれば、まあいいやとは思った。じゃあとりあえず事務所来て、そう言って水戸は携帯を切った。作業着のポケットにまた携帯を戻し、水戸はもう一度煙草に火を点ける。あの人が来たら、新しくコーヒーでも淹れようと自席から立ち上がった。窓際の棚に置いてあるケトルのスイッチを入れ、温くなった水を温める。ケトルの湯沸かし音が、静かな事務所内に酷く響いた。
水戸は煙草を吸い込んで、煙を吐き出す。何となく緩慢に揺れるそれを目で追いながら、そういえば彼が事務所内に来るのは初めてだと知る。就業時間外の来客など、普段は有り得ないことだった。まあいいか、水戸はそう思った。誰も来ないだろうし、と。
短くなった煙草を灰皿で潰し、少しの間棚に縋って天井を仰ぐ。それからもう一本吸おうと、自席に足を運んだ。机の上に置いてある煙草を手に取り、一本取り出して火を点ける。その内、外から足音が聞こえた。直後事務所のドアが開き、三井が来たことが分かった。水戸は咥え煙草のまま、右手を挙げる。おう、三井は一言言うと、空いたスツールに座った。あ、水戸は一瞬だけそう思った。ただ、あ、とだけ。
「悪いね、コーヒー飲む?」
「ああ、サンキュ」
水戸はその、あ、と思った自分が妙だと思った。何かがおかしいと、その何かが掴めないまま、もう一度窓際の棚に向かう。インスタントコーヒーの蓋を開け、粉を使い捨てのカップに入れた。そしてケトルから沸いた湯を注ぐ。自分のも淹れようと、同じ作業を繰り返した。湯気と共にコーヒーの香りが漂った。変な感じ、理由もなく、水戸はそう思った。この人がこうしてここに居てこのスツールに座っている。座っている三井を見下ろしてコーヒーを渡しながら、水戸は足元がどこか覚束なくなるのを感じた。覚束ないというより、足の裏がざわざわと揺れて、地面を上手く踏んでいないような、とにかく何かが妙だった。
「何で急に動かなくなったんだよ」
「え?」
「え、じゃねーよ。パソコン」
「ああ、俺にもよく分かんねえんだよな。いきなり真っ暗になって……」
そう言うと水戸は、コーヒーカップを手に持ちながら、自席に向かった。立ったままもう一度電源を入れる。けれどもやはり、うんともすんとも言わない。参ったなぁ、水戸は小さく呟いて、頭を掻いた。三井もそれに着いてスツールを足で動かし、水戸のパソコンを覗き込む。見下ろした先には、三井が居た。それは酷く新鮮だった。と同時に、何かが疼いた気がした。右手が酷く痛いと思った。
「お前の作業着姿って新鮮」
「え?」
三井は立ち上がり、パソコンに触れた。それから裏側も見て、熱がこもっていないか確認する為か、手を当てた。ファンの埃とか?そう聞いた三井の声は、酷く静かだ。水戸はその問いに対し、こないだ掃除してる、と簡潔に答えた。ふーん、と返答する彼はどこか、視点が定まっていないように見える。また右手が痛い、水戸はそう思った。
「毎朝私服で出勤するだろ?だから見たことねーし」
いいな結構、三井は続けてそう言うと、俯いて笑った。確かに、洗濯物で現物は見ていても、実際これを着ている水戸を見るのは初めてかもしれない。新鮮、ねえ。水戸は呟くように言うと、コーヒーに口を付ける。それから自席に座った。古びた椅子だからか、軋む音が響く。
「なあ?」
「ん?」
「経理のねーちゃんの席ってどこだよ」
「はは、またその話?いい加減にしろよ」
言葉は荒かったけれど、水戸は可笑しくて思わず笑った。あそこまで言ったのにこの人は未だに信用してないのかと、それが可笑しいと思ったのだ。水戸は右斜め前を親指で指し、そこ、と短く言った。それに対しても三井は、ふーん、と答えるだけだった。
「お前さぁ、断ったっつってたけど、どうせその後も優しくしてんだろ。そういうのやめとけよ、残酷だから。罪悪感とかねえの?」
「罪悪感……、ねえ。ないかな」
「ひっでー奴だよ、お前は」
三井の口調は、酷く静かだった。責めるでも詰るでもなく、ただ淡々と静かに、言葉に声がそのまま乗るような口調だった。そしてスツールを動かし、遥の机に近付く。そこを軽く指先でなぞり、一瞬だけ目を伏せる。
水戸さんの優しさは残酷だね。
夕方言われたあの台詞が、三井の言葉と相俟って、また水戸の頭の中で動いた。水戸の右手の指先がぴくりと動く。残酷な優しさって何?水戸はそう思った。別に優しくしているつもりもなければ、職場の同僚以上でもそれ以下の扱いもしている訳ではなかった。だから勿論罪悪感など皆無だ。ただ、憐れだとは思っていた。その当時、手に入らない男を好きだと望むその姿が厄介だと思っていた。俺みたいだ、そう思っていた、あの時は。何をどうした所で人は一人で、誰かを愛した所で二つのままなのだ。一つには決してなれない。それなのに。
三井はまた水戸の席に近付き、何やらパソコンを探っている。やはり何の返答もない。少しの間それを繰り返し、今すぐ直る状態ではないと、二人は今更のように確認する。その間水戸は、三井の表情を追いながら、頭の中では別のことを考えていた。この場所で、水戸は遥を抱いたのだ。それ以外もした。ただ、唇にキスはしなかった。今はその場所に、同じような時間に、三井が居た。彼女を抱いた時、水戸が想像した相手は三井だった。三井を抱いているつもりでいた。また右手が痛いと思った。疼いた。指先がぴりぴりと痺れ、三井に見えない下の辺りで、掌を握ったり開いたり、それを何度か繰り返した。
