短編

□迷い子の愛し方
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その声に振り返ると、風呂上がりの水戸がソファの後ろに立っていた。分かんねえ、三井が言うと、水戸は薄く笑った。そして、よいしょ、と小さく言うと三井の隣に座る。その姿を追うように見ると、すっかり普段の水戸に見えた。水戸はいつも、髪を乾かしてからリビングに戻って来る。癖も特にない髪質だからか、ドライヤーもざっと当てて半乾きのままの状態で、大概このソファに座り、一杯飲む。今日もその流れだった。水戸がグラスに口を付けるのを横目で見遣っていると、嵐のようだったあの時間がどこか曖昧に感じた。その一瞬一瞬は酷く鮮明なのにもかかわらず。時間に換算すれば凡そ十分か二十分にも満たないあの流れが、どこか覚束なかった。それはきっと、変わりなく水戸が優しいからだ。彼は普段から優しかった。けれどもあの一件があったからこそ余計に、三井は水戸の優しさを顕著に感じ取った。毎日そこにあるものは当たり前じゃない、それが嫌という程分かった気がした。
「どうした?」
「あ、いや、当たり前じゃねーんだよなって」
「何が?分かんねえよ」
「お前優しいし」
「優しくないだろ、ほんとごめんね。こんなんで」
そう言うと、水戸は自分の首を人差し指でとんとんと突いた。消える、また三井はそう思った。もう一回、と言いかけた所で、変態か!と心の中で自ら突っ込んでかぶりを振った。
「飯とか掃除とか、オレなんもしてねーし」
「はは、そう思うならやれよ」
「だってお前いちいち文句言うじゃねえか!角の埃から始まり油汚れだのたたみジワだの!小姑か!」
「最近言ってねえだろ」
「単にめんどくせえだけだろ!」
「そうとも言うね」
水戸はまた、そう言って笑った。三井は不意に見せられたその表情に、土曜日の朝、泣きたくなったことを思い出した。その気持ちと今のこれが、何故だか酷似している気がしたのだった。三井は躊躇わず、隣に居る水戸を抱き締めた。こいつを離しちゃいけない側に置いとかなきゃいけない、迷うことなくそう思った。
「お前休日出勤しなかったの?」
的外れな質問だと、自分の語彙力の無さに三井は呆れる。抱き締められた水戸は、三井の背中を撫でた。
「今週はしてない。仕事はあったけどね、まあいいかなって」
「へえ」
そこで三井は、あ、と思った。何故か今、急激に思い出したのだ。三井は未だに、気掛かりなことがあったことを今不意に思い出したのだった。水戸の体を離し、彼の顔を見る。
「そういやお前、経理のねーちゃんとどうなったんだよ」
「は?何だよ急に」
「ずっと聞こうと思ってたけど今思い出した」
「別にどうもなってねえよ」
「あの女はぜっってえお前に気があんだからな、気を付けろ」
「もうないんじゃない?彼氏出来たって……」
と、そこまで言った所で水戸は小さく、あ、と言った。
「もうないって何?」
水戸は黙っている。それを見て三井は、ただ思った。こんのクソガキ!と。
「てんめー!やっぱり浮気してんじゃねーか!」
「だから断ったんだって!大体浮気ってなんだよ、したことねえっつってんだろ何回言えば分かんの、いい加減にしろ!」
「あーあーあー!認めやがった!認めやがったなてめえ!もう永瀬モーター辞めろ!明日辞めろ!」
「はあ?!アホか!」
「アホで結構!」
三井が勢いのまま言うと、水戸は絶句した。あんた何言ってんの?そう言いたいのに言えない、と言った所だと三井は思う。
「あのさ」
水戸は軽く俯いて、息を吐きながら言った。三井は彼から顔を背け、水戸の顔は見ない。
「浮気って多少なりとも気持ちがないと出来ないもんじゃねえの?好きかどうかは別として、例えば興味本位とか綺麗な人だからとか。そんな軽いもんでも、逆に一瞬にして好意をもったとか、そんな重いもんでも何でもいいんだけど」
水戸の言葉に、三井は彼に向き直した。考えてみれば、三井は水戸に浮気だ何だと騒いだことはあれど、そのことで水戸から彼なりの持論でも何でも、意見を聞くことはなかった。もっとも、三井が人の話を一切聞かないこともあるのだけれど。
「俺はね、あんた以外そういう気持ちも湧かねえんだよ。分かる?興味がない。その気がない。分かった?」
そう言って水戸は、三井の顔を撫でた。騙されるか、そう思った。思うのに、水戸の手が優し過ぎて、その手に自分の手を重ねるしか出来なかった。それでも三井は、水戸の視線を一瞬でも誰にも渡したくなかった。経理の女の好意を断ったその瞬間でさえ、水戸が彼女のことを一時でも考えていたことが憎いと思った。
「ムカつく」
「ごめんね」
「お前はオレのもんだ」
「好きだよ」
「そうやって!騙そうとしやがって!」
「あーもうめんどくせえな!」
「浮気者!」
三井が言ったその直後、水戸は舌打ちをした。今度は三井が絶句した所で、今度は水戸の手が三井の首筋を撫でる。その感触に、三井の体が粟立った。ぞわりとした震えのようなものが、体中に伝染する。水戸の指はオレを狂わせる、三井はそれを身を以て知る。
「このやり取りまだ続くの?もうどうでもいいだろ」
触らせろよ、そう言って水戸が三井の体を緩く押した。抵抗する余地も気もないこの体は、簡単にソファに横たわる。
「消えそうだね、首の痕」
また水戸の指が、三井の首を撫でた。もう一度、と言い掛けて唾を飲み込んだ所で、水戸の唇がそこに近付く。ちくりとした痛みが襲い、噛まれたことは簡潔だった。もっと、そう思って息を吸った。
「見る度に嫌気が差すのに、本当はこれが消えなきゃいいって思ってる」
次は思い切り吸われて、またちくりとした痛みが襲う。どうせ明日も隠さなければならない。どうでもいい。もうどうでもいい何でもいい。
「あんたは俺のもんだ」
泣きたくなるってこういうことだ、三井はまた同じことを考えた。ずっと水戸が欲しかった。欲しくて欲しくて堪らなかった。それが叶うなら抱かれるくらい何てことなかった。そう思っていたのが高三の夏の終わりだった。それから十年経った。一年経とうが五年経とうがそれが十年に変わろうが、三井が水戸に焦がれるのに変化はなかった。ただただ渇望していた。渇いていたのだ。水戸が居ないと三井は渇いていた。喉がかさかさして、それがないと全てが成立しなかった。三井は自分をおかしいと思っていた。変だと。こんなに渇望して、キスをしても抱かれても、尚欲しいと願うのはおかしいからだと。でも違う。そうじゃない。三井はそう思った。ただ好きだからだ。この迷い子を好きだからだと。子供なのか大人なのか分からない水戸洋平を好きだからだ。
このまま抱き締めたら無くならないかな、と、三井は普段なら考えないことを思った。閉じ込めておきたい、そう考えながら、三井は水戸に身を委ねた。
その日の夜は、いつ眠っていつ起きていたのか分からなかった。もう無理、そう言った。けれども水戸は、ダメ、と返した。掻き回された箇所が痺れた。それでも水戸の指と水戸の物だと思うと三井の体は反応した。まだ足りない、そう思っていたのは三井も同じだった。何度も口付けて、至る所に痕を付けた。付けられた。久し振りに乱暴に痛くされた。引き千切るように噛まれた。それが快感で堪らなかった。水戸の目を見て欲情した。この目をこの場所に置いておきたいと心底思った。夜が明けて欲しくないと思ったのは初めてだった。好きだと言うと、俺も好き、と返された。もっと言え、と言うと、口元だけで笑った水戸は、三井に口付けた。舌を入れて掻き回した。その舌を引っこ抜きたいとも思った。今この瞬間に全てが終わっても後悔しないと思ったことも初めてだった。これが現実であることに、三井は体の芯から震えた。
その内、水戸がベッドから起き上がった。三井はそれを目で追い、知らぬ間に手を出していた。水戸の手首を掴んだ。
「何?どうした?」
「どこ行くんだよ」
「どこって、もう朝だよ。仕事」
めんどくせえなぁ、水戸はそう言って欠伸をする。立ち上がろうとする水戸を、三井は体をずるずると動かし追い掛ける。そして背後から近付いて寝たまま腰の辺りを抱き締めた。
「だから仕事だって」
苦笑して振り返る水戸を見上げると、また優しい目に戻っていると思った。
「あんたは?今日は午後から?」
「うん」
「食えそうなら適当に作っとくよ」
「うん」
「おい、どうした?」
「なあ」
三井の問い掛けに、水戸が緩く三井の手を撫でる。それを合図に、三井はその手を離した。少しだけ、離すことが怖いと思った。
「今日ちゃんと帰ってくるよな?」
その問いに、水戸は一瞬だけ動きを止める。そして柔く笑うと、三井に近付いて口付けた。
「俺が帰って来る場所はここしかねえよ」
ああそうか、と三井は思った。何度も泣きたくなる理由がようやく分かったと、三井は思った。この迷い子が居る場所は、帰る場所は、愛している人は、自分だと実感したからだ。もう彼が迷い子でも何でもないと、ここしかないのだと、それに三井は訳もなく泣きたくなるのだと、今はっきりと分かったのだった。


終わり
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