ああそうか、水戸はそう思った。今なぜか、水戸は彼に対して酷く欲情していた。そしてそれとは違う何かが体の中に入り込んだ。その得体の知れない名前を、今はまだ分からない。ただ、遥の机をなぞる三井の指先を思い出して、妙に美しいと思った。この人もあんな表情するんだな、と、そう思った。
「水戸?」
「ああ、ごめん。一本電話していい?」
「どうぞ」
水戸は携帯を取り出し、永瀬の名前を出した。パソコンが壊れたことを報告する為だった。通話ボタンを押してから耳に当てると、彼はワンコールでそれに出る。
「水戸です。お疲れ様です。社長すみません、パソコンの電源がいきなり落ちて、多分内部の故障です」
淡々と説明すると、永瀬は、まじで?と言った。そして、まあ古いしなぁ、と続けたのだった。それから水戸が経緯を説明し、通話を終えた。内容は、今日はもう帰っていいということと、明日の朝一で業者を呼ぶとのことだった。水戸はそれに対し、業者は自分が手配すると告げた。最後永瀬は水戸に、お疲れさん、と言った。それに水戸は、お疲れ様でした、と返した。携帯を作業着に戻すと、水戸は視線を感じて、三井を見る。すると彼は、スツールに腰掛けたまま、水戸の机に頬杖を付いている。その状態で視線を水戸に向けていた。
「何だよ」
「いや、お前そんな風に仕事してんだなーって」
思っただけ、三井はそう言ってスツールから立ち上がり、コーヒーを飲み干した。そして使い捨てカップをゴミ箱に捨てる。
「帰るか?」
「ああ、着替えてから行くから先に車行っといて」
「じゃあ後でな」
そう言うと三井は、水戸を見ることなく事務所を後にした。水戸もその後ろ姿を見てから、カップをゴミ箱に捨てる。それから自席の下に置いていた鞄を手に取り、事務所のドアに足を向けた。その時、三井が指先で触れていた遥の机が目に入る。確かこの辺り、水戸は彼が触れた場所を同じように撫でた。また足元が騒ついて、歩き出したのにその感覚が麻痺したようだった。あの人を抱きたい、そう思った。単純に、ただそう思った。
事務所のドアを開け、傍にあるスイッチを押して電気を切る。それから鍵を掛け、更衣室に向かった。更衣室は当たり前に真っ暗で、室内はしんと静まり返っている。水戸は自分のロッカーを開け、エンジニアブーツと作業着を脱いで、私服に着替えた。ロッカーを閉めると、鉄の擦る音が耳鳴りのように妙に耳の奥に残る。更衣室から出て駐車場に向かう途中も、まだそれは感じていた。水戸が三井の姿を見つけたその時ようやく、耳鳴りのような音が鳴き止む。
三井は水戸の車の助手席側のドアに体を預け、どこか違う場所を見ていた。段々と二人の距離が近付き、水戸は車の鍵を開ける。三井は何も言わず助手席のドアを開けたので、水戸も運転席に回った。車に乗り、エンジンを掛ける。その時、水戸は三井を見た。
「え、何?」
そう言った三井に水戸は、キスしたい、と小さく言った。そしてその直後、彼に口付けた。三井の頭を掴み、舌で唇を開けて捩じ込んだ。水戸はその時、三井が遥の机を触れていた指先を思い出した。あの指が酷く美しいと、伏せた目に欲情した。もしも三井が遥とのことを知ればどう思うのだろうか、今まで頭の片隅にもなかったことを、水戸は考えていた。
俺を怒鳴る?それとも詰って侮蔑する?いや、今度こそ本気で失望するのかもしれない。この指と目が、俺を掴んで引き摺るのかもしれない。泣いて叫んで、きっと酷い顔で俺を見る。
水戸の身体中が泡立った。目の前には呼吸の乱れた三井が居て、このままここで犯してやりたいとすら思った。泣いて欲しい、そう思った。水戸は今まで、三井を除く他の誰に対しても自分の欲求を向けることはなかった。むしろ欲がなかった。ましてや泣いて欲しいだなんて、誰にも思わなかった。それは三井に対してさえ。そんな欲求があることすら知らなかった。あの時感じた得体の知れない何か、それは興味だ。この人があれを知ればどうなるのか、単純に興味があった。
こんな感情、俺は知らない。知らなかった。
水戸は唇を離し、三井の指に触れる。今度はこの指に口付け、それから舐めた。三井の体が揺れる。その目に欲が生まれる。もっと見たい、水戸はそう思った。
「今ここでしてもいい?」
「は?勘弁しろよ」
「だよね」
「お前は……」
「ん?」
「お前はナイフみたいだって時々思う」
「何それ」
水戸は三井の指から自分の指を外し、今度は自分の唇を親指で撫でた。三井の視線を感じていると、彼は水戸の頬に手をやり、そして撫でた。
「目も指も、突き刺さる。それ自体が暴力みたいに」
「褒め言葉だよな?それ」
「はは、どうだろ」
撫でられている手を包むように、水戸は三井の手の甲を覆った。
罪悪感って何それ、残酷な優しさなんて知らねえよ。ただ泣いてるこの人が見たくなっただけだ。
棘のようにその欲求が、身体中に突き刺さる。それは疑いようもない、単純な興味。





終わり

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